第25話 青い兎といばら姫⑥【完】

 翌朝。俺は腹に一物いちもつを抱えて登校する。

 あの後、母さんは急いで貸しビルの管理会社に連絡を取る。理不尽極まりない話だが、西園寺が口にしたことは全て真実だった。

 電話を終えた母さんは、顔を真っ青にして立ち尽くす。つばきは悲痛な顔で母さんを見つめると、深々と頭を下げてその場を後にした。

 その夜、家では重苦しい空気が流れた。母さんは心ここに在らずで、涙一つ流さない。普段なら息子の友達に興味深々の母さんが、俺と西園寺に何があったか聞こうともしなかった。

 俺のせいで母さんの長年の夢を潰してしまった。そう思うたびに、えぐられるような胸の痛みが走る。

 西園寺の狙いはリリアナだった。

 人の女に手を出すな。

 考えれみれば、簡単な話だ。あの暴君、黙っていれば頭脳明晰ずのうめいせき、スタイル抜群、超絶美少女と三拍子揃った完全無敵少女なのだ。本当の姿を知ってる俺は、そこをすっかり見落としていた。

 リリアナは『眠り姫』と呼ばれる学園一の美少女。西園寺にとって万年二位に叩き落とされた憎きかたき。プライドを傷つけられた男が傷つけた女にちょっかいを出している。そんな彼女の傍に突如現れた『眠り姫の下僕げぼく』が、彼は許せないのだろう。

 ツンデレだと信じていたのに、ただの高慢こうまんちきな屑野郎だった。

 『眠り姫』の話を聞いたとき、美人は得だと思ったけれど、こういうやからも当然引き寄せる。あいつが周りの奴らを陰湿いんしつでゴミ山だと言ってた理由はこれか。彼女はきっと、そういったしがらみにうんざりしていたのだ。

 状況は理解したが、一つだけ納得がいかないことがある。俺の知ってるリリアナなら、こんな小物みたいな二位野郎は一蹴いっしゅうして終わりだろ。

 西園寺はこの学園でも有数の金持ちだと、つばきは言っていた。それでも、たかが金持ち程度にあいつがくっするとはどうしても思えない。

 そもそも相手が誰でも、いや世界だろうが、関係ない。あいつはそんな暴君なんだ。

 小さかろうが敵の芽は摘めと言ったのはお前じゃねぇか……。敵が仕掛けて来てんだぞ、何で逃げてんだよ。

 とにかく、西園寺には言いたいことも聞きたいことも山ほどある。もし、あいつがリリアナに何かしたのなら、どんな手を使おうが聞き出してやる。

 俺は昇降口に着くと、ふと誰かの視線を感じた。視線の主は西園寺。彼は壁に寄り掛かり、こちらを見ていた。

 「よぉ、宇佐見。昨日はよく眠れたか? お前の親御おやごさん、だいぶ参ってたようだし心配してたんだ。それにしても若くてビックリした。最初はお姉さんかと思ったよ」

 西園寺はほがらかに笑いながら、手を振ってきた。そのふざけた態度に、抑えようのない怒りが込み上げる。

 「西園寺、てめぇ……。いつまで友達面してんだ」

 俺は敵意を込めた視線を向けた。彼はやれやれとばかりに肩をすくめて、笑みを浮かべる。

 「朝からそんな怖い顔するなよ。それより、九條は何だって? 下僕げぼく下僕げぼくらしく、ちゃんとお姫様に泣きついてきたか」

 「……お前こそ、朝っぱらからクソつまんねぇ皮肉ばっか言いやがって。暇なのかお前? ビルは持ってるけど友達はいねぇんだろ」

 俺はお返しとばかりに挑発するように笑ってみせた。すると、西園寺は顎に手を当てて、しばし考え込む。それから、何かを察したように深く息を吐いた。

 「……まさか、来てないのか。九條が授業に出てないか、俺に尋ねてきたのもそういうことかよ。あの女、逃げ出しやがって」

 聞き捨てならない言葉が聞こえて、俺は思わず目を見開く。彼はひどく落胆らくたんして、悩ましげに髪を掻き上げた。

 「おい、またってどういう意味だ。お前、あいつに何したんだ?」

 西園寺は途端に俺に興味を失くした様子で、面倒臭そうに視線を逸らす。その態度がしゃくに障り、俺が彼の胸ぐらに手を伸ばそうとした、その時。不意に後ろから腕を掴まれた。

 「テツロー君、落ち着いて。暴力は絶対に駄目だよ」

 つばきは頭に血が上った俺を見て、なだめるように言う。西園寺は彼女に視線を向けると、はっと鼻で笑った。

 「俺と九條に何があったか知りたいなら、つばきに聞けよ。俺たち三人は同じクラスだったんだから」

 「はあ? お前たちが……」

 彼の言葉に、俺は目を丸くして固まってしまう。そんな俺を見て、西園寺は驚きと呆れに満ちた顔をしていた。

 「……そんなことすら聞かされてないのか。なぁ、宇佐見。だから言ったろ? そいつは気味きみの悪い女だって」

 西園寺はつばきを睨みつけると、不満げに舌打ちをして教室に向かった。

 残された俺とつばきの間に気まずい沈黙が流れる。それから、彼女は陰鬱いんうつな顔をして口を開いた。

 「……ごめんなさい。でも、当人たちの問題だし、大っぴらに話すことでもないから」

 「いや、お前の言う通りだ。でも、知ってるなら教えてくれ」

 俺は謝るつばきを手で制して、息を呑むように彼女を見つめる。やがて彼女は、躊躇ためらうように、重々しく口を開いた。

 「去年の今頃なんだけど、コースケ君と九條さんは付き合ってたの」


 ――その言葉に、俺の中で何かが壊れる音がした。


 俺はうろたえて、頭が真っ白になった。悟られまいと作り笑いを浮かべて、必死に言葉を見つける。

 「おい、つばき。こんな時に笑えない冗談はやめろよ……。あいつが誰かと付き合う? 馬鹿馬鹿しい」

 「……嘘じゃないよ。テツロー君、ちゃんと聞いて」

 俺は逃げるように視線を逸らす。だが、彼女はそれを許してはくれない。

 つばきは俺の頬を両手で包んで、すべてを見透かすような目で見つめてくる。俺は彼女の瞳に吸い込まれてしまう。

 「コースケ君から告白したみたいでね。内部進学組の王子様と外部受験組のお姫様。周りから見ても二人はほんとお似合いだった」

 つばきはその光景を思い出すように、ふっと優しく微笑んだ。彼女が言葉をつらねるたびに、俺の中のあいつが壊れていく。

 「でも、コースケ君は九條さんの我儘わがままに振り回されて、すごく大変そうだった。最後は突然、理由も話さずに一方的に別れを切り出されて……」

 否応なく、今の自分と重ねてしまう。途端に真っ白だった頭の中は、受け入れがたい答えで埋め尽くされていく。

 「……九條さんは必死に引き止める彼を、二階の窓から突き落としたの」

 つばきは悲痛ひつうな声でそう言うと、俺の頬から手を離した。俺は力が抜けたように呆然ぼうぜんと立ち尽くす。

 「コースケ君は全治三ヶ月の怪我を負って、九條さんは一か月の停学。学園では眠り姫のとげに刺された、『いばら姫事件』なんて言われてるよ」

 ……無茶苦茶過ぎて、もはや笑えてくる。いばら姫だって? なんだその暴君は。そんな非情な女、俺は知らない。だってあの時、怪我した俺をあいつは……。

 かすかな沈黙の後、彼女は、悲しげな顔をして、呟きを漏らす。

 「……テツロー君、もう九條さんに関わるの止めない?」

 「そっ、それは……」

 俺は言葉をにごし、唇を噛んでうつむくしかなかった。そもそも、あいつはもう俺と関わる気がないのかもしれない。もしかしたら、俺も西園寺と同じように……。

 つばきはそっと俺の手を取り、優しく語りかける。

 「テツロー君はさ。昨日のデート楽しくなかった? テツロー君はダメダメだって言ってたけど、私はいつの間にか楽しくなってた。それで……」

 顔を上げると、彼女はいつもの笑顔を俺に向けてくれた。俺はすがるような目で彼女を見つめる。握った手には自然と力が入る。

 つばきは一瞬びくっと肩を揺らす。彼女の顔がわずかに赤く染まる。それから嬉しそうに微笑み返した。


 「……ねぇ、テツロー君。私じゃダメかな?」

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