30‐5.昆布です



『ですが、ティファニーママさんは先程、水の中で浮き続けるのは大変だ、とおっしゃっていませんでしたか? 大変だからこそ、わたくしは、沈んで浮かんでを繰り返しながら進む泳法を、練習していたと思うのですが』

『そうね。でもあれは、正確には、浮き続けながら泳ぐのは大変だ、っていう話ね。ただ浮くだけなら、そんなでもないわよ。水の浮力に身を任せればいいだけだからね』



 まぁ、そうなのですか?

 わたくしは、目を瞬かせます。



『でも、海でやる場合は、また話が少し変わってくるわ。なんせ波があるからね。ばしゃーんって飲み込まれる時もあるだろうし、飲み込まれなかったとしても、波の高低差が激しい時だと、酔って気持ち悪くなっちゃうこともあるもの。そんな中でも、冷静に対処しつつ浮き続けるっていうのは、大変かもしれないわね』

『それでも、ティファニーママさんは、浮くことを提案するのですか?』

『えぇ。矛盾してるかもしれないけど、やっぱりそれが一番出来そうかなって思うの』



 耳をぴこりと振り、ティファニーママさんは眦を少し緩めました。



『ほら、シロちゃんは今、沈んで浮かんで進むっていうのが出来たじゃない? だから、例え浮き続けてる最中に波に飲まれても、すぐさま水面まで浮上して、息継ぎをして、またぷかぷか浮かんでる、っていうのが出来るんじゃないかなーって、あたしは考えたんだけど』



 そう言われると、確かにやっている動きは同じかもしれません。寧ろ前進しない分、より的確に浮かび、沈めそうです。



『それに、水面に浮かぶっていうのは、あたし達軍用カバが、一番最初に習うことなの。だから、基本のきの字をやるっていう意味と、基本だからこそ簡単だっていう意味から、浮くのがいいかなって』

『成程。しかし、そう上手くいくでしょうか? わたくし、泳ぐのは勿論、浮かぶのもあまり自信がありませんが』

『だったら、まずは一回やってみましょう。やってみたら案外大丈夫かもしれないし、駄目ならまた別の案を考えればいいわ。何もしない内に諦めるのは勿体ないわよ?』



 優しく諭すように、ティファニーママさんは微笑みます。

 言われてみれば、その通りですね。いくら泳ぎに関しては過信しないようにしているとは言え、それとこれとは話が別です。何事も挑戦してみなければ、一縷の可能性さえなくなってしまいます。




『そう、ですね。わたくし、やってみますっ』



 耳と尻尾を立てて、宣言しました。

 ティファニーママさんは、一層目元を弓なりにすると、


『その意気よ、シロちゃん』


 と励まして下さいます。




『じゃあ、早速挑戦してみましょうか』

『はいっ』



 わたくし達は、池の中へ入りました。向かい合い、底をしかと踏み締めます。



『シロちゃんは、ひとりでぷかーっと浮く練習は、したことあるかしら?』

『一応、あります。けれど、上手くは出来ません。数秒は浮くのですが、すぐさまお顔が水中に沈んでしまって』

『なら、まずは補助付きで浮く所から始めましょうか』



 そうしてわたくしは、ティファニーママさん指示の元、体から力を抜きます。そのまま、ティファニーママさんの前足に凭れました。



『いい、シロちゃん? 持ち上げるわよ?』

『はい、よろしくお願いします』

『じゃあ、いくわね。はい、脱力してー。はい、持ち上げまーす。はい、横にしまーす』



 声に合わせて、わたくしの体が動かされます。水面に横たわるような体勢で、ティファニーママさんの前足に乗りました。



『シロちゃん、もっと力抜いてー。もっと抜けるわよー。ぐにゃんぐにゃんになるのよー。はい、ぐにゃんぐにゃーん』

『ぐにゃんぐにゃーん……』

『いいわよシロちゃん。もっとぐにゃんぐにゃんになれるわよー。海にたゆたう昆布のように、ぐにゃんぐにゃんになるのよー』

『昆布のように、ぐにゃんぐにゃん……』

『そうよー、シロちゃんは昆布よー。昆布になるのよー』

『わたくしは、昆布……』



 池の中に横たわりながら、どんどん力を抜いていきます。もうこれ以上ない程ぐにゃんぐにゃんになりました。そのまま、ぽけーっと空を見上げます。



『いいわね、シロちゃん。ナイス昆布よ』



 そんなわたくしのお顔を覗き込み、ティファニーママさんは円らな瞳を緩めました。




『じゃあ次は、あたしの前足から離れてみましょうね。支えがなくなって、一回沈むと思うけど、でも慌てないで。何秒かすれば、また浮かび上がってくるから。そうしたら、そこで息継ぎよ。やることは、さっきまでの練習と同じだからね』

『ふぁい……』



 昆布の気持ちのまま、緩慢にお返事をします。ティファニーママさんは一つ頷くと、わたくしを支えていて下さった前足を、そっと退かしました。

 途端、わたくしの体は、水面から五センチ程沈みます。



『焦らないのよー。少し待てば、浮いてくるからねー。そのタイミングで息を吸えば、大丈夫だからねー』

『ぶくぶくぶく……ぷはぁー……』

『上手よー、シロちゃん。上手く息継ぎ出来てるわよー』

『すぅー……ぷはぁー……ぶくぶくぶく……』

『はい、リラックスしてねー。沈んでる時こそ、冷静に対処するのよー』

『……ぷはぁー……すぅー……』

『凄くいいわね、シロちゃん。じゃあ、次は少し波を立たせてみましょうか。今からあたしが、シロちゃんの周りを泳ぐからね。水面が揺れて、シロちゃんも体勢を崩すと思うけど、でも大丈夫よー。これまで通りにやれば、問題ないからねー』

『ふぁい、ぶくぶくぶくぶく……ぷはぁー……』



 小さく浮き沈みを繰り返していますと、視界の端で、ティファニーママさんが動いたのが分かりました。数拍遅れて、水の揺れが大きくなります。

 自ずと、わたくしの沈み方も、深くなりました。




『ごぼごぼごぼ……ぷはっ。すぅー、ごぼごぼごぼ』

『落ち着いてねー。潜る時間が長くなったけど、それだけよー。息を止めていられる範囲だからねー。慌てなくていいのよー。呼吸が乱れたら、余計に苦しくなるからねー』

『ふはぁー……ごぼごぼごぼ……ぷふぁー……』

『いいわよー、シロちゃん。とってもいいわー。最高よー。そのまま水に身を任せてみてー』

『ごぼぶくごぶ……ぷはぁー……』

『もっと任せちゃってー。イメージは昆布よー。シロちゃんは、海の真ん中で揺れる昆布なのよー。波に飲まれて、くるくる回って、その内また水面まで浮き上がってくるのよー』

『ふぁいごぼごぼごぼ……ぷはぁー……』

『そうよー、いいわよー。いい昆布よー。美味しい出汁が出そうよー』



 ティファニーママさんの動きに合わせて立つ波に、わたくしは抗うことなく揺られます。その身の任せっぷりは、正に昆布が如しです。




『素晴らしいわー、シロちゃん。こんなに上手に浮ける子は、中々いないわよー。これなら、いつ海に落ちても生き残れるわー』

『ありがとごじゃいましゅうぶくぶくぶく……ぷはぁー』



 無事太鼓判を頂けて、ほっと胸を撫で下ろします。華麗に泳ぐ、という最終目的は達成しておりませんが、その土台が着実に作られていると申しますか、目標の背中が見えてきたと申しますか、確かな手応えのようなものを感じています。



 差し当たって、水の中に入っても溺れない、という最低ラインをクリア出来たのは、本当に良かったです。金づちなわたくしでもやれば出来るのだという自信も付き、今後の水泳訓練に一層のやる気を覚えました。

 それもこれも、ティファニーママのお陰です。流石は軍用カバさんのリーダーさん。わたくしの急なお願いにも快く応じて下さって、本当に感謝の念しかございません。



 あぁ、なんだか太陽が、いつもより輝いている気がします。太陽も、わたくしを祝福してくれているのでしょうか? 気のせいかもしれませんが、もしそうだとしたら、とても嬉しいですね。



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