22‐7.眠る時間です



『……酷い目に合いました……』



 はふん、と溜め息を吐き、わたくしはレオン班長のお胸へ、お顔を埋めます。うりうりと擦り付けば、レオン班長の手が、わたくしの背中をぽんぽんと叩いてくれました。その手付きはいつもよりも優しく、どこか労わっているかのようです。




 どうやらわたくしは、アルジャーノンさんの怪談の途中で、気を失ってしまったみたいです。

 リッキーさん曰く、レオン班長のアロハシャツの中から突然わたくしが転がり出てきたかと思えば、白目を剥いてぐったりしており、辺りは一時騒然となったのだとか。ご迷惑をお掛けしてしまい、大変申し訳ありません。




“診た限り、これといった異変はない。呼吸も心音も安定しているし、可笑しな動きをするわけでもない。恐らく、一過性の意識消失だろう”



 診察して下さったアルジャーノンさんが、スケッチブックへ鉛筆を走らせます。



「……命に別状は?」

“今の所は大丈夫だと思う。一応、数日は様子を見るが、問題が起こる可能性は低いだろう”

「もし、何かしらの問題が起こった場合は?」

“兎に角、安静にすること。それ以外ない。ただでさえうちの船には、動物用の医療器具が少ないんだ。加えて遭難中となると、出来ることなどたかが知れている。詳しい検査は、本部に戻ってからする他ない”



 レオン班長は、不満げに毛のない眉を寄せました。しかし、仕方のないことだと理解はされているのでしょう。何も言わずに、わたくしを抱えて自室へと帰りました。




『レオン班長。ご心配をお掛けしまして、申し訳ありませんでした』



 わたくしは、ソファーに座るレオン班長のお膝の上で、ギアーと耳を伏せました。



 レオン班長は、無言でわたくしを撫でて下さいます。手付きは優しいですが、反面ライオンさんの尻尾は、頻りにソファーの座面を叩きました。ご機嫌はあまりよろしくないようです。

 そうですよね。なんせ飼っているシロクマが、いきなり白目を剥いて気絶したのですもの。飼い主として、心穏やかにはなれないのでしょう。



 ですが、言い訳をさせて頂きますと、わたくしとて気を失うつもりはなかったのですよ? ただ、あれなのです。場の空気に、少々飲まれてしまっただけなのです。

 決してアルジャーノンさんの怪談が怖すぎたからではございません。

 えぇ、そうですとも。あのような子供騙しなお話を、わたくしが本気にするわけないではありませんか。



『ね、ねぇ、レオン班長? そうですよね?』



 レオン班長からのお返事は、ありません。ただただ、お膝に乗せたわたくしの毛を、丁寧に梳くのみです。

 程よい感触と温もりに、普段ならば、体の力が抜け、レオン班長にぺっとりとくっ付いていることでしょう。けれど本日は、どうにも気持ちが落ち着きません。意味もなく前足とお尻をもじもじと揺らしてしまいます。



『ふむぅ、困りましたねぇ』



 このままではわたくし、眠れないかもしれません。子供の成長に上質な睡眠は欠かせないものですのに。このように心を乱したままでは、一睡もせずに朝を迎えてしまいます。



 それに、とわたくしは、視線を持ち上げました。



 ソファーの背に凭れるレオン班長と、目が合います。



 わたくしがこのようにぐずぐずしているからか、レオン班長もベッドへ入る様子を見せません。夜も大分更けてきました。もう寝なければ、明日に響いてしまうかもしれません。

 軍人たるもの、体が資本です。不規則な生活を送っては、体調を崩してしまいます。いくら遭難中と言えど、自身の体調管理には気を付けなければならないのです。その為には、良質な睡眠は必須と言って過言ではないでしょう。




 ……仕方ありません。これもレオン班長の為です。



 ここは一つ、覚悟を決めようではありませんか。




『レオン班長』



 わたくしは、レオン班長のお膝から下りました。ソファーの座面を歩き、端に備え付けられているわたくし専用の階段まで向かいます。

 そうして、にっこりと微笑みました。



『もう夜も遅いことですし、そろそろ寝ましょう。わたくし、なんだか眠くなってきました』



 と、これみよがしに、あくびをするフリをします。階段を下り、レオン班長の意識を誘導するかのように、ベッドへ向かいました。

 ベッドの下で止まると、レオン班長を振り返ります。



『さぁさぁ、レオン班長。明かりを消して、ベッドへ横になりましょう。わたくしはもう大丈夫ですよ。えぇ、大丈夫ですとも。この通り、ぴんぴんしております。落ち着きも取り戻しましたよ』



 わたくしは、出来る限り平然とした態度で、レオン班長へ語り掛けます。

 ですが、レオン班長は、未だソファーから動こうとされません。本当に大丈夫なのか、と言わんばかりに、こちらをじーっと観察しています。




『レオン班長。わたくし、本日はレオン班長にぎゅーっとして頂きながら寝たい気分なのです。ぎゅっとではありませんよ? ぎゅーっとです。生半可な抱擁ではなく、きつく抱き締めて欲しいのです。ペットの我儘を、どうか叶えては頂けませんか?』



 ギアーと微笑むわたくしに、ライオンさんの耳がぴくりと揺れました。毛のない眉へも、力が籠ります。それなりに厳つい表情をされていますが、その瞳に怒りは全く見えません。寧ろ、不安や気遣いの色が濃く浮かんでいます。



 レオン班長は、しばし黙り込みました。かと思えば、深い溜め息を零し、立ち上がります。わたくしを抱き上げると、ベッドへ乗り上げました。体を横たえ、わたくしをお腹に乗せてくれます。更に上から毛布を掛けて頂ければ、いつもの就寝スタイルの完成です。後はこのまま、朝までぐっすりと眠れば良いだけです。




 だけ、なのですが。




『うぅん……』



 案の定、眠気はやってきません。

 ですが、まぁ、想定内です。例えわたくしが眠れずとも、レオン班長が眠れれば良いのですから。



 わたくしは、ちらと上目でレオン班長を窺います。

 レオン班長は、雑誌を読んでいました。時折わたくしへ視線を向けては、眠りに誘うかのように、頭や背中を撫でて下さいます。気持ち良いは気持ち良いですし、安心感も覚えます。しかし、それだけです。今一番欲しい眠気は、全くもって訪れません。だからと言って、寝返りを打ったり起き上がったりしてはいけません。胸元でもぞもぞ動かれては、レオン班長も気になって眠れないでしょう。

 ですので、わたくしは目を瞑って、眠ったふりをします。レオン班長の心音を感じつつ、静かに呼吸を繰り返すのです。



 そうしてレオン班長が寝るのを、じっと待っていますと。




 不意に、外から大きな音が聞こえてきました。




 何かが勢い良くぶつかったかのような鈍い音に、わたくし、思わず飛び起きてしまいました。耳をぴんと立て、音が上がった方向を凝視します。



 部屋の中へ、静寂が流れました。耳を澄ませますが、特に変わった音も気配も感じません。風がやや強く吹いていることから、恐らく吹き飛ばされた枝なり石なりが、船にぶつかったのでしょう。そうです。そうに決まっています。




 決して、ランプを持った上官の幽霊が、どなたかを成敗したわけではありません。




『お、驚かさないで下さいよ。全く……』



 わたくしは、大きく息を吐き出します。ぶわわぁっと膨らんでしまった毛を宥めるべく、体を軽く震わせました。ついでに前足で擦り、己の心も整えていきます。



『……あら?』



 ふと、視界の端に、レオン班長のお顔が映りました。



 頭を持ち上げ、ライオンさんの耳をぴーんと立てています。

 目もかっと見開き、まるで威嚇でもするかのように、先程大きな音がした辺りを見つめていました。




「………………ふぅー……」



 数拍すると、体の中にある空気を絞り出すかの如く、長く長く息を吐き出されます。かと思えば、持ち上げていた頭を、ぎこちなくベッドへ戻しました。わたくしを一撫でしてから、また雑誌へ目を向け始めます。



 しかし、一向にページは捲られません。



 雑誌越しに、頻りに部屋の扉を気にされています。



 よく見れば、ライオンさんの耳がぺたりと伏せられていました。

 尻尾も、足の間に挟まっています。




『……レオン班長』



 もしや、とは、思いますが……。




『怖いのですか?』




 ランプを持った上官の幽霊が、部屋へくるかもしれないと?




 わたくしは、レオン班長をじっと見つめました。

 レオン班長からの返事はありません。



 代わりに、ライオンさんの耳が、ぴるぴるっと震えました。



 毛のない眉もきつく寄り、硬く結んだ唇をぐっとひん曲げます。これから敵のアジトへ怒鳴り込まんとするマフィアの如き形相ですが、恐ろしさは感じません。




 何故なら、わたくしの目には、泣くのを必死で我慢しているお子さんのようにしか映らないからです。




 そう思った瞬間、己の口角が、勢い良く持ち上がったのが分かりました。




 表情も、一気に華やぎます。



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