大切なひとは、誰ですか?
追憶する哀しい日々を鮮明に蘇らせたのは、ぼくたち三人が十五年ぶりに揃った同窓のちいさな集まりだった。もう二十代も後半になり、クラスで一番の人気者だった有希は結婚して子どももいたし、「プロ野球選手を目指す」と豪語していた俊佑はプロ野球選手の夢を叶えることなく、去年、所属していた社会人野球のチームを引退し、野球からは完全に足を洗っていた。
みんなあの頃の面影を残してはいたけれど、流れた月日の長さは嫌でも感じさせられる。
「ねぇ卒業する前に埋めたタイムカプセルのこと、覚えてる?」
そう言った有希が、すこし寂しそうな笑みを浮かべる。
当然その話が出るのは予想していたけれど、それでも有希の言葉にどきりとしてしまう。
「あぁ覚えてるよ。校庭の隅っこに三人で埋めたやつだろ」
それは大々的なものではなく、こじんまりとしたタイムカプセルだった。校庭の片隅の目立たないタイムカプセルは、ある人物のために用意したものだ。
「幸坂、か。懐かしい……」
俊佑が想いを馳せるように、その人物の名をつぶやいた。
幸坂郁は小学校を卒業する直前の二月の終わり――厳密に言うなら、二十四日の夕方に、少女のままこの世を去った。
ぼくたち四人は近所に住んでいて、幼い頃から一緒にいることが多かった。
不慮の転落事故だった。
生きていれば有希や俊佑とともに、近くの公立中学に通う予定で、ぼくだけは父親の仕事の都合で東京の学校に行くことが決まっていたこともあり、それまでに彼女に想いを伝えなければと焦っていた頃のことだ。
そんな矢先の彼女の事故。そのショックに、ぼくは何も手に付かなくなってしまい、家に閉じこもるようになってしまった。事故以降、次に学校に登校できたのは一週間後のことで、その放課後ふたりに「タイムカプセルを埋めよう」と誘われたのだ。
『なんで、急に……』困惑とそんな気分じゃないという感情のせいか、すこし言葉が冷たくなってしまった。
『気持ちが整理できてないの、お前だけじゃないんだよ』という俊佑の言葉に、
『うん……』と有希が頷いた。
『ごめん』
『お前を責めてるんじゃないんだ。そうじゃなくて……。三人で、気持ちを整理するために郁に向けた手紙を書かないか。それをタイムカプセルに埋めて、誰も見ない。自分だけの自分の気持ちを整理するための、彼女宛ての手紙だ。それでいつかおとなになったら、三人で開けにいかないか?』
そしてぼくたち三人は死んだ彼女に向けて、手紙を書いた。
ぼくは彼女へずっと好きだったという気持ちを書き綴った。幼くて、拙くて、だけど一生懸命な想いだった。
そしてタイムカプセルを埋め、卒業式を終え、引っ越しの日が近付いてくると急にあの手紙がいつかひとの目に触れる、という事実が耐えられないものになってきた。悩んだ末にぼくは東京への引っ越しの前日、夜中に学校に忍び込み――。
「どうしたの……」
不思議そうにぼくを見る有希の言葉で、物思いに耽っていたぼくの思考が中断する。
「あ、いや。なんでもない」
「ふーん。まぁいいや。ねえ、三人でタイムカプセルを開けに行かない?」
「えっ」とぼくが驚いた声を上げると、
「どうしたの? そんな声出して」あっ、と有希がぼくに疑惑の目を向ける。「もしかして勝手にひとりで開けた、とか……?」
「ち、違うって」
そう言いながら、ぼくの心臓が早鐘を打った。
ぼくたちは薄暗くなった校庭に忍び込んだ。夜の学校への不法侵入にあの頃よりも強い罪悪感を覚えながらも、子どもの頃を思い出すようなどきどき感があった。
「ねぇ、どの辺だっけ」
「校庭の隅の、確か一番大きな木の下だよ。あ、そうそう。ここだ」と俊佑が木の根元あたりを指差した。
「よく覚えてるね」
「そりゃあ、場所決めたの、俺だからな」
そう言うと俊佑が来る途中に買ったちいさなスコップで、地面を掘る。ぼくはすこし不安な気持ちを押し殺しながら、その姿を見ていた。
「あった?」と有希が聞く。
「あぁ。あったあった」
俊佑が両手でロケット型のタイムカプセルを地中から拾い上げた。蓋を開けると、そこにはちゃんと三通の手紙が収まったままだった。
安堵で、ほっと息を吐く。
有希と俊佑の手紙には彼女への友人としての感謝が綴られ、ぼくの手紙には彼女への恋心が綴られていた。それをひやかすふたりの言葉は優しさに満ちていた。
ふたりと別れ、家路につく。やがて見えてくるもうすでに明かりの付いた自宅には、想いを馳せた過去ではなく、確かな今がある。
ぼくが玄関のドアを開けると、妻が「おかえり」と言った。
初恋のあのひとのことを想い出していた今日のぼくは、すこし後ろめたい気持ちを抱えながら、できるだけ、ほがらかに「ただいま」と伝える。
ぼくの人生にとって、今、一番大切なひとはこのひとなのだから。
※
引っ越しの前日、夜中の学校に忍び込んだぼくは、埋めたタイムカプセルを掘り出した。自分の分だけ捨ててしまおう。どうせ次に見るのはずっと後のことだ。蓋を開けて、自分の手紙を取り出した時、ふとふたりの手紙が目に入った。何を書いたんだろう、という好奇心が顔を出す。よこしまな気持ちに天罰が当たったのか、突然、雨が降り出した。慌ててすべての手紙をカプセルの中に入れて走ろうとしたぼくの足はもつれ――、
気付くとぼくはまったく同じ場所なのに、明らかに違う場所にいた。
夕暮れ。雨が降った様子さえもない、橙に包まれた校庭に、ぼくはいた。そして驚くことに校舎の窓の先に彼女の、郁の姿を見つけた。
「今日、何日だ……」
過去に戻った。簡単に信じられる話ではなかったけれど、その時のぼくにとって何よりも大事だったのは、そんなことではなく、彼女がまだ生きているという事実だった。
ぼくは彼女のもとへと走った。
夕方、放課後の学校で居残りをしていた郁は、その日、階段で足を踏み外してしまい、転落死してしまう。それが二十四日の出来事だった。なんとなくその日を思わせる情景に不安が兆したのだ。
校舎に入って階段を駆け上り、三階から四階への踊り場まで着いたところで、ぼくは「あっ」と叫んだ。
階段で足を踏み外した彼女がそのまま、ぼくの身体めがけて落ちてきた。激しい痛みとともに目を開けると、彼女も痛そうに「うーん」と言った。ぼくの身体がクッション代わりになり、彼女は落下した後も普通にしゃべり、動いている。
そのことがあまりに嬉しく、ぼくは思わず郁を抱きしめてしまった。
「ど、どうしたの?」
「良かった。本当に良かった」
「ななな、何……、急に」と焦ったように彼女が言った。
「郁。好きだ」
「どんなタイミング……」と彼女が呆れたように笑ったけれど、その後「私も好きだよ」と続けてくれた。
彼女が生きている世界で、ぼくは未来へと進むことができる。ずっと彼女の生きている世界で、生きていきたい。そんな風に思っていたぼくだったけれど、彼女を校門まで送った時、ぼくは遠目にぼくの姿を見つけてしまった。彼は、ぼくたちに気付いていないようだった。
あぁそうか……。
郁は郁ではなく、ぼくはぼくではないのだ。郁の「好き」は彼に向けたもので、ぼくは彼から彼女を奪ってはいけないのだ。
いや分かっている。でも、それでも……。
悩んでいる内に意識を失ったぼくは気付くと、東京へと向かう車の中にいた。
夢だったのだろうか。それにしては、やけに現実感のある夢だった……。
数年後、ぼくは並行世界という言葉をSF小説の影響で知ることになるのだが、あれはぼくが偶然、並行世界の闖入者になってしまったということなのだろうか。なんとなくだけど、夢よりもそうであって欲しかった。
そしてもしそうなら、あちらの世界の彼が彼女と結ばれる未来を願いたくなった。
※
ぼくが玄関のドアを開けると、妻の郁が「おかえり」と言った。
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