第6話 迷い兎と眠り姫⑥

 文字通り、冷や水を浴びせられたおかげでこの場は何とか収まった。俺と少女は髪も服もびしょ濡れだ。まだ四月で肌寒いってのに、この先生は容赦がない。

 「……キョーコ、やってくれたな」

 向かいのソファに座る少女は恨めしそうに腕のすそで顔をぬぐう。濡れたブラウスが肌にぴったり張り付いて胸元が透けて見える。腕を動かすたびに大きな胸が小刻みに揺れて、目のやり場に困った俺はあちらこちらと視線を泳がせる。

 「ったく、ハンカチもねーのかよ、このお嬢様は。ほら使え」

 「あ、うん……。悪いな」

 意外だったのか、少女はきょとんとした表情でハンカチを受け取る。

 俺は黒い学ランなので水シミもそんなに目立っていない。腕のすそで顔をぬぐおうとすると、工藤先生はため息交じりに俺の腕を掴んだ。

 「君が同じ真似してどうする。まったく、じっとしていろ」

 「え、あっ」

 先生はひょいと俺の眼鏡を外すと、濡れた額をハンカチで拭き取ってくれる。あー、なんかこのハンカチ、すごい良い匂いがする。

 「眼鏡……、ないほうがいいな。やっぱり」

 そう呟いて、先生は俺の頬に手を添える。それから息がかかりそうなほど近くに顔を寄せて、じっと俺を見つめた。え、なにこのラブコメ展開。つーか、また俺が受けなの? そんな才能あんの?

 「キョーコ、私のときは貸してくれなかった。そいつに甘くないか?」

 俺と先生の世界に水を差すように、少女は不満げな視線を送る。

 いやいや、むしろ俺のこと嫌いなのではと思ったくらいだ。そもそも、この人が俺に甘いならお茶ぶっかけないだろ、サディストかよ。

 工藤先生は彼女を一瞥いちべつすると俺の頬から手を離して、ぷいと横を向いてしまう。

 「ところで九條、もういい加減に本題に入ってもいいか。私も暇じゃないんだよ。宇佐見も、昼食ならさっさと食べて教室に……、なんだその弁当は?」

 「あー、珍しいふりかけなんですよ。気にしないで話を続けてください」

 これ以上、話が拗れるのは御免ごめんこうむる。俺はアレが入った弁当を腕で隠しつつ、テーブルに置いてある眼鏡を掛け直してへらっと笑顔を作る。

 先生はいぶかしげな様子で首を傾げていたが、再び少女に視線を戻す。それはそうと、九條って日本の名字だよな。で、この容姿はやっぱりハーフか?

 「本題って、どうせまたあのくだらないレポートだろう?」

 彼女は心底嫌そうな顔で、気怠きだるげにソファに寝そべった。

 先生は呆れた表情で悩ましげに髪を掻き上げる。持参のバインダーから紙の束を取り出すと、それを彼女に手渡した。

 「そのくだらないレポートを届ける私の身にもなってほしいが……。期限は今週中だ、わかったな」

 九條はそれを受け取ると、こくりと無言で頷く。

 「なんだ、お前。もしかして補習か?」

 さては、こいつ馬鹿か? そういうことかっ! あの馬鹿力も納得。ジャンクフードばっか食ってるから頭が退化するんだよ。もっと魚を取れ、魚を。魚を食べると頭が良くなる。

 「ああ。授業に出ていないんだ」

 「えっ……」

 予想の斜め下をぶち抜いて行く。俺は思わず絶句してしまう。

 いや、滅茶苦茶な奴だとは思っていたが、ここまでとは。まさか不登校? いや登校はしてるから、保健室登校? ではなくここは空き教室。言い換えると余裕教室で余裕登校か。わお! なんか重役出勤みたいだ。

 俺は困惑して、工藤先生に説明を求めるような眼差しを向ける。先生は困ったように額に手を添えて、ふぅを息をついた。

 「まぁ、彼女にもいろいろあるんだ」

 「いろいろ……ですか」

 まぁ、プライベートに関わるつもりなんて更々ないから余計な詮索せんさくはしない。ちょっと話が重たすぎてついていけない。

 「いろいろはない、単にめんどいだけだ」

 「余計に性質たち悪いわっ!」

 ただの甘やかされたお嬢様じゃねーか。なんかちょっと心配して損したわ。ほんと、ほんの少しだけな。先生も勘弁してくれという顔で彼女を見ている。

 「それでは、私は帰らせてもらう。それと、九條。三日後の実力試験は必ず受けろ。試験の欠席だけは補習ではどうにもできないからな」

 「ああ、了解したよ」

 「……え、実力試験ってなんですか?」

 聞き覚えのない単語に一瞬固まる。すぐさま工藤先生のほうを見やり尋ねると、先生は意外そうな顔をして答える。

 「ふむ? 言ってなかったか。毎年恒例なのだが」

 「初耳ですよっ! 学園から何も説明受けてないし。あんた、今朝けさは何も言わなかったじゃないか」

 「あ~、言ったような言わなかったような。まぁ、そういうことだから。私は帰る」

 先生は視線を逸らすとばつが悪そうに頬を掻いた。それから俺の追及から逃れるようにそそくさと去っていく。

 こ、この女、とぼけやがった……。何が「以上でこちらの説明は終わりだ」だよ。不足しかねぇよ。

 しかし、編入して最初の試験が三日後って。これ詰んでるじゃん。俺は一夜漬けとか苦手でコツコツ地味にやる派なのに。

 しゃーない、今回は諦めた。今更焦ったところでどうしようもない。

 工藤先生は扉に手をかけたところで立ち止ると思い出したように告げる。

 「そうだ、宇佐見。特待生は平均点を一教科でも下回ると資格が剥奪となる。当然、学費免除も白紙だ。心してかかれよ」

 「死活問題じゃねぇかっ! そんな重要なことをついでみたいにさらっと言わないでくださいよっ!」

 そりゃ、在学中に不祥事や成績不振で資格を剥奪されるのは知ってたけどさ。厳しすぎない、それ。新手あらての入学詐欺かよ。

 「お前、特待生だったのか。てっきり馬鹿だと思ってたよ」

 九條は心底驚いたような顔でこちらを見る。

 お前に言われたくねぇよ、馬鹿力女。口に出したかったが今は無視だ。慌てて先生のもとへ駆け寄る。

 「ちょっと、待ってくださいよ。俺はまだこの学校でろくに授業も受けてないんですよ? 試験範囲なんて知らないし、明らかに不公平でしょう。何か特別措置とかないんですか?」

 「ん~。今のところ、そのような制度はないな。学園に異議申し立ては可能だが、おそらく受け入れてはくれまい」

 「そ、そんな馬鹿な……」

 一般生徒になってバカ高い学費を払ってたらここを選んだ意味がない。というかうちの家計にそんな経済的余裕はない。転入早々に自主退学かよ……。

 言葉を失って俯いていると、工藤先生は俺の頭をわしわしと撫でる。

 「宇佐見……、そう心配するな。お前は先月まで編入試験の勉強をしていたんだろう?」

 「それはそうですけど……、勝手は違うでしょう?」

 俺は子ども扱いする先生の手を振り払うと、先生は少し困ったように微笑んだ。

 「所詮は一年生の振り返りだ。現時点の学力を測る編入試験と大した差はないよ。試験範囲が広い分、自ずと平均点も下がる。それにこの学園には平均点をいちじるしく下げる腐ったミカンがいるからな」

 俺は腐ったミカン、もとい九條のほうを見ると、試験の話なんて全く興味はないのか、テーブルに広がる駄菓子を呑気に摘まんでいた。

 確かに言われてみればその通りかもしれない。試験対策で纏めていたノートを見返すだけでも効果は期待できるかも。

 そんなことを考えていると、先生は扉を開けて歩き出す。

 「試験についてこれ以上のアドバイスは私と君のクビが飛ぶ。残り時間は少ないがやれることはやっておくように。九條、お前も試験サボるなよ」

 そう念を押して先生が部屋を去ると、俺と九條は再び二人っきりとなった。

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