第20話 青い兎といばら姫①

 知らない天井だ。

 俺は呆然ぼうぜんと目を見開いて、ベッドに寝たまま固まっている。

 そっと横目で隣を見る。椅子に座る少女はうつむきがちに視線を落としていた。頬にかかったあでやかな金髪。これは知ってる顔だ。

 目があった瞬間、彼女は目に涙をいっぱいに溜めて、唇を震わせる。今にも泣き出しそうに顔をゆがめていた。

 ……そうだ、俺、階段から落ちたんだ。うつろな視線を彷徨さまよわせて、思考をめぐらせる。ここはどこだ。つーか、全身が痛ぇ。でも、おかげで意識がはっきりしてきた。

 「おっ、おはよう、つばき。いや~、飛んだね。もうちょっとで空どころか、時をかけるところだったよ」

 俺は口角を吊り上げて、なんとか口だけ笑って見せた。だが、彼女は涙を流してベッドに顔をうずめる。

 「……ごめんね。私のせいで、ほんとにごめん」

 つばきは小さな肩を震わせて、嗚咽おえつを漏らして泣いている。

 お前のせいなわけない。何があろうとそれだけは間違いない。俺は痛む身体に鞭打って、彼女の頭に手を添えた。

 「アホか、なんでお前が謝るんだよ。一ミリたりとも、お前のせいじゃねぇよ」

 「……うん。……でも、ごめん」

 これが恋愛経験なしの未熟者には精一杯。俺は彼女が泣き止むまで黙って頭を撫で続けた。しばらくすると、彼女も落ち着いたようで、手で涙をぬぐいながら顔を上げた。

 つばきから状況を聞くと、どうやら俺は、五分程度その場で気を失っていたようだ。

 その後、朦朧もうろうとした意識の中、彼女の周りにいたクラスメイトが保健室まで運んでくれた。ベッドに横になると、俺は力を使い果たしたように眠り込んだ。現在、保健の先生が病院の手配をしており、工藤先生が母さんに連絡を取っているらしい。

 マジか、全然覚えてねぇ。なかなか大事になってる。眼鏡もゆがんじゃってる。それに、あの機械音痴おばさんは携帯電話を携帯しない人だけど、ちゃんと連絡取れるかな。つーか、工藤先生がね。まあ、担任だし当然か。

 「……工藤先生、厄介ごと起こしやがってと思ってんだろうな」

 つい口に出てしまい、ため息をつく。あの人、怒るとマジで怖いからな。

 「何言ってんの。先生、さっきまですごい心配そうに見てたよ」

 「えっ、そうなの?」

 つばきは少しだけ怒ったような口調で言った。先生の思いも寄らない反応に、俺は間抜けな声を上げる。彼女は呆れたように肩をすくめると、どこか力が抜けて表情が和らいでいた。

 「もう、当たり前でしょ、みんな心配したんだから。私、先生呼んでくるね。テツロー君はそのまま安静だからね」

 彼女はさとすように言うと、椅子から立ち上がり、扉の方へと歩いていく。

 一つだけ、どうしても確かめたいことがあった。

 俺が落ちるところを一番近くで見ていたのは彼女だから。ゆっくりと一つ息を吐いて、意を決して声をかける。

 「……なぁ、つばき。俺が階段から落ちたとき、周りに誰かいなかったか?」

 つばきは振り返ると、俺の前に屈み込んで、顔を覗き込むようにじっと見つめる。それから、冷然れいぜんと見下ろすように答えた。

 「どういう意味? 何でそんなこと聞くの?」

 彼女の表情は一変して、とても冷たい目をして俺を見る。その瞳から彼女の感情は読み取れない。俺は全てを見透かされたような気がして、目を逸らさずにはいられなくなった。

 「い、いや。俺が落ちたとき、巻き込まれた奴いなかったかなって……」

 俺はひどく狼狽うろたえたように言葉をにごす。彼女はしばし考えると、思い出すように淡々と語った。

 「ごめん、私も気が動転してたからよく覚えてないの。……でも、いなかったと思うよ」

 「そっ、そうか。それは良かった」

 俺が慌てて笑顔を作ると、つばきもいつものように笑顔を向ける。

 「じゃあ、私は行くね。またね、テツロー君」

 彼女はぽかんとした俺に小さく手を振って、保健室を後にした。

 嘘だ、そんなことはない。あのとき、俺は確かに背中を押されたはずなんだ。そして、俺にそんな強い憎悪ぞうおを抱くのは、あの手紙の主しかいない。

 もう手加減はしてやらない。必ず見つけ出してつぐなわせてやる。

 ……でも、手掛かりがなさ過ぎる。俺は相手が仕掛けてくるのをただ怯えて待つしかない。生まれて初めて向けられる本物の殺意。マジで容赦がない。正直、恐ろしくて仕方がない。

 一人ぽつんと取り残されたと思うと、途端に恐怖に駆られて、歯がガチガチと音をたてる。俺は不安を押し殺すように、両手で目をふさいだ。

 ガラッと扉が開く。俺はびくっと身体を震わせて、扉の方を見やる。

 「つ、つばき。忘れもん……」

 扉の先にいたのは、金髪のショートヘアではなく、対照的な黒髪のツインテールをなびかせて不敵に笑う少女。リリアナだった。

 「テツロー、私との契約を破るとは。お前、いい度胸しているな」

 「……リリアナ、なんでお前が」

 予想外の人物に思わず唖然あぜんとして、彼女を見つめる。リリアナは我が物顔で部屋の中を闊歩かっぽして、何かを探すようにあたりを見回していた。

 「いつまで経ってもお前が来ないから、一組に殴り込みをかけたんだ。教室に行くと、私のが階段から落ちたと騒ぎになっていてな。こうやってご主人様が甲斐甲斐かいがいしく見舞いに来てやったわけだ」

 「……そうですかい」

 俺はすっかり憂鬱ゆううつな気分で呟いた。リリアナは鼻歌混じりに楽しげに笑っている。

 くそっ、こいつに『眠り姫の下僕げぼく』って呼び名がバレちまった。リリアナは基本北棟にいるから知られてなかったのに。

 彼女はあっと声を上げると、お目当ての物を見つけたようでベッドの傍にしゃがみ込む。

 「おお、弁当あるじゃないか。それに今日は久しぶりの三段重さんだんがさねだ。どうしたテツロー、何か良いことでもあったのか?」

 ねぇよ。むしろ最悪の日だよ。……こいつマジで無神経な女だな。だんだん腹立ってきたわ。

 「あっ、私の弁当が……」

 リリアナが重箱の蓋を開けると、弁当の中はすっかすかでグチャグチャだった。まぁ、俺と一緒に重箱もダイブしたからな。中身もぶちまけたんだろう。

 「悪いな、今日は弁当諦め――」

 彼女は不格好ぶかっこうなおかずを手掴みで拾い上げると、そのまま口に運んだ。さらに一口。手が止まらない。俺はそんな彼女をただ黙って見ている。彼女は口の周りに食べカスをつけながら、満面の笑みでこちらを見た。

 「テツロー。やっぱり卵焼きは甘いのに限るな」

 「……お前は、また手掴みで。行儀が悪いんだよ、ばかやろう」


 こんな弁当を美味しそうに食べる馬鹿はお前だけだ。

 ――でも、それがなぜかたまらなく嬉しくて、先程の不安を吹き飛ばしてくれたようで、俺は自然と涙が溢れた。

 「泣くなよ、テツロー。痛いのか?」

 「……あぁ、痛ぇよ。痛すぎて死にかけた」

 不安そうに見つめる彼女は、濡れた頬をそっと指先でぬぐう。俺の頭を優しく撫でると、子守唄のようにどこの国ともわからない歌を口ずさんだ。

 それからしばらく、涙はとめどなく流れ出た。その間、まるで子供をあやすように、彼女はずっと俺を見守ってくれた。


 俺はようやく気を持ち直して我に返る。

 こいつには幾度いくどとなく泣かされてきたが、今回はあまりに恥ずかしい姿を見せてしまった。リリアナはそんな俺を気に留めることなく、箸を使って本格的に弁当をむさぼり食っている。彼女はほんの数分で弁当を平らげると、沈黙を破るように、口を開いた。

 「それにしても大した嫌がらせだな」

 「ああ、おかげでこのザマだよ。お前の言う通りだった。でも心配すんな、明日からきっちり弁当は届けてやるから」

 俺は見栄を張ってへらっと笑顔を作る。そんなやせ我慢を看破かんぱしたように、彼女はふっと優しげに微笑んだ。

 「テツロー、弁当はしばらくお休みだ」

 「いや、大丈夫だって。さっきはなんか感傷的かんしょうてきになって大袈裟おおげさに言っちまっただけで……」

 俺が慌てて取り繕うと、リリアナはそれをさえぎるように指を三本立てて見せる。

 「契約の条件、三つ目。私を満足させること」

 「それは……」

 その言葉に俺は思わず押し黙る。彼女は穏やかな口調で話を続けた。

 「見ての通り、この私は実に慈悲深じひぶかい女でな。こんなお前を見てしまったら、私はきっと満足できない。だからしばらくゆっくり休め、テツロー」

 リリアナは冗談めかして笑って見せたが、本気で心配してるのが伝わってくる。こんな顔をされたら黙って納得するしかない。

 「わかったよ。だったら快気祝かいきいわいに何でも好きなもの作ってやる。もちろん、今回はこの俺がお前の滅茶苦茶な常識に合わせるぞ。それで、何食ご所望しょもうだ?」

 俺は皮肉混じりに笑って見せる。彼女もふっと自嘲気味じちょうぎみに笑った。

 「そろそろ行くよ」

 リリアナはすっと立ち上がって、俺をまじまじと見つめる。

 「あぁ。お見舞い、嬉しかっ――」

 彼女は滑らかな指先で俺の顔に触れると、そっと頬に口づけをした。

 「……なっ、なっ」

 俺は口をぱくぱくさせて、固まってしまう。言葉も声も出てこない。

 「私の生まれ育った故郷では、別れの挨拶なんだ。まあ、泣き虫のお子様には刺激が強すぎたかな」

 リリアナは馬鹿にするように笑うと、くるりと背を向けて扉の方へ歩いていく。その暴言でようやく硬直が解ける。俺は顔が熱くなるのを感じながら、恨めしそうに呟いた。

 「てっ、てめぇ……、覚えてろよ」

 「覚えているさ。じゃあな、テツロー」

 彼女は後ろ手でピースしながら、保健室を去っていった。

 俺は確かめるように指先で頬に触れる。頬は油まみれでぬるぬるだった。

 ……あいつ、唐揚げ食った口でキスするんじゃねえよ。まったく、ドキドキが台無しだ。


 相変わらずの暴君っぷりに、俺は自然と顔がほころんでいた。

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