第50話 2月10日(……あげる。誰にも遠慮しない)

 体育館と隣接した武道場。

 そのすぐ傍で見つけた小さな背中に向かって叫ぶ。


「――秋っ!」


 すると、彼女は振り向いた途端に表情を明るくして、


「ちーちゃん先輩っ!?」


 ぴょんっと方向転換したかと思えば、子犬がしっぽを振りながら走るように駆け寄ってきた。


「先輩から声かけてもらえるなんて……嬉しいです!」


 ふんわりと小さな花弁がたくさん並んだたんぽぽのような笑顔を浮かべる秋に、思わず口元が緩む。


「……大げさじゃない?」

「でも嬉しいのは本当です!」


 ぴんと立った犬の耳まで見えてきそうな彼女へ、私は忘れないうちに本題を話した。

 しかし、


「明後日なんだけど、昼休みに秋の教室行ってもいい? バレンタインのチョコ渡したくて」

「先輩から……チョコッ!?」


 チョコと告げた瞬間、秋は散歩へ行く直前にリードを見た犬みたいになる。


「明後日ですね! 絶対待ってます! 教室から一歩だって動きません!」

「そ、そう?」




 こうして、秋との約束を取り付けた一日は平和に終わろうとしたのだが、


「向坂さんって、バレンタインとかするイメージなかったんだけど――」


 突然聞こえた棘の生えたような声に振り返ると、鋭い目付きをした逢沢さんが立っていた。


「――そういうの、やるんだ?」


 苛立っている雰囲気を隠そうともしない彼女の様子に、つい声が低くなった。


「……今、後輩と話してるんだけど?」


 怯えた様子で体が縮こまる秋を、自分の陰へ隠すように立つ。

 だが、逢沢さんは最初から私しか見ていない。


「ああ、それはごめん。でも、ちょっと向坂さんと話したくてさ……」


 今にも胸倉を掴んできそうな雰囲気で、彼女の眼差しはどんどん険しくなり、


「……まどろっこしいのは嫌いなの。楠にチョコ、あげるんだよね?」


 逢沢さんはナイフを突きつけるように本題へ入った。


「……あげる。だって、友達にチョコを渡すくらい普通のことでしょ?」

「……友達?」


 眉間へしわが寄るのも気にせず、逢沢さんはノコギリでも曲げたみたいに眉を刺々しく歪ませる。


「そう、友達。だから私達、誰かに変な気を遣うとかないから」


 そう答えた直後――、


「……私、?」

「そう、私と茉莉」


 ――ふと、自分が口から滑らせたかもしれないことに気付いた。


「まつりって、九条だよね?」

「……そうだけど」


 逢沢さんは黙り込むと「なるほどね」と呟く。


「九条がそういうつもりなら、こっちもそのつもりでいくから」


 今、何か……ひどい勘違いが生れなかっただろうか?。

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