第26話 嘘つきと病みつき①

 翌日の昼休み。

 今日で最後、そう思いながら、俺は懲りもせずに北棟の物置部屋に来ている。

 誰も訪れることのない部屋で一人っきり。

 向かいのソファにあいつはいない。この光景を目の当たりにするたび、『いばら姫事件』は事実なのだと、嫌というほど思い知らされる。

 昨日の夜、母さんは心配する俺に気を使ってか、これからについて話してくれた。

 ピアノ教室の立ち退きが決まり、母さんは粛々しゅくしゅくと閉鎖の作業を進めている。オーナー側からの申し出のため、補償金は言い値で支払ってくれるようだ。……さすがボンボン。

 恩師である共同経営の方とも相談して、今回の話はなかったことに。今後は、恩師の伝手つても借りて、雇ってくれるピアノ教室を探すらしい。天真爛漫てんしんらんまんな姿はもはや見る影もなく、母さんは年相応の落ち着きを放っている。その姿があまりに痛々しくて、見てるこちらの心も痛かった。

 西園寺の狙いがリリアナなら、母さんのピアノ教室はどうでもいいはず。彼女とはもう無関係だと伝えれば、立ち退きの件は考え直してくれるかもしれない。

 ないそでは振れないが、頭ならヘッドバンキングの如くいくらでも振れる。母さんのためなら、プライドを捨てて全力で屑野郎に媚びてやれる。だって、母さんはたった一人の家族だから。

 それに、教室ではつばきが俺を待ってる。俺はもう、教室から逃げてきた哀れな転校生じゃない。こんな契約にいつまで縛られてるんだ。


 俺はずっと待っていたのに、あいつが一方的に破棄した。


 ……いや、違う。本当のあいつなんて俺は知らなかった。ただ、それだけのことだ。

 つばきが初恋の子だと知った時、自らをいましめたはずなのに結局治っていない。勝手に期待して、勝手に幻滅してるだけ。いちいち本人に押し付けるほうがどうかしてる。これは俺の単なる自惚うぬぼれの結果だ。

 そう気持ちに決着ケリをつけて、ソファから立ち上がろうとした。その時だった。

 ガラッと部屋の扉が開いた。俺は咄嗟とっさに扉の方を振り向く。

 「宇佐見か。なんだ、九條はまだ来ていないのか」

 扉の前に立っていたのは工藤先生だった。先生は部屋を見渡すと、呆れた様子でため息をついた。俺はすっと気が抜けたように、再びソファに座り込む。そんな俺を見て、先生は少し困ったように笑った。

 「待ち人でなくて悪かったな」

 「……いや、別に。誰も待っちゃいないですよ。来ないなら来ないでそれだけの話だ」

 俺がそう言うと、先生はくすっと含み笑いをして部屋の中に入る。ソファの傍まで近寄ると、うかがうような目をこちらに向けてきた。

 「身体はもういいのか?」

 「ええ、おかげさまで。ご心配をおかけしました」

 工藤先生は少し安心したのか、表情が和らいでいく。それから俺の顔を見て、ふと気づいたように自分の目元に指を当てた。

 「眼鏡。最近してないんだな」

 「そういえば、先生も眼鏡なし派でしたね。どうですか、前よりイケてますか?」

 俺はニヤッと笑みを浮かべて、先生を見上げる。工藤先生は俺をまじまじと見つめて、しばし考え込む。すると肩をすくめて、皮肉っぽく笑った。

 「うーん、いつもの二倍増しだが、シケた面してる分半減ってところかな」

 「……なんだそれ。つまり変わらねぇじゃねぇか」

 俺は軽口を叩いて、自嘲気味じちょうぎみに笑った。テーブルに置いてある弁当を手に持って、見せつけるように掲げる。

 「どうですか、飯でも。最近弁当が余って仕方ないんですよ。おかげで夕食は毎晩、弁当の残り。もういい加減、飽きてきたとこだ」

 「……では、いただこうか」

 俺は皮肉交じりに深い吐息を漏らす。先生はふっと優しげに微笑むと、俺の隣に腰を下ろした。背中まで下ろした黒髪が揺れて、ふわっとシャンプーのいい香りがする。

 「いや、なんで横に座るんですか。そっち空いてるでしょ」

 俺は向かいのソファを指差して、いぶかしげに眉をひそめる。一方、先生はさも当然という顔をしていた。

 「あそこはあの娘の場所だろう?」

 その言葉に、どう答えればよいのか、何も見つからない。俺は思わず言葉に詰まり、黙って弁当を食べる。先生は心なしか冷たい視線を向けると、それ以上何も言わなかった。

 重苦しい沈黙の中、俺と工藤先生はただ黙々もくもくと箸を進めた。しばらく間を置くと、俺は大きく息を吸って、吐き出すように声を漏らす。

 「……先生はその。あいつが起こした『いばら姫事件』のこと、知ってたんですか?」

 「あぁ、知っていたよ。派手に暴れてくれたからな。あれからだよ、私がここに通うようになったのは」

 工藤先生はうんざりとした顔で思い出すように語る。そんな先生を見て、俺は思わず苦笑してしまう。

 「……あいつ、どんな理由で引きこもってるかと思えば、元カレとの痴情ちじょうもつれって。ほんと馬鹿馬鹿しくてくだらねぇ。心配して損したわ」

 「そうだな。私も心配して損したよ」

 思わぬ同意を得て、俺は工藤先生の顔を横目で見る。すると、先生は心底呆れ返った様子で俺を睨み付けていた。

 「そんな噂話を信じてねてる君が、一番馬鹿馬鹿しくて下らない」

 「はあ? 何言って――」

 ――瞬間、拳骨げんこつを喰らった。

 「いっったぁっ! あんた、なにすんだよっ!」

 「……全く、女々しい男だな、君は。一体誰に似たんだ」

 俺は殴られた頭を押さえながら工藤先生を睨み付ける。先生は不満げに髪を掻き上げて、俺の顔を指差した。

 「それと、その顔でウジウジするのは止めてくれ。普段の二倍増しで苛立って仕方ない。思わず手が出てしまった」

 ……いや、その顔って。あんた、俺の血筋に恨みでもあんのかよ。生まれ変わっても呪い続ける人なの?

 カチンと来た俺は、声を荒げて言い返す。

 「噂だって言いますけど、みんなが知ってるっ! あんたも見たんでしょ? それにつばきだって……」

 もう、否定できる材料が俺の中には一つたりとも残ってない。あの時、優しく慰めてくれたあいつは、俺の中のあいつは、既に壊れてしまってる。


 「でも、君はあの娘から何も聞いていない。あの娘はまだ、君に何も言っていない」

 

 ――その言葉に、俺の中でわずかな光が生まれた。

 

 「そっ、それは。俺はずっと待ってるのに、あいつが来ないから……。俺なんてその程度のどうでもいいやつって証拠でしょうよ」

 そう思うと途端に心が揺らぐ。心の底でくすぶり続けた想いが消えていくようで、うつむいてしまう。

 「宇佐見、あの娘はどうでもいいやつの名前なんて覚えないよ」

 「えっ、それってどういう……」

 俺は思わず顔を上げて、先生を見つめる。先生は自嘲じちょうするように語り始めた。

 「私は名前を覚えてもらうのに一か月かかった。それがどうだ、君たちはいつの間にか名前で呼び合う仲になってた。あの時は本当に驚いたよ。覚えてもらうまで毎日通った私の苦労は何だったんだ」

 先生はどこかねた顔で笑みを浮かべた。予想もしなかった答えに、俺はすっかり気が動転して、理由付けを試みる。それから、はっと思いついたように口を開いた。

 「そっ、そりゃあれでしょ。あいつが帰国子女だから。日本語に慣れてなかったとか、そういうのでしょ?」

 「ん? どうして彼女が帰国子女だと?」

 慌てふためく俺は、思わずとんでもないことを口走る。

 「それは、あいつが生まれ育った故郷の挨拶だってっ! 別れ際に俺の頬にキスを……」

 俺は我に返り、やっちまったとばかりに口に手を当てる。工藤先生はぽかんとして俺の顔を見る。そのうち、笑いを堪えるように顔を伏せた。

 今度は何がおかしかったんだ。この人の笑いのツボはマジでイカれてるからな。ようやく顔を上げた先生は、笑い過ぎてにじんだ涙を指先でぬぐう。

 「宇佐見。九條は日本生まれの日本育ちだよ」

 「は?」

 俺は思わず間抜けな声を上げた。目は点になり、開いた口が塞がらない。工藤先生はニヤニヤと満足げに微笑んでいた。

 「どうやら、一杯食わされたみたいだな。あの娘も可愛いとこあるじゃないか。これは随分ずいぶんとお気に入りらしい」

 ……あの女、なんて嘘つきやがる。

 俺は羞恥しゅうちまみれて、両手で顔を覆う。たちまち、顔が火照ほてり出すのを感じた。先生はケラケラ笑いながら俺の頭を無遠慮に撫でる。両手を離すと、先生は優しげな微笑みを浮かべていた。

 「宇佐見。待つことが悪いとは言わない。でも、一歩踏み出さないと、触れてみないと、見えてこないものもあると私は思うよ」

 先生の言葉に気付かされる。確かに俺は待っていただけだ。彼女がいつか現れるのを心のどこかで期待して、ただずっと待っていただけ。

 「宇佐見哲郎うさみてつろう。君はどうしたい?」


 俺の中でわずかに生まれた光を、くすぶり続けた想いを、ゆっくりと言葉に、形にしていく。

 西園寺でもない、つばきでもない、そして工藤先生でもない。

 「……俺は誰からでもない、あいつの言葉で本当のあいつを知りたい」


 ――そう、イメージや幻想なんかじゃない。本当のあいつを。


 俺は目頭めがしらを押さえて、すっと立ち上がる。それから、得意げなドヤ顔を工藤先生に向けた。

 「駄目だな、俺。目が曇ってた。先生、俺ってやっぱり銀縁眼鏡ぎんぶちめがねが似合うと思いません?」

 「あぁ、そうだな。君はダサいくらいがちょうどいい。もっと足掻あがいてみろ」

 俺は気を取り直して、ガツガツと弁当をむさぼり食う。そんな俺を見て、先生は安心したように微笑んだ。

 弁当はいつもよりずっと美味しく感じた。やっぱり食事は一人よりも二人だ。

 食事を終えると、工藤先生は教室を後にする。

 「先生、俺、少し足掻あがいてみますよ。ありがとうございました」

 先生は扉の前で立ち止まる。顔だけ振り返って、少しだけ寂しげな笑みを浮かべた。

 「昼飯のお礼だ。美味しかったぞ、さすが菖蒲あやめさんの味だ」

 「えっ? なんでおばあちゃんの名前を……」

 俺は目をぱちくりさせながら先生の背中を見つめる。

 「近いうちにお線香上げにうかがうよ。伝えておいてくれ」

 工藤先生は部屋を出ると、後ろ手にゆっくりと扉を閉めていった。

 伝えろって誰に……。そういえば、拳骨げんこつ食らわせたり、頭を撫でたり。まさか、この人……。

 俺は初めて先生にあった日のことを思い出す。

 

 何がお前の母親なんて知らないだよ。先生、あんたも大概たいがい、嘘つきだぜ。

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