逃げられない
彼は、その日もひとり虚構の世界に浸っていた。半生を振り返った時、のんびりと近くに誰もいない場所で小説を読んでいる今の自分のほうが偽りの姿に思えてしまう。特に子どもの頃の彼は、自宅にこもることなどめったになく、つねに外に出て活発に行動するような少年時代を送っていたので、閉じこもって空想の世界に逃避するような同級生が周囲にいれば、それを小馬鹿にしていたくらいだった。しかし年月を経て、生活に劇的な変化が起こったことをきっかけに、彼は小説や漫画といったフィクションの世界に没頭するようになった。それはかつて自分が馬鹿にしていた現実逃避以外の何ものでもない、と気付いてもいた。ひとりになると嫌でも色々なことを考えてしまうので出来る限りその堂々めぐりの思考を頭から離そうと心掛けた。フィクションはその方法として最適だった。趣味嗜好や気分の問題もあり、空想の世界に没頭できず苦手なジャンルは可能な限り避けた。ファンタジックな恋愛小説や現実味の乏しいギャグ漫画を彼は好み、反対に殺人事件を扱ったミステリや過度に残虐なホラーが苦手だった。すこしでもそういう描写があるものに出会わないように、読む本の選択には神経質なほど気を配った。そんな彼だったが、
読んでいる際中、あぁ、しまったなぁ……、と心の中でひとつ溜息を吐いた。
恋愛ファンタジーだと思って読んでいたはずの作品に、すこしずつ怪しい色が帯び始めたのだ。そして人が死に、探偵が現れる。物語はそんな展開になっていき、物語を楽しむどきどきとは別種の、緊張や不安、そして恐怖が自身の感情に混ざっていくのが分かった。そこで読むのを止めてしまえば良かったのだ。いつもの彼なら、そうしていただろう。それでも物語の面白さというのは厄介なもので、物語の魔力に魅了された手は止まることなく、一枚また一枚、と紙をめくっていき、そこに記された黒い活字の群れは、否応なく目に、そして脳内に入っていき、リアルな想像が描き出されていく。気付けば物語は結末付近まで進み、彼は物語の牽引力と物語を侵食するリアルという、ふたつの重なる緊張に心臓が爆発してしまいそうな感覚を抱いていた。
そしてついに探偵が犯人を指摘する場面で、
「犯人はお前だ!」
と犯人を指差したはずの描写の言葉と言葉の間の空白を突き破るように手が飛び出してきて、その指は明らかに彼自身を差していた。
思わず悲鳴を上げてしまった彼の声に反応したのか、近付いてくる靴音が彼の耳に届けられ、「おい、どうした。大声出して!」と看守の怒鳴り声が響いた。手に持っていた本に目を戻す。そこにあるのは彼の指だけだった。
いつまでも彼は過去に怯えている。
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