24‐6.危機的状況です
……どうしましょう。それが、素直な感想でした。
普段使っているものとかけ離れすぎたトイレに、戸惑いしかありません。
別に、いつもと全く同じでなければ嫌だ、などと我儘を言うつもりはないのです。アヒルさんのおまるでないのも、水洗でないのも、快く妥協しましょう。
ですが、全く遮るものがないのは、どうしても受け入れられないのです。
わたくしは子供と言えど、立派な淑女ですよ? ですのに、何故このような誰の目に触れるとも分からぬ場所で、排泄をしなければならないのですか。考えられません。
かのリッキーさんもおっしゃっていました。女の子の放尿シーンを見たいなんて、変態なのか、と。
あのシロクマの子供を女として見るタイプの上級者でさえ、信じられないとばかりにドン引きしていたのですよ? わたくしの主張は、決して可笑しなことではない筈です。
……けれど、現状ではこちらのトイレしかないというのも、また事実でして……。
『うぅ……ど、どうすれば良いのでしょうか……』
おろおろと辺りを彷徨い、壁になるようなものがないか探します。しかし、トイレ以外のものは、トレーの中に敷き詰められている粒の代え位しかありません。ならば、他のトレーを移動させて、その陰で済ませてしまえば、と考えるも、重くてわたくしの力では動かせません。
別の場所でこっそり用を足す、というのも考えましたが、どなたの目にも付かない場所となると、早々見つかりません。恐らく、わたくし達子動物が怪我をしないよう、あえて物を置かずに広々空間を作って下さった隊員さん達の配慮が原因でしょう。
焦りが、じわじわとわたくしを蝕んでいきます。同時に、尿意も強くなってきました。お尻に力を入れながら、必死で解決策を考えますが、どうにも良い案は浮かびません。
『か、覚悟を決めて、こちらのトイレを使用するしか、ないのでしょうか……』
けれど、わたくしの心は、強く拒否をしています。
確かに、テントの裏側は静かで、用を足すにはうってつけかもしれません。ですが、全く人が通らないわけではないのです。寧ろ、わくわくふれあい広場のお隣にある、現役軍用動物さん達による騎獣体験コーナーを担当する隊員さんや、アマフェスのお手伝いをして下さっているスタッフさん方が、ちょいちょい横切っていきます。
しかも通り掛かる度、こちらを微笑ましげに眺めたり、
「あ、シロクマだ」
「うわー、可愛いー」
とはしゃがれたりするのです。好意的に見て頂けるのは大変ありがたいのですが、今はそっとしておいて欲しいです。
中々踏ん切りが付かず、時間だけが過ぎていきます。このままでは、無様に漏らす未来しかありません。それだけはどうにか回避したいです。しかし、一体どうすれば、と考えが堂々巡りしてしまいます。
どうにもならぬ状況と、どうにもならぬ自分の気持ちに挟まれて、段々泣きたくなってきました。わたくしの膀胱も限界を訴えております。不用意に動くと、途端に決壊してしまいそうです。
激しすぎる尿意に、わたくしは、その場に立ち尽くさざるをえなくなりました。ぷるぷると震えながら下半身に力を入れ、唇をきつく噛み締めます。
こんな風に動けなくなる位ならば、潔くトイレを使うべきでした。後悔先に立たずとは、正にこのことです。
絶望感に苛まれる中、わたくしの視界は徐々にぼやけ、瞳は潤みを帯び始めます。シロクマの耳と尻尾も、みるみる項垂れていきました。
ぐず、ぐず、という音が、テント裏に小さく響きます。泣いた所でどうなるわけでもないと分かっていますが、堪えることが出来ません。
あぁ、後数分、いえ、数十秒もすれば、目からだけでなく下からも垂れ流す羽目となるのでしょう。乙女として、これ程恥ずかしい運命を受け入れなければならない事実に、また泣けてきます。
レオン班長にも申し訳ないです。ペットが漏らしただなんて、躾けがなっていないと思われてしまうかもしれません。ご迷惑しか掛けられない自分が、別の意味でも恥ずかしいです。
『もういっそ……消えてしまいたいですぅ……』
ふぐぅ、と呻き声を上げながら、鼻水を啜ります。わたくしの嗚咽が大きくなるごとに、尿意も極まってきました。いよいよ、運命の時を迎えるのですね。
わたくしは目を瞑り、きたるその瞬間を、歯を食い縛りながら待ちました。
それでも。
それでも、願ってしまうのです。
この状況をどうにか切り抜けられる方法が、突如閃くのではないかと。
わたくしのピンチに、どなたかが駆け付けて下さるのではないかと。
現実はそこまで甘くありません。分かっています。
それでも、希望に縋り付いてしまうのは、いけないことでしょうか。助けを求めてしまうのは、可笑しなことでしょうか。
このような状況でも、意地汚く救いを求めるのは、間違っているでしょうか。
例え間違っていても、わたくしは願わずにいられません。
どうか、どうかわたくしを助けて下さい……っ!
叫べない分、心の中で、強く強く、祈りました。
そんなわたくしの耳へ、つと入ってきた音が、一つ。
『――あの、どうかされましたか?』
はっと目を見開き、わたくしは、視線だけで、ぎこちなく振り返りました。
わたくしよりも少し大きな子狼さんが、いらっしゃいました。
銀色の滑らかな毛を風に靡かせつつ、わたくしを眺めています。
子狼さんは、不思議そうに小首を傾げると、すぐさま耳と尻尾を立ち上げました。足早にこちらへやってきて、涙で濡れるわたくしのお顔を、痛ましげに覗き込みます。
『何か嫌なことでもありましたか? それとも、誰かに虐められましたか?』
向けられた眼差しは、純粋にわたくしを案じて下さっているとよく分かりました。温かな言葉も惜しげもなく掛けられ、わたくしの涙腺は、壊れたかのように後から後から涙を溢れさせます。
『えっ。あ、だ、大丈夫ですよ。怖いものは、何もありませんからね。大丈夫です』
『うぅ、あ、ありがと、ございます。ですが、ぐず、ち、違うのです』
『違う? 何が違うんですか?』
『わ、わたくし、お手洗いに、行きたかったのです。ですが、ふ、普段使っているものと、あまりに、かけ離れていて、困ってしまって……』
嗚咽が混ざって聞き取りずらいでしょうに、子狼さんは、何度も相槌を打ってくれます。
『わたくし、ト、トイレは、いつも個室なのです。開放的な場所は、初めてで、どうしたら良いか、分からず……気付けば、動けない程に、なって、し、しまってぇ……っ』
喉を震わせつつ、それでもどうにか事情を説明しました。
すると子狼さんは、大きく頷きます。
『成程。つまり、あなたは、何の仕切りもないトイレに慣れておらず、困惑している内に、尿意が極まってしまい動けなくなったと、そういうことでしょうか?』
わたくしは、ふびふびと泣きながら、小さく首を縦に揺らします。
『分かりました。言いずらいことを女性に説明させてしまい、申し訳ありません』
子狼さんは折り目正しく頭を下げると、すぐさま姿勢を正しました。
『では、そうですね……少しだけ、こちらでお待ち下さい。すぐに戻ってきますから』
そう言うや、駆け出します。銀色の毛並みはテントの横を通り抜け、どこかへ消えてしまいました。
途端、心細さが舞い戻ってきます。限界を訴える膀胱の叫びも、大きくなった気がしました。図らずとも、か細い鳴き声が喉から零れてしまいます。
で、ですが、子狼さんは、すぐに戻ってくるとおっしゃいました。誠実そうな方でしたから、わたくしとの約束を違える筈がありません。
折れそうな心をどうにか奮い立たせ、わたくしは再度下半身へ力を入れました。鼻を啜りつつ、子狼さんの帰還を待ちます。
そうして、永遠かと思う程に、長い長い数十秒を耐え切った、その時。
『シルー、こっちー?』
複数の足音が、近付いてきました。
わたくしは息を止め、ゆっくりと、振り返ります。
ほぼ同時に、テントの影から、先程の子狼さんと、別の子狼さん達のお顔が、計四つ、ひょっこりと現れます。
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