虚しい注意、確かな警告

 私は世間でも名の知れた小説家であった。出した作品は次々と映像化されベストセラーとなり、内容の評価も高かった。国内でも1、2を争うほど有名な文学賞を受賞したばかりの頃、公募新人賞に応募した私のデビュー作を最終選考で酷評していた文芸評論家が「いやー、彼のデビューには私も関わっているんだけど、ね。すごい新人が現れたもんだ、って思ったよ。三度目の候補で受賞だっけ。N賞の選考委員も遅いよね。まともな審美眼のあるひとに代えたほうがいいんじゃないの」と文芸誌にエッセイを寄稿していて、私自身はその発言を静観していたものの、私の作品の愛読者がtwitterでその文芸評論家の過去の新人賞での選評を掘り返して怒っていたが、SNSの類に一切手を付けていない彼は、どこ吹く風、という感じで、突然今までほとんど言及していなかった私の作品を自分の連載で取り上げ出し、嘘くさいほど手放しの賛辞を私に浴びせはじめた。数や肩書きを得ると、周囲の反応は変わる。件の文芸評論家は氷山の一角でしかなく、そんな手合いがごろごろといた。ここまで堂々と手のひらを返されると逆に清々しく、もともと怠け者で努力嫌いの私はいっそこの状況に甘んじてやろう、と考えた。たまたま一念発起して書いたデビュー作と崖っぷちからの再起を図ったいくつかの作品が当たったに過ぎず、基本的に小説なんて書きたくなかった。嫌いである。楽に儲ける手段があるのなら、そっちに流れたかった。


 〇〇賞作家、ベストセラー作家。そんな風に作家としての箔が付き始めると、日本語のプロ、文章のプロとして講演会やイベントに呼ばれるようになった。それなりに小説を読む人なら私の文章が決してうまくないことには気付いているはずだ。つまり私の言葉に耳を傾ける聴衆は、真剣であればあるほど私の愛読者ではない、と分かった。大体、私の作品を好きな読者は、褒め言葉の中にも、「説明っぽい文章が玉に瑕だけど……」のような評価を挟みがちだ。どうせ彼らは私の著作なんて買わないのだから適当に話せばいい。それでお金が貰えるのだから、真面目に小説を書くなんて馬鹿らしい。肩書きの威光が役に立たなくなるまでは、これに頼りたい限りだ。そう思っていた。


 とはいえ小説家としての寿命を延命させるためにも、定期的に小説も書かなければいけない。お茶を濁す程度のものが書ければ、私としては充分なので、まともに推敲もしなかった。「てにをは」の間違いが大量にあったらしく、校閲任せの態度に、その時期、私の周囲ではめずらしいほど熱心な編集者が怒り心頭で、


 突然、その編集者から送られてきたメールの一文目には、


「最近五時多すぎです」


 と、書かれていた。言葉に鈍感になり過ぎていた私は、その誤字に気付かず、それを知ったのは、私という作家にファンだった人たちさえ見向きもしなくなった後のことだ。


 知ったのは、


 久し振りに会った、今では業界でも指折りのその編集者が、昔話に花を咲かせるように「あの皮肉まじりの誤字に発奮してくれました?」と教えてくれたからだった。

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