2020/12/14作 音楽室にて
春。暖かな陽気が運ばれてきた季節。
私はかなり急ぎ気味で三階の特別棟の廊下を駆けて人を探していた。
別れの合い言葉、それは卒業式。
今日で最後になってしまう人にご挨拶をせねば。
私は、ただひたすらに駆けていた。
私の予想通り、音楽室――三階の特別棟、一番奥の大部屋に彼女はいた。否、いる可能性が極限まで高くなった。
開け放たれた引き戸から漏れ出るピアノの音。そして、聞き覚えのある曲調。
まず間違いなく彼女に違いない。
「先輩ッ!」
引き戸を潜るより先に声が漏れた。走ったから喉が痛い。
「あら」
ピアノの向こうで目を瞑っていたその人はこちらを見る。
「竹倉さん」
「――先輩」息を整えながら私は先輩に歩み寄る。
「どうしたの、そんなに慌てて?」
「……それは意地悪ですか?」
私はまっすぐと先輩を見据えて立った。私の二メートル先の眼前にピアノを向いた先輩が座っている。
音楽室の大部屋から見える景色はどこまでも青。
間の抜けた虚空の空間が地平線の向こうまで広がっている。
「ふふ、ごめんなさい」先輩は手を口に当てて、突然笑った。
綺麗な手の上品な仕草に、私は時が止まったような錯覚を覚えた。
「今日で、竹倉さんともお別れなのね」
私は彼女を見据えたまま大きく頷く。既に涙を堪えるのに脳を制御しなくてはならない状態だった。
「そんな顔して、感情のコントロールができていないのですね」
「私は」少し大きな声が出た。「今日という日に、先輩にお会いしたかったです」
呼吸を整えて、声量を絞る。
「先輩は、私に会いたくなかったですか?」
彼女はまたくすくすと笑っている。
「そんなことはありません。竹倉さん」
澄んだ瞳が私を見ている。今日の空と同じ吸い込まれそうな蒼い眼が、私だけを覗いている。
このままずっと、時間には止まっていてほしい。
今の私なら悪魔の誘いにも乗れそうだ。
「思えば、アナタと初めて会ったのも……、この音楽室でしたね」彼女は思い出すように虚空を見上げて言葉を紡ぐ。「アナタが私を見て、同級生だと思っていた話は面白かったですね。ほら私。小柄ですから。沢山の時間を共有できたのは私にとって、とても刺激になりました。日向で温かい空気を吸う時も、夏の瑞々しさを感じる時、こうやって練習曲を弾く時も、思い返してみればアナタと一緒でした」
先輩は両手を再び動かして、ピアノを弾き始める。
私と初めて会ったときにも弾いていた曲。
「私は、先輩とお別れ、したくないです」
「私にとって、それは、とても貴重な時間でした」ううん、と首を振って続ける。「これからもずっと残っていく思い出なのね、これは」
微笑みかけた先輩に私は言葉を失い、彼女がピアノを弾くのをただ聞いていた。
窓向こうには景色には、木漏れ日を踊る少女が見え、朗らかに笑っている様が見えた。
先輩が弾き終わるのを待って、永遠ともいえる時間が流れていった。
最後に先輩が鍵盤の蓋を閉じるのを見届けて、私は大きくお辞儀をした。
そのまま踵を返して背を向けて去ってしまおう、そう思った。
「待って」
その一言だけで私の身体はピタリと止まる。
「忘れ物よ」
先輩は床に落ちていたそれを拾い上げ、振り向いた私の両手に収めるように手渡してくる。
そしてそのまま彼女は私を抱き寄せた。
温かな体温を感じながら、私も抱き返す。そして先輩、先輩と泣きじゃくった。
先輩の心臓の音、私の心臓の音、波長の僅かに異なる鼓動が重なる瞬間に私の脳は幸福に満たされる。
「忘れないで、竹倉さん。アナタの心臓がこうして時を刻んでいるとき、私も同じ時を刻んでいるわ」
先輩が私の身体から離れる。
途端に、身体が宙に浮かび上がり、天井のなくなった音楽室から真っ青な虚空に吸い込まれていく感覚に飲み込まれていく。
「先輩ッ!」私は離れいく温もりを求めて手を伸ばす。
彼女は手を伸ばしてはくれなかった。
みるみる内、先輩は遠ざかり視界は雲のように白く染まっていった。
音楽室に残された私は、ふたたびピアノの前に着く。蓋をした鍵盤の上に手を置いて、ふと息を吐く。
半年に一度休学する私は、先輩と慕ってくれる彼女と生きる時間がおよそ倍異なる。後から入ってきた彼女が私よりも早くに卒業していくのは、自明のことだった。
にも関わらず、私は彼女を温かく迎えてしまっていた。その先に待つ矛盾した別れがあることを知りながら。
気が付くと、駅のホームにいた。随伴の母親は同級生の奥様と世間話に興じている。
卒業証書の入ったホルダーを抱えた私は、真っ青な空を見上げて、既に先輩の顔を思い出していた。
本月本日を以て、
文字数:1876
時間:58分
お題:任意のBGMをテーマにして1時間で書く。
課題曲:小瀬村晶 ”Light Dance”
感想:音楽から作文するのはやったことがなかったのでかなり苦戦しました。
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