30‐3.目から鱗です



 地面に下ろされると同時に、わたくしはその場へ崩れ落ちます。小さく蹲り、鼻や喉に入った水を払うべく、勢い良く息を吹き出しては、咳をしました。



『苦しかったわね、シロちゃん。びっくりもしちゃったかしら? それでも、よく頑張ったわよ。諦めずに、最後まで泳ごうとしていたもの。凄いわ』



 そう言って、わたくしの背中を優しく擦って下さいます。

 温かな感触と言葉に、目元が水とは違うもので濡れていきました。同時に、己の不甲斐なさも覚えます。何故こうも成長しないのでしょうか。毎度毎度沈んでしまう自分が、情けなくて仕方ありません。



『うぅ、ぐす、ひっく』

『大丈夫大丈夫、泣かなくていいのよ。上手く泳げなくたっていいの。寧ろ、泳げない所を見せてくれた方が、あたしにとってはありがたいわ。だって、どう教えたらいいのか分かりやすいもの。だから、ありがとうね、シロちゃん。とっても参考になったわ』



 ぽんぽん、と宥めるように背中を叩かれます。



『それから、ごめんなさいね。こんなにシロちゃんを悲しませちゃうだなんて、配慮が足りなかったわ。本当にごめんなさい』

『ぐず、い、いえ、ティファニーママさんは、何も悪くございません。ただ、わたくしが、金づちなばかりにぃ……っ』

『そんなことないわ。それこそ、何も悪くはございませんよ。シロちゃんは、なーんにも悪くないの。向上心がある素敵な女の子よ。軍用カバのリーダーたるあたしが断言するんだから、間違いないわ』



 つと、温もりが寄り添いました。

 わたくしは、鼻を啜りながらおずおずとお顔を上げます。目が合うと、ティファニーママさんは、大きなお口へ弧を描きました。負の感情など全くない眼差しに、また涙腺が刺激されます。




 麗らかな日差しが降り注ぐ中、わたくしの嗚咽が小さく響きました。

 少し離れた所から、第三番隊の隊員さん達が、心配そうにこちらを窺っています。近寄ってこようともされました。ですが、わたくしに寄り添うティファニーママさんが、大丈夫だ、とばかりに微笑んでみせると、足を止めます。気遣わしげなお顔でしばし様子を観察してから、静かに去っていきました。どうやら、そっとしておいて下さるようです。

 正直、ありがたいです。今声を掛けられたり、撫でられたりしたら、恐らく涙が止まらなくなるでしょうから。



 皆さんの優しさに感謝しつつ、わたくしはティファニーママさんと共に、静かな時間を過ごしました。




『――ぐず』



 つと鼻を啜り、わたくしは、徐に立ち上がります。



『ありがとうございます、ティファニーママさん。取り乱してしまい、申し訳ありません』

『気にしないで。それより、もう大丈夫なの? 無理はしてない?』

『いえ、無理などしておりません。わたくし、元気ですよ』



 むん、と胸を張ってみせれば、ティファニーママさんは、円らな瞳を細めました。軽く頷き、わたくしに向き直ります。



『ティファニーママさん。早速ですが、わたくしの泳ぎについて、何か気になったことや、気付いたことはありましたか? もしあるようでしたら、アドバイスを頂きたいのですが』



 ティファニーママさんは、


『そうねぇ』


 と宙を見上げました。



『沢山練習してるんだな、っていうのは、凄く伝わってきたわ。途中で沈んじゃったけど、でもフォームはとっても綺麗だったもの。水が怖いわけでもないし、やる気も十分ある。正直、あたしが教えることなんかないんじゃないかしら、という印象ね』



 そんな言葉に、わたくしは目を丸くします。

 本音を申しますと、もっと厳しい評価を貰う、もしくは、細かな修正が入るものだとばかり思っていました。ですのに、まさかここまでの高評価が下されるとは。想定外です。



『し、しかし、ティファニーママさん。ならばわたくしは、何故泳げないのでしょうか?』



 海難救助のエキスパートたるティファニーママさんから見て、そこまで悪くないのだとしたら。わたくしは、とっくの昔に泳げている筈です。金づちと悩むことも、努力が実を結ばず悔しい思いをすることも、なかったでしょう。

 ですが、実際は溺れるばかりで、一向に前へ進めません。一体何が問題なのでしょうか?




『うーん……あたしが思うに、なんだけど』



 と、ティファニーママさんは、わたくしへ視線を戻しました。



『もしかしてシロちゃん、絶対に沈んじゃ駄目だって思ってたりする? もしくは、ずーっと浮いてなきゃいけないって思ってたりするのかしら?』



 質問の意図がよく分からず、わたくしは目を瞬かせます。



『えっと……泳ぐということは、そういうことなのでは、ないでしょうか?』



 首を傾げつつ、おずおずとティファニーママさんを窺い見ました。



 するとティファニーママさんは、成程、とばかりに大きく頷かれます。次いで、姿勢を低くし、わたくしと目線の高さを合わせました。




『あのね、シロちゃん。泳ぐ時ってね、別にずーっと浮いてなくてもいいのよ? 沈んだって、全然いいの』




 ……え? し、沈んでも、良い、の、ですか……?



 お口を半開きにしながら、わたくしは固まりました。

 呆然と見上げてくるわたくしに、ティファニーママさんは、苦笑を零します。



『まぁ、正確には、時と場合による、という感じなんだけどね。ほら、あたし達軍用カバは、海難救助の時に、救助者を背中に乗せて船まで運んだりするじゃない? そういう時は一定時間浮き続ける必要があるけど、それ以外では浮かんだり沈んだりしながら泳いでるわ』



 カバさんの耳が、ぴこりと揺れました。



『ずっと浮きっぱなしっていうのも、結構大変なのよ? だって、休みなく足を動かし続けなくちゃならないんですもの。あたしだってそんなに長くは出来ないわ。そもそも、沈んでた方が早く泳げるの。急いで救助者の元へ向かう時なんかは、息継ぎの時以外ずーっと潜ってるわ。他のカバもそうよ』



 わたくしは、立ち尽くしながらも、一つ頭を縦に動かします。



『勿論、シロちゃんとあたし達では、体の造りも違うし、泳ぐ目的も違うから、全てが同じように言えるかと聞かれたら、そうじゃないんだけどね。それでも、浮かなきゃ駄目、沈んじゃ駄目、っていう考えは、一旦脇に置いておいてもいいんじゃないかしら? 置いた所で支障はないし、別に死にはしないからね』



 円らな瞳が、ゆったりと弓なりになりました。



『今シロちゃんは、固定観念に捕らわれすぎてる気がするの。ああしなきゃこうしなきゃって考えすぎた結果、体に余計な力が入ったり、ぎこちなくなったりして、溺れちゃうのかなって思うのよ。上手く出来なければ出来ない程、どつぼにも嵌りやすいしね。だからここは一つ、一回ぜーんぶ忘れましょうっ! そうして、シロちゃんの生活スタイルにあった泳ぎ方を、探しましょうっ!』



 ね? とティファニーママさんは、首を傾げてみせます。




 そんなティファニーママさんに、わたくしは碌な反応が出来ませんでした。あまりに意外な、と申しますか、考えたこともない意見に、思考が追い付かないのです。



 しかし、嫌な気持ちにはなりません。目から鱗が落ちるよう、とでも申しましょうか。そのような考え方があったのかと、驚愕と発見と感心で、思わず息を零します。



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