第133話 5月4日(そんなこと、わかってると思ってたよ……)

 目覚めてすぐ剣道場へ行くと、既に扉が開いていた。

 もう、祖父が稽古を始めているんだろう。

 息を殺しながら、そっと中を覗いてみる。

 すると、竹刀で風を斬り、美しい姿勢のまま虚空と見つめ合う祖父が見えた。

 だが……ようやく見られた竹刀を振るう姿に、爽快さは感じない。

 『完成された』とも称される洗練された型を見て、胸の内へ生まれたのは自分自身に対するモヤモヤだ。


「…………」


 どうして私は『見てるだけでも良い』なんて思ってしまったんだろう。

 確かに上手い人の動きというものは楽しい。

 でも、それは……きっと、同じように体を動かせる前提があってこそだと私は思う。


(未練はない。それに、ずいぶん長い時間、剣道から離れていたから……だから――私が今やっても、あんなに綺麗に竹刀を振れない)


「……バカみたい」


 こぼれた言葉が、ちぎれた虫の羽みたいに地面へと落ちていく。

 足元へ貼りついた狭い影に、自分の小ささを見せつけられているようで……もう、じっとしていられなかった。


 踵を返し、剣道場から離れようとする。

 しかし、


「智奈美か……」


 気付いていないと思っていた祖父に呼び止められてしまった。


「……何?」

「……見て、どうだった?」


 追い打ちのような一言で顔が上げられなくなる。


「……別に、ただ――浅はかだったなぁって」

「……そうか」


 祖父はどんな答えを期待したんだろう。

 一瞬、祖父の返事が悲し気に聞こえて……顔をあげたくなった。

 けれど、


「智奈美……こだわる必要はないぞ」


 あからさまな優しい声色に、体が固まってしまう。


「……え?」


 自分の声は驚くほど小さく、情けなくて……祖父の耳にも届いていない。

 

「お前を塞ぎこませるために、剣道を始めさせた訳じゃないからな……」

「……そう」


 それから、家へ帰る時間になっても……祖父に笑顔を向けられなかった。



 家に帰ってベッドへ倒れ込むなり、深い溜息を吐く。


「はぁ……」


 『やめる』と決めてから『やっぱりもう一度……』なんて思ったことはない。

 それに『別の部活を始めよう』とも、あまり考えたことはなかった。


 だけど、


(こだわる必要はない……か)


 一から剣道を教わった祖父に言われては、嫌でも考えてしまう。


(いっそ……本当に野球部のマネージャーでもやる?)


 なんてことを考えた途端、脳裏に秋の顔が浮かび、


(……別の部活を始めたりしたら、あの子はがっかりするだろうな)


 背中に感じた視線が……今になって痛かった。

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