言葉は、必要ですか?

サトウ・レン

side.S

「雨、降ってきたね」




 誰だったかは忘れてしまったけれど、部屋にいた誰かの言ったその言葉で、窓の向こうの細かに降る雨の音に気付いた。


 その部屋にいるのは男女合わせて七人。女性は私を含めて三人だ。全員がかつて同じ小学校に通っていた同級生で、揃うのは卒業以来はじめてのことだった。


 久し振りに昔馴染みで集まりたい、と有紀から連絡を受けて、私はいま彼女の住むマンションにいた。上司の冷たいまなざしを見ない振りしながら取った休みで数年ぶりに訪れた地元は、当然あの頃とは違う様相をしていて、建物の変化が特にそれを強調し、私の知らない風景を形作っていた。近く職場の転勤で地元に戻ってくる予定もあったので、事前に新たな町並みを見れて良かったのかもしれない。


「本当にひとり暮らしなの?」ひとり暮らしにしては広めのその部屋を眺めながら思わず出た言葉に、


「都会と違って、家賃が安いから」

 と缶ビールを片手に有紀が言うけれど、もちろんそれはただの謙遜だろう。彼女は地元ではかなり有名な企業に勤めていて、具体的な額を聞いたことはないが、言葉の端々からそれなりに想像はできる。


 テーブルを囲む顔はみな幼い頃から知っていて、当時の面影を残しているから、どれだけ会っていなくてもすぐに判別できる……と言いたいけれど、本当に卒業してから一度も会っていなかったとしたら、分からなかっただろう顔も多い。間違えようがなかったのは、全員が揃うことのないまま、彼らとはそれぞれ卒業以降も私の人生の色々な場所で交差する機会があったからだ。


 ただ、ひとりを除いて――。

 だけど再会してすぐに誰だか分かった。


 私が座るテーブルの反対側で、その口数のすくないあなたは、穏やかな笑みを浮かべながらも積極的に会話には参加しようとしなかった。全員に対して、すこし距離感がありつつも、嫌な感じを与えない雰囲気があなたにはあった。


 有紀があなたを呼んだ、と知った時、あなたとの繋がりを有紀が残していたことに胸が、ちり、と痛んだ。


 同い年だけど、すこし大人びて見えるあなたに私は思わず「久し振りです」と敬語を使ってしまい、あなたは私の言葉に一度首を傾げた後、「うん。久し振り」と答えた。


 もうすぐ集まりも終わりを迎えようとしていたのに、私とあなたのやりとりはそれだけだった。せっかくだからあなたともっと話したい、という想いとは裏腹に、私の行動は明らかに幼い頃の距離感を引きずっていた。こんな十年近くも経って馬鹿みたいだと思うが、長く貼り付いた苦い記憶というのは簡単に剥がれるものではないのだ。


 芯の折れた鉛筆、すねに付いた黒と、その周囲に広がった少量の赤――。今ならあの頃の想いを聞かせてくれるだろうか。いや今さらそんなことを聞いたところで、あなたの困惑する表情しか浮かばない。


 かつて私たちの間にあった溝を埋めて距離を縮めることができたなら、大人になった私たちは新たな関係を築き、そしてあわよくば。……と、そんな感情が急にわいたことに驚き、私は慌てて頭からその想像を振り払う


「雨、強くなってきたね」


 それは誰かの言葉ではなく、私の口から思わず出た言葉だった。窓越しに激しさを増す雨の強さに、ふと外へと目を向けてしまっていた私の言葉に反応するように、「傘、忘れた……」とぽつりと呟いたのは、あなた、だった。


 雨と、そしてあなたに残る幼い頃の面影を見ながら、私はあの日を思い出していた。




     ※


 


 事の始まりは、六年生になってすぐの頃の、ちょっとした諍いだった。当時から過疎化の進んでいた私たちが通っていた小学校にはクラスがひとつしかなく、クラス替えもないので、どれだけ嫌いなひとがいようとも六年間を一緒に過ごさざるをえない環境だった。そんなクラスにあって、良く言ってもガキ大将、悪く言えば暴君。そんな周囲からすこし距離を置かれていたクラスメートがいた。名字は忘れてしまったけれど、下の名前はコウジくんだったはずだ。


 コウジくんは口も悪いけれど、言葉よりもすぐに手が出るタイプで、私たちは彼をどこか腫れ物を扱うように接していた部分があったように思う。


「あなたたちはとてもいけないことをしている」

 とその雰囲気を察した担任の和音先生から、何度もそう諭されたことがあった。めずらしい、名前のような名字の女性の先生で、いわゆる熱血で、優しい先生だった。生徒からの信頼も厚かったけれど、私はすこしだけ苦手意識があった。


「あなたたちの行動がどれだけあの子を傷付けている、と思う?」


 あの子、とはコウジくんだ。


 だってコウジくんが悪いし、それに……。そんな声にならない反撥があった。コウジくんはどこか周囲から距離を取ろうとしているところがあり、腫れ物として扱われていることを喜んでいるように、当時の私には見えた。もちろんそれは私にそう映っただけの話で、彼の真意は彼自身にしか分かるものではなく、もしかしたら彼自身もよく分かっていないのかもしれない。


 人の心を分かりなさい。和音先生が好んで使っていた言葉は、他人の気持ちを考えなさい、という言葉とは似て非なる。分かってあげる、という言葉を疑いもしない先生の言動に違和感を覚えていた。その漠然とした違和感をもうすこし成長した十代なかばの頃に友人に、懐かしむように話した時、「屈折してるね」と言われたことがあり、私にとってはそれが自然だったから、屈折、という言葉がやけに意外な音として耳に残った。


 そんな先生にとって、口数のすくなくて物静かなあなたはどんな風に見えていただろうか。手の掛からない真面目で御しやすい生徒? 反抗心のすくない物足りない生徒? 結局先生の真意だって私には分かりようがなく、私自身の目で判断することしかできないのだけれど、安易に口に出すことにはためらいがあった。


 そこの部分の考え方に齟齬があったからこそ、私は今も先生のあの行動を許せずにいるのかもしれない。


「おい、ブス!」

 音楽の授業で教室から移動しようと席を立った私に後ろから言葉を投げてきたのがコウジくんだった。またか、と私はコウジくんに聞こえないよう、ちいさく溜息を吐いて、そのまま振り返ることもせずに教室を出ようとした。


 傷付いていない、と言えば嘘になるけれど、別に私に対してだけこういう言動をするわけではなく、コウジくんは誰彼構わず似たような言葉で相手を罵っていたので、いつものことか、という思いのほうが強かった。


 ただその日はあまりにもしつこく廊下でも背後にくっ付いてきて、「ブス、ブス!」と連呼してきたので、途中で我慢ができなくなり、声を出そうと――、

「静かにしろよ」

 ――したところで、私のものではない声がコウジくんに向けて飛んでいた。声変わりがすこし早く訪れたその低めな声、聞いた瞬間にあなただと分かった。


 コウジくんがあなたを睨み、私は喧嘩になるんじゃないか、と不安になったけれど、思わぬところからの攻撃にたじろいでしまったのか、彼は「ふんっ」と鼻を鳴らして遠くへ行ってしまった。コウジくんは身体も大きく腕っぷしも強かったので、表立って言い返されることには弱かったのかもしれない。


「ありがとう」

 と隣に行って声を掛けた私に、あなたは何も言わず小さく首を横に振った。


 これから起こることなど知りもせず、私はそんな出来事とあなたの横顔にどきどきとしていた。


 それは放課後のことだった。


 思ったよりもコウジくんの言葉が尾を引いていたのかもしれない。なんとなくその日はすぐに帰りたくない気分で、教室の窓から雨で水たまりをなした校庭を見ていると、男子生徒ふたりが傘の先をぶつけあいながら遊んでいた。


 あの時、すぐに家に帰っていればまた違う結果になったのだろうか。


 そんな後悔をしたところで過去が変わることはないけれど、その想いは消えない。


 ひとのすくない静かな放課後には似合わない悲鳴が、私ひとりしかいない教室にまで突然響いてきたのだ。


 びっくりしながらもその声のした場所へと駆けるようにして向かうと、男子トイレ前の廊下ではふたりの生徒の周りを数人の生徒が囲んで、ざわざわとしていた。


 座り込み泣いている生徒がまず目に入った。短パンの下のすねに小さな黒い点があり、その周りに少量の赤が広がっていた。その小さな黒が、飛び出た鉛筆の芯だと気付いたのはすこし経ってからだった。私も含めて誰も動けず、見ることしかできなかった。


 座り込み泣いているのはコウジくんで、そんな彼を見下ろしていたのがあなただ、とようやくそこで気付いた。


「何してるの!」


 その声は駆け寄ってくる和音先生のもので、周りを囲んでいた私たちは先生の通り道を作った。


 見開いた目とともに先生はコウジくんの前にしゃがみ込み、もともと常備していたのだろう絆創膏を貼った。


「あなたがやったの――」先生の言葉は静かだったが、返答を強く求める響きがあった。


「はい」

 と答えたあなたに、「どうして?」と先生が聞いた。その言葉にあなたは一切返答せず、ただ沈黙を貫くだけだった。


「何、言われたのかは知らない。だけどコウジくんの普段の行動だってもちろんそうだけど、あなたの行動だって許されるものじゃない。怒ったのなら言葉にすればいいだけ。暴力を振るっていいわけがない。あなたがやっているのは最低のことよ。何か言いなさい」先生の言葉は正論で、優しいものだったけれど、やっぱり違和感が拭えなかった。あなたの真意を考えようとはせず、そこにある沈黙を怒りとしてしか捉えようとしていないように、私には見えた。もちろんやっぱりそれが先生の真意という確証もないから、もやもやと口に出せない違和感を抱くことしかできないのだけれど……。「なんで言葉にしてくれないの?」


 その沈黙は本当に怒りなのだろうか。悲しみなのだろうか。それとも――。


 勝手にその沈黙に意味付けしないで――!


 とにかく私はそう叫びたかった。言葉にしないのは言葉にならない想いがあるからだ、とその時の感情は今ならそう整理することも可能だが、あの頃の私はもやもやとしたものを胸の内に残すことしかできなかった。


 何故、私は叫びたかったのだろう。

 何故、あなたの感情を決め付ける先生に、怒り、を投げ付けたかったのだろう。

 あなたの中に、私が、怒り、を見つけることができなかったから……?


 もちろんそれもあったはずだ。だけどそれだけではなかった。

 それ以降、最後まで沈黙は続いた。すくなくとも私の見ている間は一度も、あなたは自分の感情を言葉にしようとはしなかった。


 後から来た別の先生にコウジくんが保健室に連れて行かれた後、


「あなたは職員室に来なさい!」と、あなたは和音先生と一緒に職員室に行ってしまい、残された私たち周囲の野次馬は散り散りになり、取り残されるようにその場にいるのは私だけになった。


 私のせい……? 私のため……?


 責任感なのか罪悪感なのか、それとも……。私はこのまま帰る気にはどうしてもなれず、正面玄関であなたが出てくるのを待った。


 雨は変わらず降り続けている。


 下駄箱にあなたの姿を見つけ、私はひとつ大きな息を吐く。私はあなたのもとへと向かった。周りには誰もいない。


「ごめん。私のせい、なんだよね」前置きのない私の言葉にあなたが目を大きく見開く。「朝、あんなことがあったから因縁付けられて」


 あなたが私に近付き、

「自意識過剰」

 と、ちいさな声で言った。穏やかな笑みを浮かべたまま。


 どういう意味……?

 そこに甘い感情がかすかに広がる。


 あなたはそれ以上、何も言ってくれなかった。その意味を私は知りたかった。分からないから考えたけど、考えても分からないから。きっとその真意は私には一生分からなくて、勝手に想像して意味付けするしかないのだろう。


 結局、私もやっていることは先生と一緒だ。

 言葉にして、お願いだから――。

 そう思った瞬間、私の熱っぽくなった感情が急速に冷えていく。


 表情は柔らかいままだったけれど、「じゃあね」と別れの言葉だけを残してあなたは遠ざかっていった。雨の中を傘も差さずに、駆けていく。


 あなたの背中を見ながら、たったそのふたことが甘くも苦く、そして重くのしかかった。


『ねぇ、好きな男の子、いる?』


 五年生の時に有紀から言われた言葉を思い出す。『いない』と言いながらも頭に浮かべた顔は、あなた、だった。


 この一件以降、深い溝ができたように、私は気軽にあなたに近付くことができなくなった。


 卒業とともにあなたは私立の中学校に、私は住んでいた地区の関係であんまり小学校時代からの同級生のいない公立中学校に入り、有紀の開いた集まりであなたの姿を見つけるまで、一目見ることさえなかった。


 今となってはこんなにチープな言葉もないと思うけれど、あれは確かに初恋だった。


 一度も言葉にしたことはない。


 言葉にできなかった、言葉にならない想い――。




     ※




 こんな成人もこえた年齢になって、小学生時代の初恋を引きずっているなんてバカバカしい話だけど、恋愛感情と一言で言い表すのも違うような気がした。ただあなたへの興味は間違いなくあった。


 ひとり、またひとり、と帰っていき、いつの間にか室内に残っているのは、私と有紀、そしてあなたの三人になっていた。


「帰るなら、今がチャンスじゃない」

 と有紀があなたに向けて言った。先ほどまで降っていた雨は弱まり、傘を忘れたあなたにとっては絶好のタイミングだった。


 だけど……、


 あっ、行っちゃうんだ……、と酒の酔いと過去の感傷のせいか、私は寂しい気持ちになってしまった。


「あぁ、うん……」

「なんか煮え切らない返事だね。傘、忘れたんでしょ。いや貸してもいいけど、金、取るよ」と有紀が親指と人差し指で円を作る。


「わ、私もそろそろ――」

 その会話に割り込んだ言葉に有紀が意味深な笑みを浮かべた。


「ねぇ、夜道に女の子帰すのって危ないと思わない?」有紀があなたに言った。「駅まで送ってあげてよ。傘、一緒に入れてもらってさ」

「その後は?」とあなたが困ったようにほおをぽりぽりと掻く。


「駅で傘でも買ったら。本当に貸してもいいんだけど、またいつ会えるかも分からないじゃない」

「ん? うん。まぁ、そうだね……」


 淡々と返すあなたを見ながら、本当に無口だなぁ、と思う。


 結局あなたと私は有紀に別れを告げた。部屋を出る間際、彼女が私にだけしか見えないように私にウインクした。とりあえず有紀の勘違いに感謝しよう。


 傘はあなたが持ち、私がそれに入れてもらうような形になった。お互いの反対側の肩を濡らしながら、駅へと向かう道すがら、私たちの間に会話はなかった。名残惜しい、という感情からあなたと一緒にいることを望んだけれど、当時のことを掘り返したいわけでもなければ、特別何か話したいことがあったわけでもない。そのことを自覚して私は戸惑ってしまっていた。


 じゃあ私は、どうしたいんだろう?


 よく分からない。結局私は私の感情さえよく分からなくて、それは仕方のないことなのかもしれない。そして自分でさえ分からない感情を、他人に分かったような顔もされたくない。


 市の名称が変わってしまい、地名と駅名の整合性の取れなくなってしまった地元の駅に着き、自動ドアの前の庇の部分を利用して雨に濡れないようにしながら、私たちは立ち止まった。


 どちらかがしゃべりだすのをお互いが待つように、無言の時間が続いた。


「今日、有紀に呼ばれたんですか?」

「また、敬語だね」


「仕方ないじゃない……。本当に久し振りだったんだから」

「まぁそうだね。うん。今日の朝に急に来て欲しいって」


「まだ、こっちに住んでいるんだよね?」

「うん。ここから歩いていけるくらい」


「そっか」

 生産性のない会話が続くけれど、生産性のある会話こそが私たちには必要ないのかもしれない。


「じゃあね」

 と折りたたんだ傘を私に渡して、遠ざかろうとするあなたが幼くなり、過去の光景が重なる――、


「待って!」

 と引き留める。


 あの日と違って振り返るあなたの姿はもう大人に戻っている。

「あの、また会えませんか?」

「また、敬語だね」


「駄目?」


 あなたは困ったような、だけどあの頃を思わせる笑みを私に向けた。

 何も言ってはくれなかった。


 だから私はその表情を好意的に想像するしかないのだ。本当の気持ちなんて、本人にだって分からないかもしれないのだから。


 私はあなたに傘を手渡した。


 また会いましょう。言葉にはしなかったけれど、そんな意味を忍ばせて。あなたがそれをどんな風に想像したかは分からない。


 今のところまだ、再会の日は訪れていない。


 傘を差すあなたの背中を見送りながら、あなたとの再会した日々を描きながら、その想像は現実になると確信していた。


 

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