第21話 青い兎といばら姫②

 病院で精密検査を終えた俺は、そのまま保健の先生の車で帰宅した。

 何も知らない母さんは頭に包帯を巻いた俺を見た途端、悲鳴をあげて大泣き。声をかけても泣くばかりで、ほとんど取りつく島もない。このギャン泣きおばさんがうちの母親だと伝えると、先生は例に漏れず、絶句していた。

 それ以来、母さんが携帯電話を肌見離さず持つようになったのは不幸中の幸いだろうか。マジで息子の死に目に会えなくなるからね。ほんと、頼むよ母さん。

 身体の痛みはすぐには消えず、今週は医者の指示に従い、家で安静にした。母さんは俺が台所に立つことを許さず、おかげで朝はコンビニ、昼夜は出前と贅沢三昧ぜいたくざんまい。ちなみにぶっ壊れた銀縁眼鏡ぎんぶちめがねの修理代も痛かった。今月の宇佐見家はつばきの活躍による黒字予想から一転、赤字待ったなしだ。

 週明け。俺は午前中病院に立ち寄り、学校に向かった。教室に入ると、クラスは一瞬ざわめいたが、眼鏡がないので顔はよく見えない。

 つばきは授業の合間を縫って、何度も俺を見舞みまってくれた。気持ちはありがたいけれど、今の俺は彼女を除き、クラスメイトが全員敵に見える。誰かが俺たちを監視している気がして、まともに会話もできなかった。俺はすっかり疑心暗鬼ぎしんあんきに陥っていた。

 そして、昼休み。

 授業が終わるや否や、つばきは俺の元にまっすぐ飛んでくる。

 「テツロー君、今日はお弁当なしでしょ。良かったら一緒に学食行かない? 南棟の学食、すごく美味しいの」

 つばきは頬に両手を当てて、大きな瞳を輝かせる。

 あー、上級国民どもがしゃれたオープンテラスで食ってためちゃくちゃ高そうなイタリアンか。生憎あいにくうちの家計は火の車、そんな余裕はない。今月は一食二百円がマストだ。

 なにより、手紙の主が誰かわからない以上、人前でつばきといるのは不味い。今日一日、俺は健気けなげ見舞みまいに訪れる彼女をこばめないでいた。

 「わりぃ、俺もう飯買ってるから」

 俺はコンビニの袋をかかげて見せる。つばきは少しばかりしゅんとしたが、すぐさま、ぱっと明るく表情を変えて話を続ける。

 「じゃあ、放課後一緒に帰ろうよ。またスーパー付き合うからさ。荷物持ちでも何でもやっちゃうよ」

 彼女は力こぶを作る真似をして、笑ってみせた。すると、急に何か思いついたみたいに両手を叩いて、はしゃいだ声を上げる。

 「そうだっ! いっそ明日から私がテツロー君のお弁当作るよ。ほら、一緒に買い物行けばリクエストも聞けるし名案だよね。どうかな?」

 彼女は腕を組んで、嬉しそうにうんうんと頷く。

 つばきが傍にいてくれたら特売品も、お一人様数量限定品も、思いのままだ。なにより、女の子の、それもつばきの手料理が食べられるなんて男冥利おとこみょうりに尽きる。飛びつきたいのは山々なのに、悔しすぎて歯ぎしりの音が漏れた。

 それに、いつもの優しいつばきに見えるが、今日はちょっと変だ。

 「……つばき、そんなことしなくていい。お前、マジで気使いすぎだ」

 その言葉に、彼女は一瞬すごく悲しそうな顔をして、瞳をうるませる。それから、困ったような顔をして笑った。

 「あはは、ごめんね、一人で盛り上がっちゃって。……私、ほんと、お節介だよね」

 「いや、そういうわけじゃ――」

 つばきは涙に濡れた目でにこりと笑い、逃げるように教室を飛び出した。追うことは許されない。今はこうするしかない。

 クラスの視線が痛い。陰口も聞こえてくる。主に女子。勘違いぼっちもう二回死ねと言わんばかりだ。まあ、はたから見れば心配するつばきを泣かしたとんだクソ野郎だからな。そして、ちょっと男子っ! 喜んでんじゃねぇよ、犯人はお前らか。

 ……ほんと、なんでこうなんだよ。何が正解なんだよ。

 俺は居たたまれず、教室を後にした。

 

 × × ×

 

 昼休み。俺の居場所なんて一つしかない。足は自然と北棟に向かった。

 リリアナと会うのも保健室以来。否応なく、あの時の出来事がよみがえる。恥ずかしげもなく泣くわ、頬にキスされるわ。非常に気恥ずかしいものがある。

 俺は彼女の顔をまともに見ることができるだろうか。……まさか、弁当ないなら帰れとか言わねぇよな、あいつ。

 扉の前につくと、大きく深呼吸をして心を落ち着かせる。しばらく躊躇ためらっていたが、俺は意を決して扉を開けた。

 いつものように、腕を組んでソファにふんぞり返る光景が目に浮かぶ。だが、そこに彼女の姿はなかった。

 そして、俺はある可能性に思い至る。

 「……あいつ、まだ寝てんのか。もうとっくに昼だぞ」

 俺は呆れ果ててベッドの方へ向かう。そういえば、初めて会ったときもそうだった。

 美意識も、感性も、価値観も、自分の世界さえも変えてしまうほど、目の前に映る光景は一枚の絵画かいがのように美しい。

 そう心の中で呟いて、もだえるように身をよじらせる。俺は自虐じぎゃくめいた痛さを感じながら、乾いた笑いを漏らした。

 「おい、リリアナ。いつまで寝てんだ」

 ベッドの上には、あの時神秘的に映った彼女の姿はない。先ほどの痛い妄言のせいだろう、有名絵画ゆうめいかいがからすっぽり人が消えたような奇妙な感覚にとらわれる。

 ……なんだよ、本当にいないのか。あいつが部屋に居ないなんて初めてだ。課題のレポートでも提出に行っているのだろうか。

 俺はつまらなそうに鼻を鳴らすと、ソファに腰を下ろして昼食を取る。今日のメインはコンビニのおにぎり二つ。なんとも味気ない食事だ。

 俺は早々に食べ終わるとすぐに暇になった。当然、教室には戻りたくない。今頃また俺の悪口で盛り上がってるに違いない。クラスの仲間を信じろ? 仲間ってのは陰口なんかなしだろう? だから、あいつらは仲間じゃないっ!

 ふと、いつぞやのお礼の件を思い出す。家では母さんから家事を禁止されてるけど、だいぶ痛みも取れてきた。これ以上は身体がなまって仕方ない。

 「リハビリがてら、掃除でもやるか」

 眼鏡がないので、いつもより一層目をらして部屋を見渡す。最低限、食事スペースはこの俺が毎日拭いていたが、見事に埃だらけだ。まあ、物置部屋だしな。

 俺は部屋の隅にあったバケツと雑巾を使って拭き掃除を始めた。

 しかし、こんな埃かぶった部屋をホコリ一つ残すなってほんと無茶な要求してくれる。自分は汚れた手を服で拭くガサツな性格してるくせに。

 そう、リリアナ・九條・ダリは尊大で横暴で滅茶苦茶なやつなんだ。

 このテーブル。あいつは人に無理矢理コオロギ食わせて大喜びしてた。でも、あれは結構美味しかった。

 このソファ。ゴリラ女とののしったら、怒り狂って押し倒された。あの取り乱し様と言ったら爆笑もんだ。弁当六人前平らげて半泣きでぶっ倒れたりもした。工藤先生が来なかったら……、想像もしたくない。

 この机。退学を覚悟した俺にあいつは勉強を教えてくれた。自分は無勉でオール満点。ありえない女だが、あの時はほんと助けられた。

 それもこれも、すべてはあのベッドで眠っていたあいつに見惚みほれてから始まった。

 お前は嫌だと言うけれど、眠り姫って呼び名は捨てたもんじゃないと思う。

 あっという間に時間は過ぎて、昼休みが終わる。

 たった一か月足らずで懐かしむことが多すぎる。振り返ると、いちいち馬鹿らしくて、ほんとくだらねぇ。俺は思わず苦笑してしまう。

 続きはまた明日。ここに来る理由ができた。

 結局、リリアナは姿を見せなかった。ふと、あの言葉を思い出す。

 「……寂しがり屋のうさぎちゃん、か」

 それを認めてしまってる自分に気づいて、慌てて頭をぶんぶん振った。こんなところ、あいつに見られたら一生馬鹿にされる。

 気を取り直して、快気祝かいきいわいは何を作ってやろう。野菜嫌いを克服させるのも面白い。あいつ、一口でかいからピーマン刻んでハンバーグに入れてたら絶対に気付かない。

 食べ終わって、いつもみたいに「美味しかったぞ、テツロー」と言った後に教えてやるんだ。俺は誰もいない部屋で一人ぼそりと呟く。

 「馬鹿め、それ、野菜入りだぞ」

 あいつの驚く顔を想像しただけで笑みがこぼれる。そんな悪巧みを考えながら、俺は物置部屋を後にした。


 それから一週間、彼女がこの部屋を訪れることはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る