第20話 青い兎といばら姫①
知らない天井だ。
俺は
そっと横目で隣を見る。椅子に座る少女は
目があった瞬間、彼女は目に涙をいっぱいに溜めて、唇を震わせる。今にも泣き出しそうに顔を
……そうだ、俺、階段から落ちたんだ。
「おっ、おはよう、つばき。いや~、飛んだね。もうちょっとで空どころか、時をかけるところだったよ」
俺は口角を吊り上げて、なんとか口だけ笑って見せた。だが、彼女は涙を流してベッドに顔をうずめる。
「……ごめんね。私のせいで、ほんとにごめん」
つばきは小さな肩を震わせて、
お前のせいなわけない。何があろうとそれだけは間違いない。俺は痛む身体に鞭打って、彼女の頭に手を添えた。
「アホか、なんでお前が謝るんだよ。一ミリたりとも、お前のせいじゃねぇよ」
「……うん。……でも、ごめん」
これが恋愛経験なしの未熟者には精一杯。俺は彼女が泣き止むまで黙って頭を撫で続けた。しばらくすると、彼女も落ち着いたようで、手で涙を
つばきから状況を聞くと、どうやら俺は、五分程度その場で気を失っていたようだ。
その後、
マジか、全然覚えてねぇ。なかなか大事になってる。眼鏡も
「……工藤先生、厄介ごと起こしやがってと思ってんだろうな」
つい口に出てしまい、ため息をつく。あの人、怒るとマジで怖いからな。
「何言ってんの。先生、さっきまですごい心配そうに見てたよ」
「えっ、そうなの?」
つばきは少しだけ怒ったような口調で言った。先生の思いも寄らない反応に、俺は間抜けな声を上げる。彼女は呆れたように肩を
「もう、当たり前でしょ、みんな心配したんだから。私、先生呼んでくるね。テツロー君はそのまま安静だからね」
彼女は
一つだけ、どうしても確かめたいことがあった。
俺が落ちるところを一番近くで見ていたのは彼女だから。ゆっくりと一つ息を吐いて、意を決して声をかける。
「……なぁ、つばき。俺が階段から落ちたとき、周りに誰かいなかったか?」
つばきは振り返ると、俺の前に屈み込んで、顔を覗き込むようにじっと見つめる。それから、
「どういう意味? 何でそんなこと聞くの?」
彼女の表情は一変して、とても冷たい目をして俺を見る。その瞳から彼女の感情は読み取れない。俺は全てを見透かされたような気がして、目を逸らさずにはいられなくなった。
「い、いや。俺が落ちたとき、巻き込まれた奴いなかったかなって……」
俺はひどく
「ごめん、私も気が動転してたからよく覚えてないの。……でも、いなかったと思うよ」
「そっ、そうか。それは良かった」
俺が慌てて笑顔を作ると、つばきもいつものように笑顔を向ける。
「じゃあ、私は行くね。またね、テツロー君」
彼女はぽかんとした俺に小さく手を振って、保健室を後にした。
嘘だ、そんなことはない。あのとき、俺は確かに背中を押されたはずなんだ。そして、俺にそんな強い
もう手加減はしてやらない。必ず見つけ出して
……でも、手掛かりがなさ過ぎる。俺は相手が仕掛けてくるのをただ怯えて待つしかない。生まれて初めて向けられる本物の殺意。マジで容赦がない。正直、恐ろしくて仕方がない。
一人ぽつんと取り残されたと思うと、途端に恐怖に駆られて、歯がガチガチと音をたてる。俺は不安を押し殺すように、両手で目を
ガラッと扉が開く。俺はびくっと身体を震わせて、扉の方を見やる。
「つ、つばき。忘れもん……」
扉の先にいたのは、金髪のショートヘアではなく、対照的な黒髪のツインテールを
「テツロー、私との契約を破るとは。お前、いい度胸しているな」
「……リリアナ、なんでお前が」
予想外の人物に思わず
「いつまで経ってもお前が来ないから、一組に殴り込みをかけたんだ。教室に行くと、私の下僕が階段から落ちたと騒ぎになっていてな。こうやってご主人様が
「……そうですかい」
俺はすっかり
くそっ、こいつに『眠り姫の
彼女はあっと声を上げると、お目当ての物を見つけたようでベッドの傍にしゃがみ込む。
「おお、弁当あるじゃないか。それに今日は久しぶりの
ねぇよ。むしろ最悪の日だよ。……こいつマジで無神経な女だな。だんだん腹立ってきたわ。
「あっ、私の弁当が……」
リリアナが重箱の蓋を開けると、弁当の中はすっかすかでグチャグチャだった。まぁ、俺と一緒に重箱もダイブしたからな。中身もぶちまけたんだろう。
「悪いな、今日は弁当諦め――」
彼女は
「テツロー。やっぱり卵焼きは甘いのに限るな」
「……お前は、また手掴みで。行儀が悪いんだよ、ばかやろう」
こんな弁当を美味しそうに食べる馬鹿はお前だけだ。
――でも、それがなぜかたまらなく嬉しくて、先程の不安を吹き飛ばしてくれたようで、俺は自然と涙が溢れた。
「泣くなよ、テツロー。痛いのか?」
「……あぁ、痛ぇよ。痛すぎて死にかけた」
不安そうに見つめる彼女は、濡れた頬をそっと指先で
それからしばらく、涙はとめどなく流れ出た。その間、まるで子供をあやすように、彼女はずっと俺を見守ってくれた。
俺はようやく気を持ち直して我に返る。
こいつには
「それにしても大した嫌がらせだな」
「ああ、おかげでこのザマだよ。お前の言う通りだった。でも心配すんな、明日からきっちり弁当は届けてやるから」
俺は見栄を張ってへらっと笑顔を作る。そんなやせ我慢を
「テツロー、弁当はしばらくお休みだ」
「いや、大丈夫だって。さっきはなんか
俺が慌てて取り繕うと、リリアナはそれを
「契約の条件、三つ目。私を満足させること」
「それは……」
その言葉に俺は思わず押し黙る。彼女は穏やかな口調で話を続けた。
「見ての通り、この私は実に
リリアナは冗談めかして笑って見せたが、本気で心配してるのが伝わってくる。こんな顔をされたら黙って納得するしかない。
「わかったよ。だったら
俺は皮肉混じりに笑って見せる。彼女もふっと
「そろそろ行くよ」
リリアナはすっと立ち上がって、俺をまじまじと見つめる。
「あぁ。お見舞い、嬉しかっ――」
彼女は滑らかな指先で俺の顔に触れると、そっと頬に口づけをした。
「……なっ、なっ」
俺は口をぱくぱくさせて、固まってしまう。言葉も声も出てこない。
「私の生まれ育った故郷では、別れの挨拶なんだ。まあ、泣き虫のお子様には刺激が強すぎたかな」
リリアナは馬鹿にするように笑うと、くるりと背を向けて扉の方へ歩いていく。その暴言でようやく硬直が解ける。俺は顔が熱くなるのを感じながら、恨めしそうに呟いた。
「てっ、てめぇ……、覚えてろよ」
「覚えているさ。じゃあな、テツロー」
彼女は後ろ手でピースしながら、保健室を去っていった。
俺は確かめるように指先で頬に触れる。頬は油まみれでぬるぬるだった。
……あいつ、唐揚げ食った口でキスするんじゃねえよ。まったく、ドキドキが台無しだ。
相変わらずの暴君っぷりに、俺は自然と顔がほころんでいた。
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