一周年記念番外編 もしもシロがシロクマの獣人だったら③



「……どうした、シロ? 口に違和感でもあるのか?」



 レオン班長が、心配そうに毛のない眉を顰めます。わたくしの口内を覗いたり、熱はないか、唇が腫れていないかなど、丁寧に確認していきました。医官であるアルジャーノンさんにも声を掛けます。



 違うのです、レオン班長。わたくしは、全くもって健康ですので、ご心配なく。そんな気持ちを込めて、レオン班長の肩をぽんぽんと叩きました。

 そうして、こちらを振り返るレオン班長を見つめながら、口を動かします。





「うー、んー……んぷぁーぅちょ」





 わたくしが声を出した途端、辺りは静まり返りました。



 視線が、レオン班長に抱かれたわたくしへと、集中します。




 わたくしは、再度喉を唸らせ、唇をもにゅもにゅと動かしました。

 先程のは、若干イメージと違うと申しますか、失敗してしまったと申しますか、こう、もう少し上手に言える筈なのです。これまでの練習の成果を、今こそ見せる時なのです。



 わたくしは、己を奮い立たせ、再度口を開きました。レオン班長を見上げて、ゆっくりと、声を発します。




「ぱぁぅんちゃあ」




『班長』、と。




 ふむ、今度は中々上手く言えたのではないでしょうか。

 わたくしは、僅かに鼻の穴を膨らましつつ、レオン班長の反応を窺います。



 レオン班長は、固まっていました。



 レオン班長だけではありません。



 この場にいる全員が、同じ表情で止まっています。



 想像以上の驚き具合に、わたくし、思わずほくそ笑んでしまいます。

 本当は、きちんと『レオン班長』と呼んで差し上げたかったのですが、いかんせん赤ん坊の滑舌では、ラ行の音を上手く発音出来ませんでした。一応練習はしましたが、納得のいく出来にはならず、仕方なく『班長』だけでいくことにしたのです。もう少し成長したら、改めてレオン班長と呼んでみせるとしましょう。



 そんな決意をしている間も、皆さん、誰一人微動だにしません。あまりの動きのなさと長すぎる沈黙に、段々とわたくしも不安を覚え始めます。




「……………………シ……シロちゃんが……」



 ようやく、時が動き始めました。



「シロちゃんが、は、はんちょに……」



 リッキーさんは、震える指を持ち上げて、わたくしを差しました。信じられない、とばかりに目をひん剥いたまま、大きく喉を上下させます。



 そして。








「……パ、パパパ……ッ、『パパちゃん』って言ったぁぁぁぁぁぁぁーっ!」








 頬を紅潮させつつ、絶叫しました。




 ……ん?



 え、ちょ、ちょっと待って下さい、リッキーさん。あなた、今、なんて言いましたか?




 わたくしの聞き間違いでなければ、パパちゃんなどという、不思議な単語が聞こえてきたような気がするのですが……。




「すっげぇっ! 凄ぇなシロッ! パパちゃんって言えたなぁっ!」

「シロッ。お前、いつの間にパパちゃんなんて言えるようになったんだぁっ? あんまりびっくりさせるなよぉっ」

「でも、初めて喋った言葉がパパちゃんだなんて。シロはやっぱりレオンが好きなんだねぇ」




 聞き間違いではありませんでした。




 完全に、わたくしがレオン班長をパパちゃんと呼んだと思われています。




 な、何故でしょうか。わたくしは、確かに『班長』と言った筈なのですが。

 大体なんですか、パパちゃんとは。何故パパにちゃんを付けるのです。そこはパパで良いではありませんか。いえ、そもそもパパ呼びもしませんけれど。赤ん坊と言えど、わたくしは淑女ですよ? 仮にレオン班長を父と呼ぶにしても、パパではなくお父様と呼びます。レオンお父様です。そちら以外は断固認めません。



「むぶぅ……」



 ま、まぁ、ですが、所詮は赤ん坊の発音ですからね。多少聞き取りずらかった部分はあるのかもしれません。わたくし自身、完璧だったかと聞かれたら、素直に頷けるわけでもございませんし。皆さんが勘違いしてしまうのも、致し方ないと言わざるを得ないでしょう。



 ならば、とわたくしは再度喉を唸らせます。

 今度は慎重に、且つ伝わるように、唇を動かしました。



「ぷぁあぅちょぁ」

「あっ! シロちゃんが、またパパちゃんって言ったっ!」

「ぱ、ぱぁあちゃぅ」

“そうだな、シロ。パパちゃんだな”

「ぴゅあんむちゅーっ」

「おいレオンッ! シロがパパちゃんって呼んでるぞっ! 返事してやれよっ!」

「うぅ、ぱ、ぱぅ、ぱぁうんむちゃあっ」

「あぁ? なに固まってんだレオン。いい加減反応してやれよぉ、パパちゃんよぉ」

「ぱぁっ、ぷぁぁあんちょわあぁぁーんっ」

「あぁ、ほら。レオンが何も言わないから、シロが怒ってるじゃないか。全く、困ったパパちゃんだねぇ」



 困ったのは、レオン班長ではなく皆さんの耳の方ですよ。わたくしがこれ程一生懸命『班長』と言っているのに、誰一人正確に聞き取って下さらないだなんて。怒りを通り越して、いっそ悲しくなってきました。目頭が熱くなり、景色がじんわりと滲んでいきます。



「う、ふぅ、ぶぇ……っ」



 このようなことで泣くものか、と思うものの、赤ん坊の繊細な涙腺は、ちょっとした出来事ですぐに緩んでしまうのです。

 せめてもの抵抗として、わたくしは唇を噛み締め、全身を震わせました。




 と、不意に、わたくしの頭を、慣れ親しんだ温もりが包み込みます。



 優しく撫でられる感覚に、わたくしは目を瞬かせながら、視線を上げました。




「……シロ」



 レオン班長と、目が合います。瞳の奥に優しさを浮かべつつ、わたくしの頭をぽんぽんと叩きました。次いで、わたくしの背中へ手を滑らせ、軽く揺らすようにして抱え直します。



 わたくしは、レオン班長を見つめ返しました。軍服の胸元をきゅっと握り締めれば、答えるように背中を撫でて下さいます。



 その眼差しは、全て分かっている、と言わんばかりに力強いです。




「ぷぁ、ぷぁぷちゅうぅ……っ」



 思わず、班長、と呼んでしまいました。堪えていた涙が、また込み上げてきます。



 そんなわたくしの目元を、レオン班長は指で拭って下さいます。そうして、目を細めました。



「なんだ、シロ?」



 穏やかなお返事に、わたくしのお顔も、自ずと笑みが溢れます。




 やはりレオン班長は、分かって下っているのです。



 わたくしが『班長』と呼んでいるのだと。




「ぱぁうちゃうっ」

「あぁ、なんだ?」

「ぷぅ、ぷぅあんちゅんっ。ぷあぅちゅぅっ」

「あぁ、聞こえてるぞ」

「ぱぁーんむちょっ。ぱあぷちょおぉーんっ」

「なんだよ、シロ」



 周りの方々がパパちゃんパパちゃんと浮かれたように笑っている中、レオン班長だけは、パパちゃんと言いません。わたくしの言葉を優しく受け止めては、返事をして下さいます。流石はわたくしの養い親です。子の言葉を誰よりも理解してくれるのですね。



 嬉しくて嬉しくて、わたくしの笑顔は止まりません。喜びのあまり、レオン班長の首に抱き着きます。うりうりと額を擦り付ければ、くく、と喉の揺れる気配がしました。かと思えば、お返しとばかりに、わたくしの頭や背中を撫でて下さいます。




 あぁ。わたくしは、なんて素敵な方に拾われたのでしょう。レオン班長の養い子となれた自分は、世界一の幸せ者です。

 いつか必ずこの恩を返し、そして、改めて伝えましょう。



 わたくしを育てて下さってありがとうございます、レオン班長、と。



 そんな未来を想像して、わたくしはレオン班長に抱き締められながら、いつまでもにこにこと微笑んだのでした。








 しかし、この時のわたくしは、想像もしていなかったのです。




 まさかレオン班長までもが、わたくしの初めて喋った言葉が『パパちゃん』だと勘違いしていただなんて。




 しかも近い将来、『レオン班長』と呼びたいわたくしと、『パパ』と呼ばれたいレオン班長との壮絶な戦いが、長きに渡って繰り広げられるだなんて。




 この時のわたくしは、何一つ想像していないのでした。



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