船を待つ


 青年がひとり流れ着いた場所は無人島でした。




「ここはどこだ……」


 目を覚ました青年は、開口一番、辺りを見回しながらそう呟きましたが、それに返ってくる人の言葉はひとつもなく、青年の耳に届くのは寄せては返す波の音だけでした。


 意識を取り戻したばかりの思考はまだ混濁していて、青年は自分が天国か地獄にいるもの、と勘違いしていました。生きていることのほうが不思議に思えるほど、意識を失う直前の青年は、揺るぎのない死を覚悟していたからです。


 青年はずぶぬれになった服を脱ぎ、ほおに付いたり口内に侵食したりする泥土を払ったり吐き出したりしているうちに、じょじょに生きている、という実感を覚え始め、喜びと恐怖が混じったような強烈な感情が込み上げてきました。おもわず感情がのどを通って口から唾とともに飛び出したのは、叫び、でした。


 生きている。俺は、生きている、と。


 そんな想いとともに吐き出された青年の叫びは、のどが嗄れるまで続きました。


 奇蹟だ。

 と青年は空を見上げました。


 旅客機の墜落事故で海へと落ちていくその機内から肉体が離れて、海へと落ちていく寸前までは覚えていましたが、それ以降の青年の記憶はまったくと言っていいほどありません。飛び降りて、波に流されて、この海岸に辿りついたのでしょう。そんな状況で生きていたのだから、青年が奇蹟を感じて身を震わせるのも無理のないことです。


 しかしその時点で、まだ青年には気付きようもないことですが、

 そこは無人島であり、

 


 青年はまず他の人間を探すために島内を歩き回りましたが、見つかる気配はありませんでした。それでも、かつて人が暮らしていたと思わしき小屋が見つかり、不安を覚えながらも青年は希望を持ちました。ここには自分以外にも人がいる、という実感は心強いものです。


 青年はその小屋を拠点にすることにしました。雨露をしのげる小屋に、銛やナイフ、マッチなど、色々と揃っている、と言うにはすこし心許ないけれど、生き延びてやる、と決心が付くくらいには有難いものが残っていました。


 しかし数日も経たないうちに、青年の希望は打ち砕かれてしまいます。繰り返しますが、何故ならここが無人島だからです。どこを探しても見つかるわけがありません。最初から誰もいないのですから。


 青年はもともと家族のいない独り身で、それまでの日常生活においては、「俺は一人が好きだ」と豪語するような人間でしたが、それは喧騒の中の静寂、周囲に誰かが存在するという安心感の中での孤独、を愛していたに過ぎず、今、限りなく本当の静寂で孤独な時間にいる青年の精神は壊れてしまいそうでした。


 奇蹟的に救われた命を憎み、何度も青年の頭に死がよぎりましたが、


 それをかろうじて繋ぎ止めていたのが、理不尽への怒りでした。旅客機の事故以降、降りかかる災難の数々に対して、俺はこんな目に遭うほどの悪人ではなかった、とこんな人生の展開を用意した神に怒りを抱きました。旅客機事故は大量の死者を出し、決して災難は青年に対してのみ降りかかったわけではありませんが、そんなことは今の青年にとっては、どうでもいいことでした。


 こんな馬鹿げた場所で、絶対に死んでやるものか、と青年は胸に誓いました。


 もちろんこのサバイバル生活を生き延びてやる、というだけではなく、一番の目的はかつての平穏な日常に戻ることです。


 だから青年は、食糧の調達と食事、そして睡眠以外のほぼすべての時間をこの島から離れるためのあらゆることに費やしました。


 最初に作ったのは大きく掲げる旗で、それは青年が無人島にいる間、ずっと海岸に刺さったままでした。それ以降、地面に救助を求める大きな文字を書いてみたり、木材を繋いで筏づくりに挑戦してみたり……と思い付く限りの方法を試してみましたが、青年が無人島から離れられる日は一向に訪れませんでした。


 結果として、もっとも現実的な方法が偶然通りかかった船に気付いてもらうことだ、と確信した青年は、つねに海の向こうを眺めるようになりました。


 もし気付いた船があったとしても、その船が青年に好意的なものばかりとは限りません。もしそれが海賊船であれば、青年は殺されてしまうかもしれません。それでもたとえ海賊船であったとしても、青年に気付くものがあるだけで青年は喜んだでしょう。


 もう長い時間、ひとりだった青年は、それほどコミュニケーションに強烈な飢えを感じていたのです。


 青年はもう待つことしかできなくなりました。

 待ちました。

 待ち続けました。


 でも青年に気付く船はひとつとしてありませんでした。そもそも視界を横切った船さえひとつとしてありませんでした。


 その間にどれくらいの年月が経ったのか、夜が何回訪れたかを数えていたわけでもない青年には分からないことでしたが、青年がそれまでに無人島に過ごしていた期間は丸々三年間とすこし、でした。


 諦めてしまわないのが不思議なほど、長い時間が経っていました。諦めそうになる青年の気持ちを奮い立たせるものは、やはり理不尽への怒りでした。


 ですが……、


 もう駄目だ、と青年は限界を感じていました。不穏な空気が島全体を覆い始めていたことは、青年もなんとなく察していて、それと関係あるのかどうか、青年には判断が付きませんでしたが、魚や獣といった生き物が島から姿を消し、ここ最近は一切の食糧を得ることができなくなってしまったのです。


 幻覚が見えそうになるほどの空腹感の中、青年が、ただいつものように座ってぼんやりと海の向こう側を眺めていると、


 一隻の船が、青年に向かって近付いて来るのが分かりました。海賊船でもいいから、殺されてもいいから、と青年が願い続けてきたものが、今、目の前にあるのです。


 幻覚でしょうか。いえ違います。それは確かにでした。


 にも関わらず、青年は怯え、島の内側へと向かって逃げようとしました。しかし突然の驚きと極度の空腹でまともに動くことができず、すぐに転倒してしまい、そのまま青年は気を失ってしまいました。


 青年がそれを船と認識していたか、って? さぁそれはどうでしょう。


 次に目を覚ました時、青年はふかふかとしたベッドの上にいました。


 ベッドから飛び出るように立ち上がった青年は、自身の身を包む服や青年のいるその部屋の光景の奇抜さに驚き、今度こそ自分は死後の世界にいるのではないか、と考えました。そうすれば、窓越しの景色にも納得がいく、と。


 青年がほおを抓ってみたりしていると、部屋のドアがいきなり開き、今の青年と似たような服を着た人間の女性が入ってきました。


「目が覚めたんだ。良かった」


 と、その言葉を聞いて、青年の目から涙が止まらなくなりました。それは本当に久し振りの他者の声であり、もう叶わないとさえ思っていた他者とのコミュニケーションでした。


 すみません、と言いながら泣き続ける青年の涙が止まるまで、女性は一言も口を挟みませんでした。


「お恥ずかしいところを。……ここは?」


 旅客機の墜落事故、無人島生活を経た青年は、ここもきっと死後の世界とは違うのだろう、と気付きはじめていました。それでも青年には、自分の今いる場所がこれまでの状況に比べて、ずっと穏やかなところに感じられました。


です。ずっとあなたのような人間を探していたのです。あなたは私たちに選ばれました。一緒に宇宙を救いましょう」


 窓の先に、見上げなくてもいいほど近い距離に、星が見えます。


 俺だけが特別なんて言葉は信じられない。きっとこの船には大量の人間が本人の意思など関係なく集められてるんだ、と青年は思いました。


 それでも確かに青年は無人島から離れることができたのです。その事実が青年の気持ちをすこしだけ前向きにさせました。




 この奇蹟が新たな絶望の始まりだとしても、もうなんでもきやがれ、と。

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