第78話 3月10日(あんまり構われ過ぎるのは嫌だけど……でも)

 後方から、野良猫を見つけて呼ぶような声が聞こえた。

 いや、正しくは、


「ちーちゃんってば!」


 『野良猫を見つけて呼ぶように、名前を呼ばれた。』か。


「……はぁ」


 無視する訳にもいかず脚を止めた途端、口から溜息が漏れた。

 振り向こうと思うのだけれど……心なしか、首が重たくて上手く回らない。

 まるで砂糖を入れ過ぎてドロドロになった珈琲へ突っ込んだスプーンのようだった。

 しかし、


「さっきから呼んでたよ? どうしたの?」


 立ち止まっていたせいで、振り向く必要はなくなってしまう。


「……彩弓さん」

 

 「ん?」と不思議そうにする彩弓さんへ、ここ数日抱いていた疑問をぶつけた。


「最近、私たち偶然会いすぎじゃないですか?」


 すると、彩弓さんはあっけらかんと答える。


「そりゃ、ご近所さんだしね? そういうこともあるでしょ?」


 彼女の言い分はもっともだ。

 しかし……。


 出勤時間と登校時間が重なるなんて当たり前。

 夜にコンビニやスーパーへ寄れば買い物カゴを取ろうとして指先が触れ合う。

 そして、まさに今――朝出会わなければ、帰り道で午後から出勤する彩弓さんと出会う。


 ここ数日、こんなことがずっと続いていた。


「……はぁ。もういいです」


 出会ってしまうのはしょうがない。

 早々に挨拶を済ませて立ち去ろう。


「それじゃ……」


 ぽつりと言い残してから、一歩踏み出した。

 でも、


「あっ! ちーちゃん」


 呼び止められ……つい、振り返ってしまう。


「……どうかしました?」


 彼女の靴が視界に入った。


「今日も、あいつの家で時間潰すんでしょ?」


 どこか赤みがかった黒い革靴が、私の影を踏んでいる。

 その様子はどことなく、アスファルトを下地にして、待ち針でもさされているみたいだった。

 だからだろうか?


「……夜まではいませんよ?」


 気付けば『早く行こう』なんて気持ちは削がれていた。


「そっか、残念。帰りにケーキでも買って帰ろうかと思ったんだけど」


 一瞬、心が揺れる。

 けれど、


「流石に……夜にもう一度行ったりもしないですよ? 明日も学校ありますし」


 後ろ髪を引かれながら答えると、彩弓さんがおかしそうに笑った。


「そっか、そうだよね。あ! じゃあさ、いつから春休み始まるとか教えてくれる? 次の日、学校がないなら来てくれなくもないでしょ?」

「それなら……まぁ」

「なら、わかったらまた教えてね」


 そう言って、彩弓さんがくるりと踵を返した瞬間――、


「19日です。春休み……」


 ――私は、彼女の後姿を自分から呼び止めていた。

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