30‐4.浮き沈み泳法です
『……わたくしに、出来るでしょうか?』
『出来るわよ。シロちゃんなら出来るわ。一緒に頑張りましょう』
力強く掛けられた言葉に、わたくしの胸は、まるで晴れ渡るかの如く軽くなっていきました。視界も、開けたような感覚を覚えます。
わたくしは、ティファニーママさんを見つめ、耳と尻尾をぴんと立ち上げました。
『はいっ。わたくし、頑張ってみますっ。ですので、ご指導ご鞭撻の程を、どうぞよろしくお願い致しますっ』
前足を揃え、深く頭を下げます。するとティファニーママさんも居住まいを正し、
『こちらこそ、よろしくお願い致します』
と頭を下げました。同時にお顔を上げ、つと、微笑み合います。
それからわたくしは、ティファニーママさんとのレッスンを開始しました。
まずは、沈んでも良いということを体に覚えさせよう、という話になり、わたくしは、池の中へ潜り、お顔だけを出し、息継ぎして、また潜るというのを繰り返します。
『ぶくぶくぶく……ぷはぁっ。ぶくぶくぶく……ぷはぁっ』
『いいわよー、シロちゃん。上手に息継ぎ出来てるわよー』
『は、はいっ。がぼがぼがぼ……ぷはぁっ』
『じゃあ、そのまま少し前へ進んでみましょうかー。大丈夫よー。シロちゃんなら出来るわよー』
『はいごぼぼぼぼぼ……ぶはっ! げふっ、ぐっ、ぶ、ぶひぃっ!』
『落ち着いてねー。焦らなくていいのよー。沈んでも怖くないわー。息継ぎする時だけ浮かんでくればいいのよー』
『ぶごぼごぼごぼごぼごぼ……ふがぁっ! ぶがぶがぶがぶが……ぶはぁっ!』
『いいわねー。ばっちり立て直せてるわよー。最高よシロちゃーん』
ティファニーママさんの励ましも耳に入れつつ、わたくしは、どうにかこうにか指示通り動いていきます。
沈んでも良い、という前提で池に潜るのは、なんだか変な気分です。それでも取り敢えずやってみますと、少しずつですが、気持ちに余裕が出てきました。
焦りが一つなくなる、とでも申しましょうか。息継ぎの時だけ浮かび上がれば良いのですから、やることが減り、結果こうして溺れることなく動けています。ぎこちなくですが、前にも進めました。これまでと比べたら雲泥の差です。自分でも分かる程に、急激な成長を遂げています。
ですが、一つ問題、と申しますか、困ったこともございました。
『はーい、お疲れ様ー』
ティファニーママさんの声に合わせて、わたくしは水からお顔を出します。池の底もしかと踏み締め、その場に佇みました。
『ぜはぁっ、ぜはぁっ、ふぶんっ、ふんっ、はぁっ』
『凄いわ、シロちゃん。ばっちり泳げてたわよ』
『げほっ、そ、そう、ですかっ?』
『そうよぉ。ほら見て、最初はあそこにいたのよ? 池のほぼ反対側よ? そこからここまで、潜って浮かんでを繰り返しながら、自力でこれたのよ? 凄まじい成長スピードね。本当に凄いわ、シロちゃん』
『あ、ありがと、ございま、げふっ』
息を整えるわたくしを、ティファニーママさんは温かな言葉と共に見守って下さいます。
ちょっぴり出てきた鼻水を啜り、わたくしは大きく息を吐き出しました。
『実際にやってみて、シロちゃんとしてはどうだった?』
『そう、ですね。まだ、潜っても良いということに、慣れませんが、それでも、手応えのようなものは、感じております』
ですが、とわたくしは、俯く代わりに、シロクマの耳を伏せます。
『その……物凄く、息苦しくて、辛かったです……』
その言葉に、ティファニーママさんは、円らな瞳をぱちくりさせました。
『息が十分に吸えていないのか、それともわたくしのやり方が悪いのかは分かりませんが、非常に苦しかったのです。特に、後半はもう、溺れる寸前と申しますか、乙女がしてはいけない形相で、空気を吸い込んでいたと申しますか……』
自分で説明していて、どんどんお顔が項垂れていきます。シロクマの耳と尻尾も、しょんぼりと下がりました。
そうなのです。ティファニーママさん指導の元、沈き浮み泳法をしますと、前へ進めているだけで、苦しさはこれまでと左程変わらないのです。無様さも、そこまで違いがなかったよう思います。
いえ、泳げているだけマシと言えばマシなのですが、しかし、これでは長く水中にいることは無理でしょう。息が続かず、結局溺れてしまいます。
勿論、これから練習を続けていけば、息継ぎ問題は解消されるかもしれません。ですがわたくし、水泳に関しては、己を過信しないことに決めているのです。出来ないことを前提に考えた方がよろしいでしょう。その方が、精神的なダメージも少ないですしね。
『それから、わたくし、沈んでいる際、池の底に何度も足が付いてしまったのです。そちらのお陰で、前に進みやすかった面もございます。けれど、海ではそうもいきませんでしょう? ですので、果たしてこのまま練習を進めて良いものか、という疑問も、少々ありまして……』
ティファニーママさんは、成程、とばかりに首を縦に振りました。
『そうねぇ。確かに、池と海では、深さが全然違うもの。波もあるし、潮水だとまた泳いだ感覚が代わってくるわ。同じやり方じゃあ、ちょっと合わないかもしれないわねぇ』
『因みに、ティファニーママさん。こちらには、もっと深い池はないのですか? もしあるようでしたら、そちらで改めて泳いでみたいのですが』
『あるにはあるけど、でもあれは、あたし達成獣用なの。子供のシロちゃんじゃあ入れないわ。こっそり入ったとしても、すぐさま隊員さんに見つかって、回収されるわよ?』
まぁ、そうなりますよね。万が一事故があっては大変ですもの。
となると、この場での検証は無理ということですね。わたくしは、ふむと唸りました。出来れば、ティファニーママさんに教われる内に、不安を解消したかったのですが。こればかりは仕方ありません。
『じゃあ、取り敢えず今の泳ぎ方をメインで練習しつつ、別の方法も考えておきましょうか。実際に海に入った際、上手くいかなかった時の保険として』
それがよろしいですね、とわたくしは頷きました。一度池の外へ出てから、ティファニーママさんと議論していきます。案をいくつも出し、検討しつつ、何が最適かを考えました。
その結果、選ばれたのは、こちらです。
『浮きましょう、シロちゃん』
『浮く、ですか?』
そう、とティファニーママさんは、力強く頷きました。
『シロちゃんは、万が一海へ落ちてしまった時の為に、泳ぎの練習をしてるのよね? 海中で戦ったり、誰かを救助する為ではないのよね?』
『はい、そうです。ゆくゆくは、そういった方向も視野に入れたいと思っておりますが、現段階では、自分の身を守る為に練習しています』
『つまり、シロちゃんのパパ達が、海に落ちたシロちゃんを助けるまで持ち堪えられたらいいと、そういうことよね?』
わたくしは、首を上下させて肯定します。
『だったら、重要なのは泳ぐことじゃなくて、どれだけ時間を稼げるかっていうことなのね』
『まぁ、そうですね』
『じゃあ、やっぱり浮くのがいいんじゃないかしら。あたしが思い付く中で、一番水中で生き永らえられそうな方法だと思うんだけど』
どうかしら? とばかりに、ティファニーママさんは小首を傾げました。
泳ぎのプロたる軍用カバさんのリーダーさんがそうおっしゃるならば、そちらが最良の方法なのかもしれません。
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