【まるで散り際に桜の花弁が寄り添うように】

第107話 4月8日(……特に思いつきませんよ)

「…………」


 彩弓さんが鏡も見ずに慣れた手つきでネクタイを結んでいく。


「……ん、こんなもんでしょ」


 背筋をぴんと伸ばすスーツ姿の彼女は……一見、いつも通りに見えた。

 しかし、つい数時間前まで額に冷却シートを貼り付けて寝ていたと知っているせいか……私の目には普段より頼りなく映る。


「本当に大丈夫ですか?」


 上着を差し出しながら訊ねると、彩弓さんは笑顔で答えた。


「熱も下がったし、大丈夫でしょ。昼からにしてもらった分、いつもよりゆっくり寝れたしね」

「……それは、そうかもしれませんけど」


 個人的には、普段賑やかな彩弓さんが死んだように眠り続けていたからこそ心配してしまう。


「そんなに心配? あいつだって仕事があるからって帰ってったよ?」

「……それ、彩弓さんが追い出したからじゃないですか」


 病院まで送ると言ったせいで、彼は彼女が遅い朝食を食べ終えるのさえ見届けられなかった。


「だって、心配しすぎなんだもん。朝は食べたし薬も飲んだの、ちーちゃんだって見たでしょ?」

「……そうですね」


 ごはんと言っても素うどんに近いネギをたくさん入れただけのモノだし、薬も市販薬だ。

 できれば、もう少しまともなモノを食べて、きちんと処方された薬を飲んでほしい。

 というか、昨晩は高熱を出して倒れていたのだから、一日くらい休んでほしいのだけど……。


 彼女は、上着を羽織るなり『準備完了』とでも言いたげだった。


「どう?」

「別に……彩弓さんです」

「ん! !」


 半歩遅れて、自分が失言をしたのだと気付く。

 いや……そう思わされただけか。


「今のはそう言う意味じゃ……」

「でも、いつもの私なんでしょ?」

「……あんなの言葉の綾にもなってなかったじゃないですか」


 思わずため息が出る。


「大丈夫? ちーちゃんの方が疲れてない?」

「…………」


 それは、寝ずにあなたの看病をしていたからでしょ? とは言わなかった。

 だが――、


「あっ、ごめん。今のなし、許してね?」


 ――この人も、気付かない人じゃない。


「いいです。もう……」

「ん。じゃあ、一緒に出よっか」


 もう、こうなったら止められないと――私は諦めながら彩弓さんと家を出た。



 それから彩弓さんはドアに鍵を掛けつつ――、


「そうだ。お礼しないとね」


 ――と、機嫌良さげに告げる。


「なんで嬉しそうなんですか……」


 出勤する彼女へ不愛想に訊ねると、はぐらかすような笑みが返って来た。


「別に? じゃ、何が良いか考えといてね!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る