薄氷の上を行く

口一 二三四

薄氷の上を行く

 ――困ったことがあったら先生に言って


 アナタが口にするその言葉が、どれだけ私を困らせただろうか。

 高校に入学してから迎える二度目の冬。

 冷え込む廊下で出くわした女性は、凛とした声で私を呼んだ。

 一年生の頃担任だった先生は、今でも私を気にかけてくれる。

 理由は当時押しつけられて任命された学級委員。

 真面目そうだからなんて理由で半ば強引に決められた経緯は、私の引っ込み思案を晒すには十分すぎる出来事であった。

 確かに見た目はそうかも知れないけど、実際は勉強なんて中の中ぐらい。

 運動もそこそこで、容姿が優れているかと鏡を見れば首を傾げるし、性格はご覧のありさま。

 少しでも周りの意に沿わない言動をすればイジメのターゲットにされる。

 これまでの経験から、諦めもあり。流れに合わせて嫌でも頷いていた私の姿が心配だったと、後になって先生は教えてくれた。

 自分よりも十以上も上の先生は大人びていて、けれど私達生徒と話す時は気さくで親切で。

 どんな相手にも真摯に向き合おうとする熱意があった。

 それが暑苦しいとか鬱陶しいとか言って邪険にする人もいたけど。


「やっほー。今日はどう? 無理してない?」


 私にとってはその熱さは、暖炉の炎みたいに温かくて優しかった。


「大丈夫です先生。無理、していませんから」


 姿を見かけるたび気にかけてくれる言葉は、本心で言っているのがわかって自然と表情が緩んだ。


 ……いつからだろう?

 先生に傾ける感情が、信頼以外になったのは。

 気がつけば自分から先生の姿を探すようになったのは。

 困ったことはない。お願いごともない。

 ただ学校へ来て、目を合わせて、言葉をかわす。

 それだけのために私は、先生。

 たまらなくアナタに会いたくなってしまうのだ。

 心配してくれるから。それはある。

 気にかけてくれるから。それもある。

 でも根底にあるのはもっと、もっと。

 生徒に対して誠実であろうとする先生の熱意みたいな、熱い、熱い。

 けれどそれとはまた違う、歪な。

 胸を焦がすような、体を火照らすような。

 先生と生徒。

 その垣根を超えた先にある関係に、なりたいという、情欲。


「ふーん、そっか。まぁ、困ったことがあったら先生に言って。なんとかできることならなんとかするから」


 会話の最後。先生は必ずそう言って手を振り去って行く。

 遠退く背中を眺めながら、私はいつも。

 言っていいなら言ってます、と。

 心の中で不貞腐れる。

 歳の差、同性なんて言う邪魔なモノを飛び越える覚悟のない自分に苛立ちを覚える。

 一人になった廊下で足下を見てため息を吐く。

 あと一歩、あと一歩。

 前へ行くだけの勇気があれば。

 もしかしたら、あるいは……。


 しかしそのたった一歩は重いのでも、遠いのでもなく。

 踏み出せば今までを壊してしまうのではないかと思えるくらい、脆く、儚く。

 恐怖にも似た愛しさで出来ていた。

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