第278話 9月26日(……確かに、毎日これは嫌だけど)

 玄関で出迎えられた開口一番に「お昼、まだですよね?」と訊ねた。



 一人暮らしをしている男性宅の冷蔵庫。

 想像していたのはお酒とおつまみだけを冷やす、開始直後の落ち物パズルみたいな中身だった。


 しかし、現実は違う。

 トマトと目が合った瞬間――、


「……野菜がある」


 ――と声が漏れた。


「そりゃ、野菜室だからな」

「……エリンギとか椎茸も入ってますが?」

「野菜室には野菜しかはいれないなんて道理もないだろう」


 「冗談です」と返しても彼の目が笑っていない。

 まさか、本気で『野菜室には野菜しか入れないと思っている』と思われたのだろうか?


「……本当に、冗談ですよ?」

「あ、ああ。わかってるよ?」

「私だって料理は出来ますしバレンタインにケーキだって作ったんですから」

「それは知ってるけどさ。なんで急に俺の家で昼飯を作ることにしたんだ?」


 野菜に引き続き、冷蔵庫からバターを取り出す間……短い沈黙が訪れる。


「……両親が、私には生活力がないみたいなことを言うので」

「生活力? どうしてそんな話に?」


 春に引っ越すことを……彼へ話すか迷った。

 迷ったけれど、考えてみれば隠す理由がない。

 ここに残るためには一人暮らしをしなければいけなくて……昼食を作りに来たのも、その練習の一環だと。


「…………」

「……ちな?」


 隠す理由はない。

 けれど、話したくないとも思った。


「……両親が心配するんです。大学生になったら、一人暮らしすることになるかもしれないのにって」

「けど、ちなは家から通うつもりだろ?」

「その方が楽ですからね。でも、自立できないとも思われたくはないので」


 嘘は吐いていない。

 ただ、大事なことを隠している後ろめたさと……傍にいるための努力を知られるかもしれないという恥ずかしさで、少しだけ息が苦しかった。



「……どう?」


 卵とほうれん草の炒めもの。

 ほうれん草入りのかきたま汁。

 カットトマトを添えて白ご飯と一緒に出すと……彼は、静かに頷いた。


「ん。旨いよ」


 つい、胸の奥がくすぐったくなる。

 でも――、


「ただ、一食で卵を使いすぎ。栄養はあるけど食べ過ぎも良くないぞ。汁物を作るなら卵の代わりにキノコを入れても良かったかもな。もしくは卵とほうれん草の炒め物をキノコ炒めにするとか」

「……別に、美味しかったならいいじゃないですか」

「レパートリーを増やさないと、これを毎日食べることになるのは自分だぞ」


 ――これは練習で、彼は今審査員なのだとすぐに実感させられた。

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