第5話 迷い兎と眠り姫⑤

 マシュマロのような弾力と柔らかさ。あれが下着越しではない本物の感触……。けれどそこには、確かな重みがはっきりと感じられた。あの重みは何が詰まっているのだろう。やっぱり夢と希望か。

 ベッドの上でがさごそと音をたてる少女をちらっと見る。手には装飾が施された白い布地を持っていた。

 すると、少女は勢いよくブラウスをたくし上げる。透き通るような白い肌に、曲線美を描いたくびれ、美しい背中のライン。ブラウスからはほんの少しだけ魅惑の放物線が見え隠れして、俺は思わず息を飲んだ。

 胸下までたくし上げたところで、こちらの視線に気づいたのか、少女はゴミを見るような目で俺を睨みつける。

 「なに鼻の下伸ばしてニヤけている。このエロ助が。あっちを向いてろ」

 「おまっ、ばっ、ばかやろうっ! み、み、見てねーからな、勘違いすんなよっ!」

 「ふぅん? どうだか」

 彼女の視線から逃れるため、慌ててくるりと背を向けて目を瞑った。女性用下着なんて普段の洗濯で見飽きたもんだったのに。家族ではなく、目の前にいる同年代の異性ってだけなのに。自分でも驚くほど、ひどく興奮している。

 「っつーか、そういうことはだな。人前でやるものでは……」

 「ここは私の部屋で、何をしようが私の自由だ。文句があるならお前で出ていけ」

 後ろ越しに布が擦れる音がする。視覚を遮断したことで聴覚が研ぎ澄まされていく。くそっ、なんだこの嬉し恥ずかしな状況は。この女、恥じらいという概念はないのか。いやしかし、ここまで完璧なプロポーションしてたら威風堂々いふうどうどうとした態度も頷ける。

 工藤先生も長身でスラッとしたモデル体型で美しかった。かたや、こいつは肉感的というか、主に胸が。とにかく妖艶というか、なんか凄いフェロモン放っている気がする。

 念のために言うが、別に先生の胸がスラッとしているわけではない。や、ほんとほんと。

 まぁとにかく、こいつがデカイのだ。これがFカップってやつか? 胸のサイズに無縁な俺には全くわからんが。

 「……おっ、おい、もういいか?」

 みっともないほど声が上擦った。返事はない。ヒョー、甲高かんだかすぎて可聴域かちょういき超えちゃった?

 冗談はさておき、こんなところ誰かに見られたら、不純異性交遊とやらで人生終了だろう。退学処分にでもなったら、女手ひとつで育ててくれた母さんに合わせる顔がない。

 「おい、もういいか? ダメならお前の言う通り、俺が出ていくから」

 痺れを切らして、目を開けようとしたときだった。

 がらっと扉の開く音がした。半ば閉じた目をカッと開いて、扉のほうを見やる。引き寄せられた視線の先には工藤先生がいた。

 「…………」

 目と目が合い、呼吸が止まる。先生は大きな瞳を二、三度ぱちくりさせて、俺と後ろにいる少女を交互に見ている。

 そこから先は、凍りつくような沈黙が部屋を支配していた。先生の冷たい視線が痛いほど感じられる。俺はその場で固まったように動けない。

 すると、それが呼び水となるように、透き通った少女の声が響く。

 「だから慌てるな。もうちょっと待っていろ」

 ちょっと、最悪のタイミングだよっ! そのセリフ、誤解しか生まないよっ!

 先生は鬼の形相でこちらを睨みつける。

 「お前ら……、神聖なる学び舎で一体何をやっている」

 「あっ、あのですね……。けっして、先生が考えているようなやましいことはなくてですね」

 「ほう、君は私が考えていることがわかるのか。ぜひ、聞かせてもらおう」

 一見穏やかだが、その目が笑っていないことに気づいてギョッとする。先生は静かな怒りを滲ませていた。いや、怖ぇよ。どこの戦闘民族だよ。

 弁明したいが、まず何から話していいのやら、まるで思考が働かなかった。思わず、たははと乾いた笑いが漏れる。……母さん、親不孝な息子でごめんなさい。

 力なく肩を落とした俺を横目に、ようやく下着をつけ終えたのか、少女は軽快な足どりで戻ってくる。

 「ん? キョーコじゃないか。そうだ、聞いてくれ。そこにいる……、お前、そういえば名前を聞いてなかったな」

 彼女は思い出したようにぽんと手を叩き、向かいのソファに座る。

 「……教師を名前で呼び捨てにするな。それで、何でこの部屋に彼がいるんだ」

 先生はうんざりとした表情でこめかみを押さえながら、少女に顔を向ける。

 てつくような視線から解放された俺は、静かな表情で異様な状況を見つめていた。

 この女と先生は親しい間柄なのだろうか。心なしか、この場の雰囲気が変わったような気がする。

 やるじゃないかっ! 初めてお前に感謝するぞ。さあ、説明してやってくれ。えっと……、こいつの名前知らねーわ。

 「そう責めてやるな。ぼっち飯の寂しさに耐えきれずに、教室から逃げ出してきた哀れな転校生なんだ。迷いに迷って行き着いた先がここらしい」

 「おい、そこはバラすんじゃねーよ……」

 少女はけらけらと腹を抱えて大笑いしている。それを聞いた先生は捨て犬を見るような哀れみの眼差しを俺に向けた。ほらね、こうなるから嫌なんだよ。あー、心が痛い。

 笑いすぎて涙が出たのか、少女はごしごしと袖で目元を拭っている。……マジで笑いすぎだろ、こいつ。俺は仕返しとばかりに先生のもとへ向かう。

 「先生、こいつ無茶苦茶ですよ? これが甘やかされたお嬢ってやつですか。人の弁当は勝手に食うし。しかも手掴みですよ? 今どき、幼稚園児だってそんなことやりませんよ。こいつらチンパンジーですよ、チンパンジーっ!」

 俺の言葉に、少女はピクッと反応する。ぴたりと笑いを止めて無言で立ち上がると、バキッ、ボキッと拳を鳴らしてこちらへ向かってきた。

 「ほぉ、先ほど私に泣かされた分際で……。今度はこの私をチンパンジー呼ばわりとはよく言ったものだ。やはりお前には礼儀というものを叩き込んでやる必要があるらしい」

 チンパンジーがよほど気に障ったのか、彼女は怒りに満ちた表情で獰猛どうもうな笑みを浮かべている。いや、怖ぇよ。こっちは世紀末覇者かよ。ほんの少し前、心と身体に刻み込まれたトラウマがフラッシュバックしていく。

 だが、前回のようにはいかない。なぜなら、今ここには工藤先生がいるからっ! こうなると、売り言葉に買い言葉である。

 「はぁ? テメーが叩き込むのは拳だろうがっ! 先生っ! 聞きましたか? 俺、この女に二度も泣かされたんですよっ!」

 「宇佐見……、自分で女に泣かされたなんて情けないこと言うなよ」

 訴えかけるように先生の袖を引っ張るが、先生は呆れ返った様子で俺の手を払い除ける。その様子を見て少女は勝ち誇ったように笑い声をあげた。

 「安心しろ。怖くない、怖くない。まずは仲直りの握手からだ。幼稚園児でも理解できる礼儀作法だろう?」

 こいつ、相当根に持ってやがる……。少女は邪悪な笑みを浮かべてこちらに近づいてくる。俺は再び、先生に助けを求めた。

 「嘘だっ! なにが握手だ。先生、こいつはやりますよ。話が違うじゃねーかっ! ここは学園ドラ――」

 一瞬よそ見をした隙に、右手を絡めとられた。彼女はしたり顔でじわじわと手に力を入れる。真綿まわたで首を絞めるように、少しずつ少しずつ……。

 「やっ、やめろ、てめっ。痛い、いたああぁぁぁぁああああああ――っ」

 「ふふん、そうかそうか。かわいい奴め。私との握手が泣くほど嬉しいかぁ?」

 右手に激痛が走り、骨がミシミシと軋む音がする。その手を振り払おうとしたが、指一本動かない。マジでどうなってんだ、この馬鹿力。

 「っんなわけあるかっ! いい加減にしろ、このゴリラ女がっ!」

 「ゴッ、ゴリラ女ぁ? スタイル抜群、超絶美少女のこの私に……。言うこと欠いてゴリラだと? よく見ろ、お前の目は節穴かっ!」

 怒りに唇をわなわな震わせて、とんでもない剣幕けんまくで俺に詰め寄る。怒りのあまり顔は真っ赤である。

 うひゃーっ、ゴリラめっちゃ効いてる。今なら「やーい、このおこりんぼ」でも怒り狂いそうだ。つーか、自分で超絶美少女って……、こいつセーラー服の人だったか。ツインテールだし。えー、月に代わってお仕置きされちゃうじゃん。こいつに愛と正義なんて欠片も感じないが。

 そんな馬鹿なことを考えてるうちに、もう片方の手が絡めとられる。俺と少女は両手をがっしりと組んで、互いを見つめ合う。

 「うぎぃっ! ぐ、ぐおおぉぉおお――っ」

 「ほら、いい加減に素直になったらどうだ? こーんな可愛い女の子と恋人繋ぎをしてるんだ。つい、恋をしてしまう。それが世の道理というものだ」

 熱弁を振るう少女の顔は嗜虐的しぎゃくてきな笑みに満ちていた。これが俗に言う恋人繋ぎなのだろうか。俺にはプロレスの力比べにしか見えない。

 「こっ、こんな道理で……、恋してたまるかあああぁああっ!」

 力比べの勝敗は実にあっけないもので、俺は為す術もなく半ばソファに押し倒される。いや、なんで俺が押し倒されてんの? 誰が得すんのこれ? 男女逆だよ、逆。

 俺は防戦一方の籠城戦ろうじょうせんを続ける中、再三にわたって工藤先生に援軍を求めた。だが先生はそんなことには興味がないらしく、テーブルに置かれた水筒を手に取ると、コップにお茶を注いだ。

 「ちょ、先生っ! ティーブレイクしてんなよっ!」

 ここは風景なんてまるでよくねぇーぞっ!

 「手を出すなよ、キョーコ。二度と生意気な口を叩けないように、この男は私が教育してやる。ゆっくり茶でも飲んでいろ」

 現役の教師を前に尊大そんだいに宣言した。お前は一番やっちゃいけないタイプだろうが、この暴力教師が。

 あぁ……、ダメだ。もう手の感覚がなくなってきた。目の前で凶悪な顔つきをしているこの女に俺はまた泣かされるのか。暴言に暴力に屈するしかないのか。

 俺は目を伏せるようにして、静かに声を落とす。

 「……わ、わかったから、俺の負け――」

 半ば諦めかけていた、そのときであった。

 ――パシャッ!

 「「つめたっ!」」

 俺と少女の声が重なった。何が起きたか理解できず、視線を上げる。俺の上にまたがる彼女は何かを察したらしく、してやられたとばかりに下唇を噛んでいた。

 「キョーコ……。お前……」

 「文字通り、冷や水を浴びせてみたが。頭は冷えたか? 二人とも」

 工藤先生は空のコップを手に、うまいこと言ってやったぜみたいな表情をしていた。

 ……先生、飲み物ぶっかけるとか今どき再放送のドラマでも見かけないよ。午後の授業どうすんだよ。

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