第26話 嘘つきと病みつき①
翌日の昼休み。
今日で最後、そう思いながら、俺は懲りもせずに北棟の物置部屋に来ている。
誰も訪れることのない部屋で一人っきり。
向かいのソファにあいつはいない。この光景を目の当たりにするたび、『いばら姫事件』は事実なのだと、嫌というほど思い知らされる。
昨日の夜、母さんは心配する俺に気を使ってか、これからについて話してくれた。
ピアノ教室の立ち退きが決まり、母さんは
恩師である共同経営の方とも相談して、今回の話はなかったことに。今後は、恩師の
西園寺の狙いがリリアナなら、母さんのピアノ教室はどうでもいいはず。彼女とはもう無関係だと伝えれば、立ち退きの件は考え直してくれるかもしれない。
ない
それに、教室ではつばきが俺を待ってる。俺はもう、教室から逃げてきた哀れな転校生じゃない。こんな契約にいつまで縛られてるんだ。
俺はずっと待っていたのに、あいつが一方的に破棄した。
……いや、違う。本当のあいつなんて俺は知らなかった。ただ、それだけのことだ。
つばきが初恋の子だと知った時、自らを
そう気持ちに
ガラッと部屋の扉が開いた。俺は
「宇佐見か。なんだ、九條はまだ来ていないのか」
扉の前に立っていたのは工藤先生だった。先生は部屋を見渡すと、呆れた様子でため息をついた。俺はすっと気が抜けたように、再びソファに座り込む。そんな俺を見て、先生は少し困ったように笑った。
「待ち人でなくて悪かったな」
「……いや、別に。誰も待っちゃいないですよ。来ないなら来ないでそれだけの話だ」
俺がそう言うと、先生はくすっと含み笑いをして部屋の中に入る。ソファの傍まで近寄ると、
「身体はもういいのか?」
「ええ、おかげさまで。ご心配をおかけしました」
工藤先生は少し安心したのか、表情が和らいでいく。それから俺の顔を見て、ふと気づいたように自分の目元に指を当てた。
「眼鏡。最近してないんだな」
「そういえば、先生も眼鏡なし派でしたね。どうですか、前よりイケてますか?」
俺はニヤッと笑みを浮かべて、先生を見上げる。工藤先生は俺をまじまじと見つめて、しばし考え込む。すると肩を
「うーん、いつもの二倍増しだが、シケた面してる分半減ってところかな」
「……なんだそれ。つまり変わらねぇじゃねぇか」
俺は軽口を叩いて、
「どうですか、飯でも。最近弁当が余って仕方ないんですよ。おかげで夕食は毎晩、弁当の残り。もういい加減、飽きてきたとこだ」
「……では、いただこうか」
俺は皮肉交じりに深い吐息を漏らす。先生はふっと優しげに微笑むと、俺の隣に腰を下ろした。背中まで下ろした黒髪が揺れて、ふわっとシャンプーのいい香りがする。
「いや、なんで横に座るんですか。そっち空いてるでしょ」
俺は向かいのソファを指差して、
「あそこはあの娘の場所だろう?」
その言葉に、どう答えればよいのか、何も見つからない。俺は思わず言葉に詰まり、黙って弁当を食べる。先生は心なしか冷たい視線を向けると、それ以上何も言わなかった。
重苦しい沈黙の中、俺と工藤先生はただ
「……先生はその。あいつが起こした『いばら姫事件』のこと、知ってたんですか?」
「あぁ、知っていたよ。派手に暴れてくれたからな。あれからだよ、私がここに通うようになったのは」
工藤先生はうんざりとした顔で思い出すように語る。そんな先生を見て、俺は思わず苦笑してしまう。
「……あいつ、どんな理由で引きこもってるかと思えば、元カレとの
「そうだな。私も心配して損したよ」
思わぬ同意を得て、俺は工藤先生の顔を横目で見る。すると、先生は心底呆れ返った様子で俺を睨み付けていた。
「そんな噂話を信じて
「はあ? 何言って――」
――瞬間、
「いっったぁっ! あんた、なにすんだよっ!」
「……全く、女々しい男だな、君は。一体誰に似たんだ」
俺は殴られた頭を押さえながら工藤先生を睨み付ける。先生は不満げに髪を掻き上げて、俺の顔を指差した。
「それと、その顔でウジウジするのは止めてくれ。普段の二倍増しで苛立って仕方ない。思わず手が出てしまった」
……いや、その顔って。あんた、俺の血筋に恨みでもあんのかよ。生まれ変わっても呪い続ける人なの?
カチンと来た俺は、声を荒げて言い返す。
「噂だって言いますけど、みんなが知ってるっ! あんたも見たんでしょ? それにつばきだって……」
もう、否定できる材料が俺の中には一つたりとも残ってない。あの時、優しく慰めてくれたあいつは、俺の中のあいつは、既に壊れてしまってる。
「でも、君はあの娘から何も聞いていない。あの娘はまだ、君に何も言っていない」
――その言葉に、俺の中でわずかな光が生まれた。
「そっ、それは。俺はずっと待ってるのに、あいつが来ないから……。俺なんてその程度のどうでもいいやつって証拠でしょうよ」
そう思うと途端に心が揺らぐ。心の底でくすぶり続けた想いが消えていくようで、
「宇佐見、あの娘はどうでもいいやつの名前なんて覚えないよ」
「えっ、それってどういう……」
俺は思わず顔を上げて、先生を見つめる。先生は
「私は名前を覚えてもらうのに一か月かかった。それがどうだ、君たちはいつの間にか名前で呼び合う仲になってた。あの時は本当に驚いたよ。覚えてもらうまで毎日通った私の苦労は何だったんだ」
先生はどこか
「そっ、そりゃあれでしょ。あいつが帰国子女だから。日本語に慣れてなかったとか、そういうのでしょ?」
「ん? どうして彼女が帰国子女だと?」
慌てふためく俺は、思わずとんでもないことを口走る。
「それは、あいつが生まれ育った故郷の挨拶だってっ! 別れ際に俺の頬にキスを……」
俺は我に返り、やっちまったとばかりに口に手を当てる。工藤先生はぽかんとして俺の顔を見る。そのうち、笑いを堪えるように顔を伏せた。
今度は何がおかしかったんだ。この人の笑いのツボはマジでイカれてるからな。ようやく顔を上げた先生は、笑い過ぎて
「宇佐見。九條は日本生まれの日本育ちだよ」
「は?」
俺は思わず間抜けな声を上げた。目は点になり、開いた口が塞がらない。工藤先生はニヤニヤと満足げに微笑んでいた。
「どうやら、一杯食わされたみたいだな。あの娘も可愛いとこあるじゃないか。これは
……あの女、なんて嘘つきやがる。
俺は
「宇佐見。待つことが悪いとは言わない。でも、一歩踏み出さないと、触れてみないと、見えてこないものもあると私は思うよ」
先生の言葉に気付かされる。確かに俺は待っていただけだ。彼女がいつか現れるのを心のどこかで期待して、ただずっと待っていただけ。
「
俺の中でわずかに生まれた光を、くすぶり続けた想いを、ゆっくりと言葉に、形にしていく。
西園寺でもない、つばきでもない、そして工藤先生でもない。
「……俺は誰からでもない、あいつの言葉で本当のあいつを知りたい」
――そう、イメージや幻想なんかじゃない。本当のあいつを。
俺は
「駄目だな、俺。目が曇ってた。先生、俺ってやっぱり
「あぁ、そうだな。君はダサいくらいがちょうどいい。もっと
俺は気を取り直して、ガツガツと弁当を
弁当はいつもよりずっと美味しく感じた。やっぱり食事は一人よりも二人だ。
食事を終えると、工藤先生は教室を後にする。
「先生、俺、少し
先生は扉の前で立ち止まる。顔だけ振り返って、少しだけ寂しげな笑みを浮かべた。
「昼飯のお礼だ。美味しかったぞ、さすが
「えっ? なんでおばあちゃんの名前を……」
俺は目をぱちくりさせながら先生の背中を見つめる。
「近いうちにお線香上げに
工藤先生は部屋を出ると、後ろ手にゆっくりと扉を閉めていった。
伝えろって誰に……。そういえば、
俺は初めて先生にあった日のことを思い出す。
何がお前の母親なんて知らないだよ。先生、あんたも
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