22‐6.上官さんの幽霊です



“――夜になり、兄は自分の部屋へ戻った。相部屋だったが、その日は同室者が寝ずの番を担当する日だったので、一人きりで過ごすことになった。同室者とは仲が良かったが、それでも誰もいない部屋で一晩過ごせるというのは、心地のいいものだったらしい。それは他の隊員にも言えたことで、同室者不在の日は、大抵の者が夜更かしをした。そして周りは、余程のことがなければ見て見ぬふりをする、という暗黙の了解があった”



 妙に静かな空間に、アルジャーノンさんの言葉を代弁する音だけが、響きます。



“――兄は、早速貯まったメモを広げては、ノートにレシピを書き込んでいった。兄の趣味は、料理なんだ。思い付いた料理はすぐさまメモを取り、暇な時に纏めていた。その日も気の向くままに鉛筆を走らせたらしい。誰にも気兼ねしなくていい分、兄を止める者もいない。気付けば、普段ならとっくに寝ている時間帯となった。それでも気分の乗っていた兄は、後もう少しだけ、と言い訳をして、更にノートへ向かったんだ。すると……どこからともなく、聞き覚えのない音が、聞こえてきた”



 そこでアルジャーノンさんは、しばしの沈黙を守りました。ほんの数秒、いえ、たった数拍の間だったでしょうか。

 けれど、体感としてはもっと長く感じました。

 早く知りたいような、知りたくないような、そんな気持ちが、体の中を駆け回ります。



“――……ズ……ズズ……何かが擦れ合うような音だった。足音とは少し違う。誰かが荷物でも引きずっているのか? こんな夜更けに、隊員達の寝静まる部屋の前で、一体何を? そもそも、寝ずの番以外の隊員は、既に就寝している筈だ。仮に起きていたとしても、先輩や上官に見つかってしまっては、罰を受けざるを得ない。そうと分かっているのに、わざわざ音を出すような真似を、果たして冒すだろうか?”



 アルジャーノンさんの問いに、答える声はありません。

 代わりに、どこからともなく、唾を飲み込む音が、聞こえてきました。



“――その時、兄の頭に、ふと先輩の話がよぎった。ランプ上官、という言葉も、思い出したらしい。兄は、すぐさま自嘲した。なにがランプ上官だ。ただの子供騙しじゃないか。そう思うも、胸に引っ掛かる不快感は拭えない。不可解な音も、未だ聞こえてくる。何とも言えぬ嫌な空気が、じわじわと部屋の中に広がっていった。体にも、滲んでいくような感覚を覚える。背筋を走った寒気に身震いすると、兄はまた笑った。そうして、ランプ上官なんているわけがない、と呟いた。まるで、自分に言い聞かせるかのように”




 つと、わたくし達の間を、夜風が通り抜けていきます。昼間とは違い、少々冷たさを覚えました。



 だから、でしょうか。



 わたくしの体へ、勝手に震えが走ります。

 自慢の白い毛も、心なしか逆立ちました。




『あ、あの、レオン班長。申し訳ありませんが、ちょっと、お邪魔しますね』



 断りを入れつつ、わたくしは、レオン班長が纏うアロハシャツの中へ潜り込みます。

 べ、別に、アルジャーノンさんのお話が怖いから、というわけでは、ありません。ただ、あれです。夜だからか、辺りが少し肌寒くなってきたので、暖を求めているだけなのです。本当ですよ。



『な、なので、レオン班長。わたくしを、強く抱き締めて下さい。ぎゅっとですよ、ぎゅっと』



 そうお願いをすれば、アロハシャツ越しに感じる逞しい腕が、わたくしの体を包み込みます。いつもよりも若干きつめに、拘束感と圧迫感を覚えます。ですが、決して不快ではありません。寧ろ、レオン班長との密着度が増し、何とも言えぬ安心感があります。

 全身で感じるレオン班長の心音も、わたくしの心をほっと和らげて下さいました。一定のリズムで力強く打つ鼓動の、なんと頼もしいことか。わたくしは、己の耳をレオン班長のお胸に押し付け、温もりと心臓の音を、堪能します。



 ですが。




“――不気味な音は、どんどん近く、大きくなっていった”




 アルジャーノンさんの声を代弁する音に、またわたくしの体へ力が籠りました。




 ”――兄は、咄嗟に立ち上がった。部屋の出入口から出来るだけ離れると、壁に背中を押し当て、息を潜める。その間も、音は止まらない。ズ……ズズ……と得体の知れない音色を奏でながら、兄の部屋に近付いてくる”



 わたくしは、アルジャーノンさんのお話が聞こえぬよう、一層レオン班長のお胸に耳を押し付けました。ドクン、ドクン、と脈打つ心音へ、必死に意識を向けます。



“――音は、遂に兄の部屋の前までやってきた。押し黙る兄の呼吸は自ずと荒くなり、冷や汗も静かに滲む。何を怖がっているんだ、と、頭の片隅で笑う自分がいなくもなかったが、意識はどうにも音へ向いてしまう。ただただ、早く通り過ぎてくれと、願ったそうだ”



 お話が進むごとに、わたくしの呼吸も、どことなく早くなっている気がします。どうにか心を落ち着かせようと、取り敢えず目の前にあるレオン班長のお胸を、前足で揉んでみました。多少息苦しさは緩和するも、そわそわした感覚は、引き続きわたくしに纏わり付きます。




 ”――しかし、兄の願いは、叶わなかった”




 ぽつりと落とされた言葉に、この場の空気が固まりました。

 わたくしも、前足の動きを、止めてしまいます。



“――不気味な音は、兄の部屋の前で、途切れたんだ”



 ひゅ、と、どなたかの息を飲む音が、辺りに響きます。



“――同時に、部屋の灯りが、ふっと消えた”



 何とも言えぬ静寂が、じわりと漂い始めました。



“――兄の体から、妙な汗が一気に噴き出した。灯りが消えたのは勿論だが、廊下にいるであろう何某なにがしの存在が気になって仕方なかった。だが、確認しにいくのはどうにも憚られた。咄嗟に握った鉛筆を剣のように構えながら、じっと息を潜めたんだ。すると今度は、また別の音が聞こえ始めた……カリカリ、カリカリ……何かを引っかくような音だ。同時に、部屋の扉が、音に合わせて僅かに揺れた”



 そ、それは、まさか……。




“――どうやら、廊下にいる何かは、兄の部屋の扉を、開けようとしているらしい”




『ひぃぃ……っ』



 思わず、声を漏らしてしまいました。ぎゅっと身を縮め、レオン班長に張り付きます。

 これ以上話を聞きたくなくて、必死でレオン班長の心臓の音に集中しました。



 それでも、無機質な音は、わたくしの耳に入ってきます。



“――兄は、思わず後ずさった。辺りを見回し、どうにかこの場から逃げる方法はないか、懸命に探した。けれど、真っ白となった頭では何も思い付かない。ならばせめて身を隠そうと、ベッドの下へ潜り込むべく身を屈めた――”



 ――その時、唐突に、引っかく音が途絶えたんだ。



 波の音しか聞こえない浜辺に、無機質な声が、落とされます。



“――代わりに、ギィ、と、扉の開く音がした”



 感情のない音色に、わたくしの背筋へぞくりと寒いものが走りました。心臓もどんどん早くなっていきます。



“――俯いて固まる兄の元へ、ズズ……ズズ……と、何かの擦れる音が近付いてくる。ぼんやりとした光も、暗闇を切り開くようにして、迫ってきた。兄は、込み上げた唾を飲み込んだ。冷や汗を顎から滴らせつつ、ぎこちなく首を動かした。すぐ傍で立ち止まった何某を、ゆっくりと、仰ぎ見た”



 白い毛が、ぶわわぁっと逆立ちます。体の震えも、大きくなりました。




“――そこには、誰かが立っていた。軍服を着ていたので、海上保安部の者だということは分かった。けれど、誰なのかは、分からなかった”



 何故なら、と続けた無機質な声が、どこか遠くの方で聞こえます。




“――煌々と輝くランプの灯りが、逆光となっていたから――”




 音と共に、わたくしの意識も、静かに遠のいていきました。



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