29‐8.思い切り押します
“――遂にっ! 遂に十本目完飲だぁぁぁーっ!”
その声に、はっとシロクマの耳を立てます。
見れば、テーブルの上に並ぶ瓶の半分程が、空っぽになっているではありませんか。
どうやら、わたくしがルーファスさんを構って差し上げている間にも、勝負は着々と進んでいたようです。場の盛り上がり方が、ワントーン高くなっています。
お酒の匂いも強くなっており、この短期間で大量のアルコールが消費されたのだとすぐに分かりました。お客様方は勿論、特別遊撃班の班員さん達と陸上保安部の隊員さん方も、お顔を真っ赤にしながら殊更陽気に笑っています。
奥の席に座っている主役のお二人も、見るからに酔いが回っていました。
レオン班長は頭を左右へ揺らし、ライオンさんの耳もぐったり項垂れています。焦点が若干ずれている目へ、これでもかと力を込めながら、酒瓶を小脇に抱えていました。
そんなレオン班長の手を、マティルダお婆様は指を絡めるようにして握っています。そのままライオンさんの耳へ口を添え、何やら囁きました。時折、米神や指先へキスを落としては、優しく微笑んでいます。
傍から見たら、口説いているようにしか見えない光景です。とても相手が息子だとは思えません。
『レオン班長ー、よろしいのですかー? 今は酔っ払っているから気付いていないかもしれませんが、正気に戻った時に後悔するパターンの奴ですよー。次こそは絶対に逃げると、二日酔いに苦しみながら毎回決意されている奴ですよこちらはー』
一応、忠告してみるものの、これといった反応はありません。レオン班長には、もう周りの声など殆ど聞こえていないのでしょう。兎に角、目の前のお酒を飲む。それだけしか頭にないのかもしれませんし、何でしたら、何故飲み比べをやっているのかさえ忘れてしまっていそうです。
と、申しますか。
もうふらんふらんなのですから、ここいらで勝負を終わらせてもよろしいのではないかと、わたくしは思うのですが。
『まぁ、その場合、十中八九マティルダお婆様の判定勝ちになりそうですけれども』
しかし、それはレオン班長の望む所ではないでしょうから、結果続行するしかないと、そういうことなのですかねぇ。わたくしは、小首を傾げながら唸りました。
けれど、これ以上続けた所で、果たして結果は変わるでしょうか? なんせマティルダお婆様の方が、どう考えても余裕がありますもの。今だって、レオン班長に頬ずりをして、旋毛の辺りをちゅっちゅと吸っていますし。
しかもこの現状を、実はアルジャーノンさんが記録しているのです。
今回は、解説の役目をリッキーさんのお姉さんが担っておりますので、やることがなかったからでしょうか。それとも、リッキーさんに頼まれたのでしょうか。その辺りは定かではありませんが、現在アルジャーノンさんは、スケッチブックと小型撮影機を構えているのです。元個室の片隅から、飲み比べ対決の模様を絵と画像で残していきます。
非常に楽しそうです。わたくしのお尻をスケッチしている時とはまた違った勢いで、鉛筆を走らせてはシャッターを切りました。
と、いうことは、ですよ?
『レオン班長の忘れたい思い出も、全て記録に残されると、そういうことですね……』
わたくしの眼差しに、一層生温さが増していきます。温すぎて逆に寒い位です。
まぁ、わたくしに実害はないのですから、困りはしませんけれども。しかし、明日のレオン班長を思うと、ペットとして少々心苦しいものがあるのもまた事実です。
『……仕方ありません』
ふむんと鼻を鳴らし、わたくしは、徐にカートの縁へ前足を乗せました。後ろ足を広げ、軽く体を前後させます。しっかりと踏ん張れているようです。
よし、と内心頷いてから、わたくしは息を吸い込みました。
そして。
『あよいしょおぉーっ!』
上半身を振りながら、思いっきりカートを押します。
途端、ガッチョンと音を立てて、車輪が動きました。
『よいせっ! こらせっ!』
掛け声を掛けつつ、何度も力を込めます。
わたくしの激しい動きにカートは揺れ、その拍子に車輪も少しずつ回りました。テーブルの方向へ、ゆーっくりと進み始めます。
「……何をしている」
しかし、すぐさま止まってしまいました。
ルーファスさんが、カートの縁を掴んでいるではありませんか。
『何をするのですか、ルーファスさん。手を離して下さい。これではテーブルの奥まで行けませんよ』
「……静かにしていろ。周りに迷惑を掛けるな」
ルーファスさんは、犬さんの尻尾を一つ倒すと、己の方へカートを引き寄せました。自ずとわたくしもそちらへ向かう羽目となり、テーブルから強制的に遠ざけられてしまいます。
『ルーファスさん。わたくしは、周りの方々にご迷惑を掛けるつもりなどございません。ただ、レオン班長とマティルダお婆様を止めたいだけなのです』
「……静かにしろと言っているだろう。あまり騒ぐと、店から追い出されるぞ。それでもいいのか?」
『う、それは、嫌ですけれど。しかし、このまま何もしないでいるというのも、嫌なのです。飼い主の醜態がこれ以上記録される前に、どうにかしなければいけません』
「良く聞け、シロクマ。ここにいたいならば、騒がない。暴れない。大人しくする。この三つを最低限守れ。分かったな」
そう言い聞かせるようにして、ルーファスさんはわたくしを一瞥しました。
……なんでしょう。
別に、難しいことを言われているわけでも、理不尽なことを言われているわけでもありませんのに、何故だか無性に反抗したくなります。
『……よし』
わたくしは、一つ頷きました。カートを押さえるルーファスさんを見上げ、微笑んでみせます。
それから、勢い良く上半身を反らせました。
『はぁどっこいしょおぉーっ!』
全力で、またカートを押し始めます。もうヘッドバンキングもかくやの激しさです。
「おいっ。言った傍から暴れるんじゃないっ。相変わらず人の話を聞かない奴だなっ」
『違いますっ。わたくしは人の話を聞かないのではなく、ルーファスさんの言うことを聞きたくないだけですっ。あよっこらせぇーっ!』
「大人しくしろっ。大人しくしろと言っているだろうっ。お前、いい加減にしないと、その内カートごと倒れて怪我をするぞっ」
『わたくしに怪我をして欲しくなければ、早くその手を離すことですねっ。もしくは、わたくしをお二人の元へ連れていって下さいっ。はぁそいやっさぁーっ!』
「だからっ、暴れるなっ。危ないと何故分からないんだっ。痛い目を見るのはお前だぞっ」
カートをガッチョンガッチョン言わせながら、わたくしは全身全霊で押しまくりました。その威力は、ルーファスさんの押さえ方が、片手から両手に切り替わったことからも察せられるでしょう。
シロクマの子供だってやれば出来るのです。この調子で、どうにかテーブルまで向かってやりましょう。
「おま、本当っ、何なんだっ。分かったっ。分かったから落ち着けっ。取り敢えず一旦落ち着けっ」
『落ち着いた所で何になるというのですかっ。そんな暇も惜しい程に、事態は切迫していますよっ。見て下さいっ、あのマティルダお婆様のスパダリっぷりをっ』
「まずは私の話を聞くんだっ。お前に今必要なのは、人の話を聞くことだぞっ」
『あなたこそ、わたくしの話を聞いて下さいっ。ほらっ、レオン班長を懐へ招き入れて、でろんでろんに撫で回していますよっ。猫可愛がりとはこのことですっ』
前足でマティルダお婆様を指しながら、ギアーと訴えます。ルーファスさんも、お二人の方を見やると、複雑そうなと申しますか、ある意味生温い眼差しとなりました。
「……お前が飼い主の元へ行きたいというのは、分かった。分かったから、少し待て。大人しく待っていられたら、後で連れていってやる」
『……え?』
聞こえた言葉に、シロクマの耳が自ずと傾きます。
「だから、それまで静かにしていろ。騒がず暴れず、私がいいと言うまでカートの中で大人しくしているんだ。いいな?」
わたくしは目を丸くして、ルーファスさんを見上げました。
ルーファスさんも、わたくしを見下ろします。
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