第3話 迷い兎と眠り姫③

 埃が舞い降りる部屋に光が射し込む。

 単なる光の散乱さんらんなのに、そんな現象がやけに神秘的な輝きに満ちていて、まばゆい光に包まれる少女は制服なのにまるでおとぎ話の眠り姫だ。

 美意識も、感性も、価値観も、自分の世界さえも変えてしまうほど、目の前に映る光景は一枚の絵画かいがのように美しい。

 黒髪の縦巻きツインテール。透き通るような白い肌に端正な顔立ち。も言われぬ美しさとは彼女のためにあるのだろう。外国人にも見えるが、いやハーフか。

 そして何より、仰向けでも、なお主張を続ける――で、でかいな……。

 なんてじろじろ見ていると少女は寝返りを打つ。思わずびくっと反応した俺は、ようやく我に返って、そーっと彼女の顔を覗きこむ。

 「……んんっ」

 少女は穏やかな寝顔ですうすうと寝息を立てていた。

 いかん、なに自分の世界に浸ってんだ、おれ。こんなの現実リアルではおとぎ話の王子様ではなく、ただの痛いポエマーなんだ。

 くっそ、やっぱり人いたのかよ。しかも清掃員どころか一番会いたくなかった一般生徒だ。ここで目覚めるといろいろ面倒なことになる。さっさとコップ拾って退散、退散っ!

 俺は若干キョドりながらコップを探す。すると、なんということでしょう。コップは机を通過した後、左に急カーブしてベッドの下に潜り込んでいるではありませんか。……いや、劇的過ぎんでしょ。床でも傾いてんのか、このオンボロ棟。

 俺は少女の眠りを妨げないようにそろりそろりとベッドに近づき、ゆっくりと腰を下ろす。横向きで寝ている彼女の顔がすごく近くにあって、なんだかとってもいい匂いがする。

 否が応でも心臓の鼓動は速さを増し、俺は彼女に惹きつけられた。つーか、寝顔まで可愛いって反則だろ。完璧か、この美少女。

 俺は頭をぶんぶん振って雑念を振り払う。俺の心はきょにゅ~にむちゅ――ではない、俺は心をニュートラルに戻す。

 床に手足をついて四つん這いになると、コップの位置を確認しながらベッドの下に右腕を滑り込ませる。届くか届かないかギリギリの位置だ。俺はもうひと押しとばかりにぐっと右手を伸ばすと、指先でコップを挟んだ。

 ちろっと少女に視線を向けると、相変わらず気持ち良さそうに寝息を立てている。そんな彼女を見て安堵したのか、俺は思わずふぅっと長いため息をついた。そのときである。

 吐息によって舞い上がった埃は俺の鼻腔びこうを容赦なく襲った。

 その瞬間、粘膜ねんまくが刺激される。俺はさっと鼻を押さえたが、我慢したところで今さらもう遅い。

 「……へっ、へっ、――へくちっ!」

 や、やっちまった。

 恐る恐る視線を移すと、少女は大きな目をぱちくりさせながら、こちらをじっと見つめている。俺は目が泳いでしまい、自分でも顔が赤くなっていくのがよくわかった。慌てて弁明の言葉を探す。

 「おっ、おち、おちついてくれ」

 噛み噛みだった。まず、俺が落ち着け。や、だってこんな美少女に真っ直ぐ見つめられたら男なら誰だってこうなるだろ。むしろ大半はここで恋に落ちるわ。

 そんな俺の言葉を聞き取れなかったのか、それとも興味は一切ないのか、少女は気怠げにベッドから起き上がる。それからくあっと子猫のような欠伸あくびをすると、両手をあげて大きく伸びをする。

 「んんーーーっと……」

 二つの大きな山がよりいっそう盛り上がり、ボタンがはち切れそうだ。ブラウスの隙間からは胸元がちらりと見える。やばい、なんだこの凶器。目が吸い寄せられる。

 「ん?」

 俺のよこしまな視線に気づいたのか、一瞬焦ったがどうやら違ったようだ。少女はベッドを離れると、くんくんと鼻を鳴らしながらテーブルのほうへ向かっていく。

 革張りのソファに座った少女はテーブルに置かれた弁当を興味深げに眺めている。すると、卵焼きを一つつまんで、口に放り込んだ。

 「…………」

 次いで、もう一つまみ。さらに、もう一つまみ。一向に手は止まらない。

 少女は手づかみで次々とおかずを口に運んでは、時折うんうんと頷く。かたや俺は、状況が飲み込めないまま、ほえーっと呆けたように口を開いて彼女を眺めていた。

 少女は指先をペロッとひと舐めすると、こちらを振り向く。

 「うまいな、これ。お前の弁当か?」

 「……あ、はい」

 俺が答えると、彼女はそうかそうかと、満足げに何度も頷きながら再び弁当に手を伸ばす。

 「それにしても、この卵焼きは甘くて私好みだ。たまにしょっぱいのあるだろう? あれは駄目だ。中にねぎ入ってるやつもな、何でわざわざ邪魔な野菜なんて入れるんだ。卵焼きは砂糖たっぷりの甘いのに限る。まぁ、明太子に関しては別のカテゴリとしてなら認めてやってもいい」

 卵焼きについて講釈こうしゃくれる少女を見て、ようやく頭の整理が追い付く。

 いやいや、確かに俺も卵焼きは甘いほうが好きだけど、しょっぱい卵焼きも美味しいよ。付け合せに大根おろしを添えてさ。余ったねぎも卵に入れたら残さず使える。捨てるなんてもったいない。それに長ネギの青い部分は――

 「――って、んなことはどうでもいいんだよっ! おまっ、なんで当然のように人の弁当食ってんだぁ――っ!」

 テーブルの上に置かれた弁当を慌てて取り上げる。残っていたのは白飯とほうれん草のお浸し。

 「あぁ……、朝からわざわざごぼう剥いて作った俺の甘辛煮が……。今日のささやかな楽しみだったのに」

 「ほぅ、この弁当はお前が作ったのか。実を言うと私は野菜が大嫌いなんだが、うん、あれは美味しかったよ。野菜嫌いの私が言うんだ。自信を持っていい」

 だからほうれん草には一切手つけてねーのか、こいつ……。

 「てめぇ……、さっき、俺のだって答えたよね。それでも食べるってあの確認なんだったの? おまえのものはおれのものなの? ジャイアニストなの?」

 俺が喰ってかかると、少女はムッとした表情で睨み返してきた。

 「なんだ? お前の弁当に免じて、この私の寝込みを襲ったことは不問にしてやらんでもないと――」

 「ちょ、ちょっと待てっ! 襲ってないぞ。確かに疑われても仕方ない状況ではあるが、俺は指一本触れていないっ!」

 ……舐めるようには見てたけど。うん、嘘は言ってない。

 俺の弁明を一切斟酌いっさいしんしゃくせず、少女は面倒くさそうに話を続ける。

 「……いちいち細かい男だ。で、人をジャイアン呼ばわりするお前こそ何なんだ? 人の部屋に断わりもなしで、理由の如何問いかんとわずただでは置かんぞ」

 それまでの気怠けな口調が一変して、ぞっとするような冷たい声音で言い放つ。俺は思わず、一、二歩と後ずさる。

 怖っ! ドス効きすぎでしょ! っつーか、「返答次第」じゃないのかよ……。弁当に免じて、やっぱり許さないのかよっ!

 ……だが、彼女の言う通りだ。勝手に部屋に入った俺に非がある。きっちり説明しなければ。

 「じ、実は、校内をさまよってるうちにこの北棟に行き着いてな。たまたま扉が開いてたこの部屋を見つけたんだ。確かに勝手に入ったことは、そのなんだ……、配慮に欠けてた」

 俯きがちに視線を逸らし、ごにょごにょと呟く。正直、弁当食われた上に頭を下げるのは少しばかり癪だった。

 恐る恐る少女の様子を窺うと、ふっと馬鹿にしくさった表情で笑い、縦に巻かれた髪をさっと払った。

 「馬鹿かお前は。入学して間もない一年生ならまだしも、緑の襟章えりしょうを付けたお前が校内で迷子になっただと? 私の目の前にいるのは三歩歩けば忘れるニワトリなのか? ああ、そうか、先ほどからぎゃあぎゃあと鳴き声がしたのはそのせいか」

 ぽんと手を叩き、納得とばかりに彼女はうんうんと頷く。

 ……待て待て、キレるな。俺の説明不足が原因だ。しっかし、下手な芝居しやがって。明らかに煽ってやがる。

 この精華学園は男子は襟章えりしょう、女子はネクタイリボンの色が学年別に分かれている。確かに二年生が迷子ってのは変な話だ。ちなみに、この女はネクタイリボンをつけていないので学年はわからない。年下だったらおぼえてろよ、この野郎。

 「説明が足りなかった。俺、転校生なんだけど今日が初登校でさ。本当に他意はないんだ」

 「ふむ、その転校生くんが初日からこんなところで一人寂しく昼食?」

 少女は小首を傾げると、頬に指を当てて「よくわかんな~い。てへっ」みたいな顔でこっちを見た。

 ク、クソがっ! 痛いとこ突いてきやがる。ほんっと嫌な女だ。これが可愛さ余って憎さ百倍というやつなのか。

 「あぁ、何というかクラスに馴染めなくてな。まぁ、一人の方が気が楽というか、大勢で群れるのは好きじゃない一匹狼というか……」

 取り繕ってみたものの、我ながらかなり痛いやつだな。恥をさらしたところへさらなる追い討ちがかかる。

 「うーん、どうやらニワトリではなく、オオカミを自称するサギだったか。いや待て違うな。白うさぎか」

 「うさぎ? なんで俺が……」

 俺の名前はじゃなくてだ。ニワトリだのサギだのオオカミだの言われて、俺を揶揄やゆしてるのだけは理解できる。あ、オオカミは俺か。

 すると、少女は値踏みするような目つきでこちらを眺め回す。俺は思わず怯んでしまい、視線を床に落とした。なぜだろう、指先は小刻みに震えている。

 「しかし、寂しがり屋のうさぎちゃんと言うにはいささか可愛げのない。謝罪ひとつも満足にできやしない。イキリぼっち、根暗もやしっ子、前髪センターハゲ、銀縁眼鏡ぎんぶちめがね

 なるほど、確かに今、俺の目はうさぎのように真っ赤なのだろう。

 「……もういいだろ、やめてくれ」

 「出歯亀虚言癖でばがめきょげんへき、おまけに童――」

 「もう充分だろっ――! 俺が……、俺が悪かった……」

 目に涙を浮かべて頭を下げた。同年代の女の子に泣かされた事実があまりにショックで足元がふらつく。

 ……言い過ぎだろ、死んじゃったらどうすんだよ。なあ、ほんとはハゲてないよな? マジなら先生のこと一生恨むぞ。あと眼鏡は関係ないだろ。

 「最初から素直に謝ればいいものを、馬鹿な奴め。もういい、頭を上げろ」

 見上げると、少女は心底呆れた顔で大きなため息をついた。

 「それで、迷子になったあたりまで信じていいのか?」

 「お前……、そんなに俺を鳥頭とりあたまにしたいか。……全部ほんとだよ。マジで」

 少女は目を丸くして俺をじっと見つめた。すると、笑いをこらえるように肩を震わせる。

 「ぷはっ。ほ、ほんとのほんとに転校生なのか? どんな嫌われ体質なんだ、お前」

 止め刺すんじゃねえよ。今のが一番リアルで傷つくだろ。

 「それなら弁当については悪いことをした。意趣返しのつもりだったが、知らなかったのなら仕方ない。早とちりだ、すまなかった」

 少女はそう言うと、尊大に見えるほど落ち着いた表情でいとも容易く頭を下げた。

 いかにもプライドが高そうなこの女が素直に謝ったのは正直驚いた。だが、もっと申し訳なさそうに言えよ。俺なんて泣いたんだぜ、誠意の塊だろ。

 彼女は顎に手を当てしばし考えると、何かを思いついたようにニヤリと笑った。

 「そうだ。良いものがあるんだ」

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