白雪の消える日
会社帰りのうす暗くなったひと気のない通りで、ぼくの住む街に例年よりすこし遅めの冬が訪れたことを、目の前で舞う小さな雪の粒が報せてくれた。
ぼくの着ているジャンパーに落ちた白い粒は、払う間もなく視界から消えていく。
雪国で生活する者にとっては、降った、と表現するほどの雪でもないが、冷たい風と合わさって秋から冬への移り変わりを実感する。四季の変化は自身の受ける印象、主観に従うべきだ、というあまり共感を得られない持論を持つぼくにとって、今日から今年の冬のはじまり、と言える。
日常の暮らしに雪の風景を持たないひとにとって、それは幻想的な美しさなのかもしれないが、実際に生活の一部となってしまうと幻想性なんていちいち考えているわけにもいかない。積もれば雪かきの手間、路面が凍りつけば運転の不安もある。
それに……、かじかんだ手に息をかけながら、寒いのは嫌いなんだ、と心の内でつぶやく。雪に見とれている暇なんてないのだ。そう雪なんて特別なものなんかじゃない……、雪自体は。
そう? 私は雪って好きだけどな。
周囲に誰もいない場所でふいに声が聞こえ、過去にしか存在しない言葉に高校時代の記憶がよみがえる。彼女も、もうこっちに戻ってきているだろうか。
白雪、との再会の予感がした。
胸に湧き立つ想いを白い息とともに吐き出しながら、ぼくは足早に自宅のマンションを目指した。途中で古い友人と偶然すれ違い、呼び止められたけれど、焦るように別れを告げたぼくは、彼からどう見えていただろう。家族や恋人がいる先に向かっている、とでも思われたかもしれない。残念ながらそれは間違っている。ただぼく以外に代わりがいないことを考えれば、ぼくと白雪の関係は同じくらいに特別なものなのかもしれない。そしてぼく自身の想いもある。
近付くにつれて粒が大きくなり増す雪を受けながら、ぼくの予感は確信に変わっていた。
鍵を開けて自室に入ると、彼女はやはりそこにいた。
こんにちは。久し振り。
消え入りそうにはかなく、しかし確かに彼女の口から発される優しい声音に耳をそばだてながら、あぁ白雪だ。一年ぶりに出会う彼女は以前と何ひとつ変わることなく、今年もぼくの目の前にいて、その事実にぼくは甘さと苦さを噛みしめていた。
冬になるとぼくのもとを訪れ、雪が降りやむ頃に幽かな気配のみを残して消えていく女性の姿が、今も確かに、ある。
高校二年の冬、ぼくたちは同級生だった。同級生……そう、それだけだ。それ以上でも以下でもない。
あれから十年を過ぎる年月を経て、ぼくは誰が見ても学生とは間違われないような外見になってしまったが、彼女は、クラスの男子からひそやかに人気のあったあの日と、同じ顔のまま、表情も、はかなげなほほえみの浮かべかたひとつ変わってくれない。彼女との再会はその残酷さを再認識することでもある。
最近はどうしてるの?
何も変わらないよ。こんなすこしの間じゃ、世界は何も変わってくれない。
私? 実はあんまり覚えていないんだ。ここに来る時はいつも不思議な感じがするんだ。気付いたら、この部屋にいて、それまでのことも、今の私のことも全然分からない。私はまだ学生のはずなのに、みんなが大人になって自分だけが取り残されている夢を見ているような感覚。だから私、いつもこれを夢だって思ってるんだ。あなたに会いたいと思った私が、大人になったあなたに甘える夢。
夢でも会いたいって思ってくれたなら嬉しいよ。
あなたのことを聞かせて。私には話せることなんてないから。
毎年、ぼくの話は近況報告だった。あの子が結婚した、あいつは今こんな仕事をしている、とか……。それはぼくにとって今の確かな現実を嘘を交えずに語っているに過ぎないけれど、彼女にとっては仮の未来の話でしかない。彼女がいつ勘付くのか、その不安はつねにあった。
涙を流した後に見る光景のように彼女の姿は、いつもぼんやりとしている。
高校時代、白雪がとけるように短い生涯を終えた少女がいた。
彼女は今も自分の死に気付くこともないまま、ぼくの部屋を訪れる。なぜ彼女がぼくに会いに来るのかは知らない。おそらく彼女自身も分かっていないのだろうけれど、そこにあまい期待を持つくらいは許してほしい。その昔、彼女に特別な感情を抱き、今もその気持ちに決着を付けられずにいる、かつての少年として……。
彼女が自身の死を悟った時、今のその姿さえ消えてなくなってしまうのではないだろうか。それは勝手な想像でしかないけれど、そのおそれから、ぼくは彼女に真実を伝えられずにいる。
日常に雪のあるぼくの人生の中で、雪がもたらす唯一の非日常。
彼女のいない冬、そんな雪の日が来ないことを願いながらも、触れることさえできない十七歳のままの少女との日々は、苦しくも甘い。
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