第16話 初恋と甘々④

 自宅マンションの扉前。

 朝、この家を出たとき、女の子を連れて帰宅するなんて誰が予想できただろうか。それが初恋の女の子とくれば尚更なおさらだ。

 だがしかし、下校、お買い物ときて、いよいよ自宅かよ。まるで、ギャルゲー定番イベントじゃねえか。やっぱり現実リアルは神ゲーか。つーか、一日で回収率高すぎんだろ、つばきルート。

 俺は額にびっしょりと汗を浮かべて、ドアに手をかける。玄関を開けると、リビングからドタバタと駆け寄ってくる足音が聞こえた。

 「テツくん、おかえり~。今日は遅かっ――」

 母さんは口をパクパクさせながら固まったように動かない。まあ、そうなるよね。俺は男友達すら家に連れてきたことないし。すると、母さんは突然、ぽろぽろと涙を流す。

 「テッ、テツくんがとっても可愛い彼女さん連れてきたよ~。嬉しいはずなのに、なんだか思ってたより複雑な気分だよ~」

 母さんは崩れるように座り込んで、年甲斐としがいもなく大泣きする。つばきはおろおろと困惑しながら、小さな声でこっそりと耳打ちしてきた。

 「えーと、お姉さん?」

 「……いや、うちの母さん」

 つばきは大きな目をぱちくりさせながら、俺と母さんを交互に見る。まあ、そうなるよね。このやり取り、授業参観思い出したわ。教えてやるとみんなこんな顔してたな。

 母さんは玄関の前でへたり込んで、ぐすっと鼻をすする。俺は買い物袋を置いてかがみ込むと、母さんの肩をポンと叩いた。

 「母さん、こいつは俺の彼女じゃ――」

 つばきはすっとしゃがみ込むと、俺の言葉をさえぎるように強引に腕を掴む。それから、母さんにキラキラ輝く無敵の素敵スマイルを向ける。

 「初めまして、テツロー君の彼女やらせて頂いてます、古賀つばきです。お母さん、お若いですね~」

 「おい、つばき。うちの母さん、本気にするぞ。マジでやめとけ……」

 うちの母さんはピュアでホワイトなキュアホワイトだから。つーか、また腕に胸が……。まあ、俺は一向に構わんがな。なにがって? なんでもだよ。

 母さんはようやく泣き止むと、濡れた目をこすりながら、つばきに優しく微笑む。

 「初めまして、テツくんのママやってる宇佐見桜子うさみさくらこです。つばきちゃん、ほんと可愛いなぁ。ね、テツくん」

 そ、そこで俺に振っちゃうの。つばきもめちゃくちゃ俺見てるし。なんだこの状況。あー、くっそ。やっぱり言わなきゃだめだよね。

 「……ま、まぁな」

 思わず声が上擦うわずる。ヒョー、恥ずかしすぎて顔がアッチアチだ。

 「ほんとに? テツロー君、私、可愛い? ねぇねぇ、もう一回言ってみて」

 つばきはニヤニヤと笑いながら、俺の頬を指先でぷにぷに突っつく。

 「ほら、テツくん。恥ずかしがらずに言ってみ、言ってみ?」

 なぜか母さんも一緒になってもう片方の頬を突っつく。

 ……こいつら。ちっ、勝手にしろ。どうなっても知らんぞっ!

 しばらくこの羞恥しゅうちプレイが続き、俺たちはようやく部屋の中に入った。

 

 × × ×

 

 つばきと母さんはリビングでにぎやかに談笑だんしょうしている。傍から見ると、まるで仲の良い姉妹のようだ。一方、俺は台所で夕飯の支度したくに取りかかる。

 今日のメニューはつばきが勝ち取った国産黒毛和牛とお買い得なじゃがいもを使った定番料理、肉じゃがだ。

 水を張ったボールにじゃがいもを入れて丁寧に洗う。次いで、洗ったじゃがいもと人参を乱切り。玉葱を串切りにして、メインのお肉を一口大に切る。下準備は完了だ。

 俺は手際良く調理を進めていき、最後の煮込みに入る。しばらくすると、リビングからつばきがやって来た。

 「美味しそうな匂い。テツロー君、さすが主夫歴八年だね」

 「あん? 母さんから聞いたのか。しかし、スーパーの値切りといい、お前のコミュ力は凄まじいな」

 クラスで人気者なのは知っていたが、まさか大人相手にも大人気とは。こいつの世渡り上手っぷりには驚きだ。芸能界でつちかわれたものなのだろうか。

 「そんなことないよ。お母さん、嬉しそうにテツロー君のことばかり話すから、私は聞いてるだけ」

 つばきは頬を掻いて、困ったように笑う。思わず母さんのほうを見ると、俺の視線に気づいた母さんは笑顔で手を振ってくる。

 「あ、あの親バカが……。悪いな、こんなこと滅多にないから、はしゃいでるんだ」

 「ううん、良いお母さんだね。羨ましいくらい。この幸せ者めっ! あ、もしかしてテツロー君ってマザコン?」

 つばきは含み笑いをしながら、俺の脇腹を軽く肘で小突いた。俺はため息をつき、こめかみに手を当てる。でもまあ、つばきの言う通り。俺は幸せ者のマザコンだ。

 彼女は笑顔で母さんに手を振って返すと、軽い調子で話を続ける。

 「それより、何か手伝うことない?」

 「あぁ、じゃあ味見してくれ」

 鍋蓋なべぶたを開けると、肉じゃがが良い具合に煮詰まっていた。俺は小皿に汁を入れて、つばきに手渡す。彼女は明るい髪を耳にかけて、唇を小皿に近づけた。

 「うん、バッチリ。ほら、テツロー君も」

 彼女は無邪気な笑顔で口づけした小皿を俺に差し出す。

 ……こいつ、またあざとい行動を。いや、俺が意識しすぎなのか? ほら、女子ってみんなで食事シェアするし。そうだ、これはただの味見だ。

 俺はそーっと小皿に唇をつけて、汁をすする。つばきは小首を傾げて「どう?」みたいな視線を向けた。

 もちろん、味なんてまったくわからなかった。……ふぅ、やれやれ仕方ない、もう一度だ。俺が再び小皿に唇をつけると、つばきは口に手を当てて、大袈裟おおげさに驚いて見せる。

 「あっ、これって間接キスだよね?」

 「……お前、俺を泳がせやがったな」

 つばきは俺を指差し、腹を抱えて爆笑している。

 ……何なのこの娘、そんなに俺をいじめて何が面白いの? 悪魔なんて生温い、こいつは魔王だ、暴虐ぼうぎゃくの魔王だ。

 俺は羞恥しゅうちに唇を噛みながら、ぷいと顔を逸らした。冷蔵庫からきゅうりを取り出して、ぱぱっともう一品おかずを作る。

 「ごめんごめん。これ切ればいいの? 私やるよ」

 つばきは腕まくりをして手を洗うと、慣れた手つきで素早くきゅうりを輪切りにする。

 「おお、やるじゃねーか」

 「これくらい女の子なら当然」

 彼女はふふんと自慢げに鼻を鳴らす。だってさ、母さん。母さんは一人、テレビの前でゲラゲラと笑い声を上げている。

 確かにつばきの包丁捌きはなかなかだ。だが、俺のほうがもっと凄い。俺は彼女に包丁を渡すようドヤ顔でうながす。魅せてやろう、これが主夫歴八年の腕前だ。

 俺はリズミカルかつ超高速でまな板に包丁を振り下ろす。

 「速っ! 凄い、速すぎて包丁の残像が見えるっ!」

 つばきは目を丸くして、驚きの表情を浮かべる。そうだろ、凄いだろ。これが家事を一切放棄した母親を持つ息子、いや主夫の力だ。

 「フハハハハ。どうした、ついてこれねぇか? まだもうちょい、速くできるんだ――」

 ――瞬間、指に激痛が走る。

 「いってぇっ! 指切ったっ!」

 嘘だろ、調子乗ってこれはダサすぎる。終わりだ……。

 「もう馬鹿、なにやってんのっ! ちょっと見せて」

 つばきは俺の指を触って傷口を確認する。それからほっと安堵あんどの表情を見せた。その時である。

 俺の指先が彼女の唇に触れる。そのままパクッと咥えると、俺の指は彼女の舌に絡め取られた。

 「ちょ、お、お前、なにを……」

 ……な、何が起きてるんだ。つばきが、初恋の女の子が、俺の指を必死に吸っている。やべ、温かくてすごく気持ちいい。頭がポカポカしてきた。

 「よし、これで大丈夫」

 顔を上げたつばきは俺の様子を見て、はっと我に返る。可愛らしい顔はたちまち真っ赤に染まっていく。俺は視線を彷徨さまよわせながら、小さく咳払いをした。

 「……あ、あの。気持ちは嬉しいが、そのなんだ……」

 「……あっ、ご、ごめん」

 つばきは口ごもるように言うと、頬を赤くしてうつむいた。おい、そこは計算じゃないのかよっ! 天然かよ。かわいい魔王さまだな、コンチクショー。

 まるで、少女マンガみたいな甘酸っぱい空気が流れる。その空気をぶち壊すようにお節介おばさんの笑い声が聞こえた。

 「むふふふ、ママはお邪魔だったかしら?」

 「「そ、そんなんじゃ――」」

 俺とつばきの声が重なる。思わず彼女を見やると、互いに顔を合わせて見つめ合う。妙に小恥ずかしい気持ちになり、誤魔化そうにも言葉が出てこない。


 俺たちが沈黙する中、母さんはきゃっきゃっと一人で盛り上がっていた。

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