第29話 嘘つきと病みつき④【完】

 その後、それまで怒りに満ちていたつばきは急に切ない表情に変わった。

 彼女は「テツロー君、テツロー君……」とむせび泣くような声を上げる。その見事な泣きの演技は自然と周囲の涙を誘った。

 俺は涙を流す彼女の前で立ち尽くす。容赦のない罵声と嫌悪の視線の中、膝からゆっくりゆっくりと崩れ落ち、床に頭を擦り付けるのだった。

 放課後の職員室。

 俺とつばきは大宮と工藤先生に謝罪に回った。

 昼休みの騒動は哀愁あいしゅうを帯びたつばきと迫真の土下座を魅せた俺で話題は持ち切り。巻き込んだ工藤先生の評判を傷つけずに済んだ。大宮? あいつはどうでもいい。

 つばきは深々を頭を下げて、先生に謝罪をしていた。だが、当の本人は死んだ目をして、全く聞いちゃいない。心なしか視線は、つばきの胸を捉えていた。彼女が頭を下げるたびに、大きな胸が小刻みに揺れて、先生の眉根まゆねもぴくっと動いた。

 帰り際、工藤先生は俺の顔を見ると、ニヤリと薄気味悪うすきみわるい笑みを浮かべる。その瞬間、冷たい戦慄せんりつが全身を走り抜けて、俺は生きた心地がしなかった。

 ……先生、あんた病んでるよ。父さんがいないからって恨みの対象を息子に移すのは止めてくれ。

 俺は逃げるように職員室を後にした。

 肝心のテスト横流しついて、俺たちは見事に証拠を掴んだ。直江は充分に仕事を果たしてくれた。後は俺が西園寺を口八丁くちはっちょうで丸め込めるかにかかってる。

 俺はようやく一仕事終えた気分で安堵あんどの息を漏らす。それから、つばきを見やり、安心したように笑った。

 「ほんと、お前には助けられてばっかだ。……でもいいのかよ。また良からぬ噂が立っちまうぞ」

 「いいの。これでテツロー君は明日から私にいっぱい優しくしないと学園で居場所なくなるよ?」

 いや、怖ぇよお前……。俺は顔をひきつらせながら、つばきをまじまじと見つめる。そんな俺を見て、彼女は悪戯いたずらっぽく笑った。

 「冗談だって。それに噂なんて気にする必要ないよ。人の噂も七十五日って言うでしょ?」

 いや、七十五日って結構長いよ? 二か月半だよ。一学期終わっちゃうよ?

 けれど、つばきの言う通り、人の噂なんて放って置けばは勝手に消えていくのだ。

 「だが、消えない噂もある。たとえば、一年前の『いばら姫事件』とかな」

 「……うん、そうだね」

 彼女は神妙しんみょう面持おももちで遠くを見ていた。かすかな沈黙の後、俺は陽気な調子で彼女に声をかける。

 「つばき、一緒に帰らないか?」

 つばきは横目でちらりと俺を見ると、無言で小さく頷き返した。

 

 × × ×

 

 放課後、つばきと歩く帰り道。

 初めて一緒に帰った日、初恋の女の子、中原椿希なかはらつばきと下校。俺は興奮冷めやらず、気分は夢心地だった。そう考えると、あの頃の俺はつばき狂信者の直江と似たようなものだ。

 それから、彼女と俺はたった一か月でたくさんの時間を過ごした。つばきは普段は気さくで明るいやつだが、たまに俺にだけ嗜虐的しぎゃくてきな一面を見せてくれる。所謂いわゆる暴虐ぼうぎゃくモードってやつだ。

 この一か月でテレビの向こう側にいた憧れの彼女に、少しは近づけたんじゃないかと思う。

 それでも、俺は本当の彼女をまだ知らないのかもしれない。つばきはあまり自分のことは話さないから。

 だったらこれから、彼女の言葉で本当の彼女を知っていけばいい。

 つばきとの時間は、俺にとってかけがえのない時間だ。別に失わなくたって大切だとわかる。これはきっと青春と呼べる代物しろものなんだと思う。今ではこの帰り道の沈黙さえも愛おしい。

 そう物思いにふけりながら歩いていると、つばきの方からおもむろに口を開いた。

 「お昼のあれ、何かするつもりなの?」

 「あぁ、いっちょ足掻あがいてみようと思ってな」

 俺がそう答えると、彼女は少しばかりしゅんとして、困ったように微笑みを向ける。

 「それは……、九條さんのため?」

 「いや、あいつのためじゃない。俺のためだ」

 工藤先生のおかげで気づいた。これは俺が俺自身のために、本当のあいつを知りたいなんていう自分勝手な我儘わがままのためにやるんだ。

 俺は足を止めて、つばきを真っ直ぐに見据える。あの時、口にできなかった言葉を今度はちゃんと伝える。

 「つばき、俺はやっぱりリリアナに関わりたいって思う」

 「どうして? なんで関わりたいの?」

 彼女は瞳をうるませながら、消え入りそうな声で呟く。

 「あいつとはまだ契約が――、いや違うな」

 この期に及んでまだ認めようとしない、自分の往生際おうじょうぎわの悪さに思わず苦笑してしまう。この想いを言葉にするのは気恥ずかしい。それでも俺は一呼吸おいて、言葉をつむぎ出す。

 「好きなんだ。あいつが俺の作った弁当を美味しそうに食べるとこ」

 俺は恥ずかしさを誤魔化すように、口角を上げてにかっと笑ってみせる。そんな俺を見て、つばきは優しげな微笑みを浮かべていた。

 「そっか、私じゃダメだったか……」

 「あん? 何言ってんだ。俺はお前がいなきゃダメダメのダメ人間だぞ。今日だって、俺を打算なしで助けてくれるのはお前くらいだ」

 「えっ、でも……」

 俺が呆れてため息をつくと、彼女は驚いたように目を見開く。まったく、こいつもこいつで、まだまだ俺のことをわかってないみたいだな。

 「……たぶん今やろうとしてることが失敗したら、俺はクラスどころか学園にも居場所はなくなると思う」

 余計な一言ならぽろっと出てくるのに、小っ恥ずかしい台詞はなかなか出てこない。本人を前にしたら尚更だ。わざわざ口にするのは野暮やぼだの照れ臭いだの言うけれど、つばきにも俺の言葉で本当の俺を知ってほしい。

 「それでも俺は、お前にだけは傍にいてほしい。……厚かましいかな?」

 俺は頭を掻いて、我ながら調子のいい笑みを浮かべる。すると、つばきは目に涙を溜めて、そのまま俯いてしまう。

 「あっ……。やっぱりダメ? どうしてもダメ?」

 俺は想定外の反応に焦りながら、彼女の顔を覗きこむ。すると、つばきは顔を上げて、いつもの笑顔を俺に向けてくれた。

 「……全くしょうがないなぁ、テツロー君は。ほんと、私がいないとダメなんだから」

 待ち焦がれたその言葉に、俺は自然と顔がほころんでいた。そして彼女は再び歩き出す。俺はそんな彼女の背中を見つめながら、後に続いていく。

 「テツロー君、私さ。今年はすごく楽しい一年になると思うんだ」

 その光景を思い浮かべるように、彼女は夕焼け空を見上げる。

 「休みの日はまたデートしようね」

 「あぁ、任せろ。名誉挽回めいよばんかいだ。今度こそ完璧なデートを見せてやる」

 俺は銀縁眼鏡ぎんぶちめがねを指先で押し上げて、自信たっぷりと宣言する。

 「夏休みは一緒に旅行とか行きたい」

 「海と山はどっちがいい? まぁ、お前とならどこ行っても楽しそうだ」

 「私は海がいいな。水着買うときは一緒に来て。好きなの選ばせてあげるから」

 何だその楽しみすぎるイベントはっ! 想像しただけで、顔がだらしなくにやけてしまう。

 「夏祭り、浴衣も着てみたいなぁ。……あ、でもその前にテストか。私、勉強苦手なんだよね」

 つばきは後ろを振り向きながら、少し照れ臭そうに笑う。

 「だったら、特待生の俺が勉強教えてやる。普段から助けてもらってる分、それくらいはさせてくれ」

 「うん、お泊まりで勉強会とか楽しそう。夕食は私が作るから、夜食はお願いね」

 前回、泣く泣く逃したつばきの手料理。あのときは悔しすぎて歯ぎしりをした。

 「修学旅行に文化祭。一緒に回って思い出作りたい」

 「こちらとしても、願ったり叶ったりだ。でも、つばきは人気者だからなぁ。お前を狙ってる男子は大勢いるんだよ」

 「その時は二人でこっそり抜け出しちゃおうよ」

 彼女は俺のほうを見て、悪戯いたずらっぽく笑う。

 「年越しも一緒にカウントダウンしよう」

 「初日の出を見に行こうぜ」

 「え~、私は炬燵こたつでぬくぬくしてたい」

 つばきはがくりと肩を落として、うへぇと不満げな声を上げる。まぁ、だらだら過ごすのも悪くないか。

 「バレンタイン、楽しみにしててね」

 「母さん以外からチョコ貰うの初めてだな。お返しは腕によりをかけてやる。倍返しだっ!」

 俺は腕を組んで、ふふんと得意げに鼻を鳴らす。不意に、つばきは立ち止まって、どこか物悲しい声を漏らした。

 「……最後に、また同じクラスになれたらいいなってお願いするの」

 そんな彼女を見て、俺は思わずまったく根拠のない希望的観測を述べる。

 「気が早ぇな、まだ一学期だぞ。でも、きっと一緒だろ」

 「うん、そうだといいね……」

 彼女はくるりと振り返って、こちらに歩み寄る。心配そうな表情を浮かべて、俺の右頬に手を添えた。

 「ごめんね、思いっきり叩いちゃった。痛かったでしょ? ちょっと見せて」

 「いや、これは主に工藤先生が……」

 彼女はもう一歩踏み出して、傍に近づく。このまま手を回せば抱きしめてしまえそうな、そんな距離だ。

 つばきは明るい髪を耳にかけて、上目遣いにこちらを覗き込む。その仕草に、心臓の鼓動は自然と高まる。

 「……テツロー君は打算なしって言うけど。私ね、結構計算高い女だよ」

 彼女は俺の肩に手を乗せると、そっと左頬に口づけをした。

 「え、えっ?」

 考えれば考えるほど、頭の中はパニックにおちいっていく。つばきは頬を赤く染めて、まじまじと見つめてきた。

 「だから、テツロー君。私だって、君がいないとダメなんだからね」

 「はっ、はい……」

 頭がパンクした俺は、従順な犬のようにこくりこくりと頷く。

 「わかればよしっ! じゃあ、またね。テツロー君」

 彼女は照れたように笑うと、小さく手を振って走り去っていく。

 俺は地獄を見た右頬の分まで、天国を味わった左頬を何度も何度も確かめるように触れる。

 ……狂信者なんて、俺も人のこと言えねぇな。


 あぁ、俺はすっかり甘やかされて、この小悪魔、いや魔王さまに病みつきなんだ。

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