22‐9.不気味な音です



 何とも言えぬ嫌な空気が、じわじわと辺りに広がっていきました。わたくしは、背筋に走った寒気に、ふるりと身を震わせます。




 ほぼ同時に、わたくしを抱き締める腕と体も、小さく震えたような気がしました。




『レオン班長……?』



 毛布の間から、そっと窺い見ます。



 暗がりの中、眼光をこれでもかと研ぎ澄ませたレオン班長が、部屋の扉を睨み付けていました。その形相は、今から自爆特攻をかまそうとしている裏社会の構成員が如き険しさです。



 しかし、よくよく見ると、ライオンさんの耳は、厳めしい顔面に反してへたり込んでいます。先端をぴるぴると震わせて、今にも泣き出さんばかりです。



 そ、そうでした。レオン班長は、幽霊が怖くて夜も眠れないタイプの方なのでした。妙な物音が聞こえようものなら、気になって気になって、結果朝まで一睡も出来ない可能性も考えられます。そのようなことでは、軍人としての業務に差し支えが出てしまうでしょう。まぁ、今は無人島生活を満喫しているだけですが、それはそれです。

 規則正しい生活こそが、健康への第一歩。ここは一つ、わたくしが寄り添って差し上げましょう。そうして、レオン班長の心を和らげつつ、眠りへと誘うのです。




『そ、そういうわけですので、ちょっと失礼しますね』



 わたくしは断りを入れてから、レオン班長の寝間着の中へと潜り込みました。こちらは、あくまでレオン班長の不安を取り除く為にやっているだけですので。決してわたくしが、いる筈のないランプ上官に怯えているわけでも、隠れてことをやり過ごそうとしているわけでもございません。

 えぇ、全くもってございませんとも。



『だ、大丈夫ですよ、レオン班長。わたくしが、ぎゅっと抱き締めて差し上げますからね。ですからレオン班長も、わたくしをぎゅっとして下さい。ぎゅっとですよっ』



 ギアッ、とお願いすれば、レオン班長は、毛布ごとわたくしを抱き締めて下さいました。その腕は依然小刻みに震えており、お胸越しに感じる心臓の鼓動も、いつもより早いです。心なしか体温が下がり、妙な汗も浮かんでいました。相当緊張されているご様子です。




 不気味な音は、未だに廊下から聞こえてきます。先程よりも、間違いなく大きくなっていました。確実に、こちらのお部屋へ近付いています。



 レオン班長は、壁に背中を押し当て、息を潜めました。わたくしも、つられて黙ります。

 そうして静かにしていると、得体の知れない音は、遂にレオン班長のお部屋の前までやってきました。



『だだだ、大丈夫ですからね。すぐに通り過ぎますから。もう、すぐです。あっという間です。わたくし自慢の毛を堪能していれば、気付いた時には遠くへ行っています。えぇ、間違いありません』



 わたくしは、飼い主の心を落ち着かせようと、目の前にあるレオン班長のお胸を、前足で揉みました。はいはい、どうどう、と馬さんを宥めるが如く前足を動かせば、レオン班長の呼吸が、心なしか緩やかになったような気がします。



 わたくしは内心、よしよしと頷きました。後はこのまま、例の音がいなくなってくれれば完璧です。レオン班長もわたくしも、心置きなく眠れます。




 しかし、わたくしの願いとは裏腹に。




 不気味な音は、レオン班長のお部屋の前で、途切れました。




 ひゅ、と、息を飲む音が二つ、辺りに響きます。

 わたくしの前足も、自ずと止まりました。



 何とも言えぬ静寂が、じんわりと漂います。呼吸音も、身じろぐ音も、聞こえてきません。




 そんな中に、つと、新たな音が、落とされました。




 お部屋の扉を、小さくノックする音です。





『……あら、ノック?』




 予想外の音に、わたくしは首を傾げました。レオン班長の寝間着の首元から、そーっと外を覗きます。



 部屋の扉が、ノック音に合わせて僅かに揺れていました。

 揺れてはいますが、聞こえてくるのは、ノック音です。




 アルジャーノンさんが怪談で語っていた、何かを引っかくような音では、ございません。




『ほ、ほらっ、レオン班長。やはりランプ上官ではありませんでしたよっ。きっとどなたかが訪ねてきたのですっ』



 それに、よくよく考えてみれば、明かりが消えるタイミングも可笑しかったです。アルジャーノンさんのお話では、明かりは不思議な音がお部屋の前で途切れたと同時に、消えるのですもの。

 つまり、これはただ状況が似ているだけの、全く別ものだ、ということです。

 何かしらの理由でたまたま明かりが消えてしまい、そのタイミングでたまたまどなたかが廊下を歩き、たまたまレオン班長に用事があったので、扉をノックしている。そういうことなのです。



 わたくしは、レオン班長を仰ぎます。

 レオン班長のお顔から、若干力が抜けていました。ライオンさんの耳も、少し持ち上がっています。どうやら、わたくしと同じ考えにいたったようです。



『ですが、随分と人騒がせですね。いくら間が悪かったと言えど、ここまでくると嫌がらせかと勘繰ってしまいます。一体どなたがいらっしゃったのでしょう?』



 わたくしは、レオン班長の寝間着の首回りから、部屋の扉を見やります。

 扉は、未だに揺れていました。レオン班長の返事がなくとも、めげずに何度もノックをしています。しかも、こんな夜更けにです。それだけ緊急ということなのでしょうか?



『何にせよです。そろそろ返事をして差し上げてもよろしいのではありませんか? 相手の方も、いい加減痺れを切らしているかもしれませんし』



 あ、ですが、わたくしはもうしばらくこのままで結構ですよ。レオン班長の服の中にいます。

 べ、別に、外にいる存在を確認するまで安心出来ないとか、腰が抜けて動けないとか、そういう理由ではございません。単に、あれです。わたくしがお傍にいた方が、レオン班長は喜び、安心するかと、そう思っただけです。

 えぇ、本当ですとも。



 そう内心言い訳をしていると、レオン班長は、徐にライオンさんの耳を振りました。そうして、扉へ向かって、口を開きます。




 けれど、レオン班長が何かを言う前に、ノック音が途切れました。




 代わりに聞こえてきたのは、カリ……カリカリ……という、扉を引っかいているかのような音です。




 瞬間、わたくし自慢の毛が、一気に逆立ちました。

 レオン班長の肌も、粟立ちます。



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