22‐3.怖い話です



「何の音なのかは、分からなかった。でも、人が出す音じゃないのは確かだ。人工的なような、自然なもののような、兎に角何とも言えない音でね。それが、真っ暗な廊下の奥から、小さく聞こえてくる。しかも、どんどん大きくなってきた。どうやら、こっちに近付いてるっぽいんだ」



 リッキーさんの視線が、つと下がりました。



「不味い。反射的にそう思った。だから、すぐさまラボに引き返そうとしたんだ。けど、足がね、どうにも動かない。正確には、動いてるんだよ? でも、自分が思ってる程前に進まないっていうのかな。こう、水の中を藻掻いてるような感じでさ。気持ちは焦るのに、体は言うことを利かなくって、やばいやばいって一層焦っちゃって……そうしてる内にも、音はどんどん迫ってきて……」



 まるで滴り落ちるかのように、リッキーさんの口から言葉が零れていきます。纏う空気も相まって、この場を不自然な静寂が包み込みました。




「そうしたら、またきたんだ」



 き、きた、とは、一体何が……? 誰もがそう思ったことでしょう。

 ごくりと喉を上下させる音が、小さく聞こえてきました。リッキーさんの言葉を逃さぬよう、体を少々前のめらせます。



 そんなわたくし達の耳へ、飛び込んできたのは。




「ドォォォォォーンッ!」




 突然の大声に、わたくしの体は自ずと跳ね上がります。自慢の白い毛も、少しだけ逆立ちました。



「……予期せぬ衝撃が、またきたんだよ。今度は、船全体を揺さぶるような、大きい奴がね」



 叫んだかと思えば、リッキーさんは、また静かに唇を動かし始めます。



「俺は、またしても耐えられなかった。今度はたたらを踏むどころか、全身を持ってかれてさ。受け身を取る余裕もなく、その場に倒れちゃったんだ。痛みに眉を顰めて、唸りながら顔を上げた時、あれ? って思った」



 俺が持ってたつなぎ、どこいった? って。



「どうも、倒れた拍子に放り投げちゃったみたいでさ。すぐに回収しないとって、俺、辺りを見回したんだ。でも、それらしいものは見当たらない。姿形もない……代わりに、遠くの方に、足が二本、見えた」




 あ、足、ですって……っ!?




「その足は、得体の知れない音と共に、こっちへ近付いてくる。あいつだ。さっき俺が逃げようと思った奴だ。やばい。頭の中を、そんな言葉がぐるぐる回った。でも不思議なことに、体は上手く動かない。何度も立とうとするのに、なんでか立てない。早くしなきゃ。早く逃げなきゃ。気持ちだけが急ぐ。でも実際は、四つん這いのまま少し後ずさっただけ……そうしてもたもたしてたら、その足は、遂に俺の真ん前までやってきてしまったんだ」



 リッキーさんのお顔から、感情というものが消えていきます。虚ろな目で一点を見つめる姿に、思わず寒気が込み上げました。

 わたくしは、咄嗟にレオン班長へ身を寄せます。温もりを分けて頂きつつ、リッキーさんの様子を窺いました。



「俺は、息を止めた。体が勝手に固まった。それでも、頭はゆっくりと上がってく。まるで、そうしなければならないと、体を操られてるかのように……目の前の足が見え、腰が見え、腕が見え、胴体が見え、首が見え……遂に、相手の顔が、見えた。瞬間、俺の口から、ひっ、と小さな悲鳴が漏れた。本当は、大声で叫んだつもりだったのに、押し潰されてしまったんだ。何故なら……」



 リッキーさんの肌から、どんどん血の気が引いていきます。両腕で自身を抱き締めると、今にも泣き出しそうに表情を歪め、それでも、懸命に口をこじ開けました。



 その唇が紡いだ、言葉とは。





「……っ、牛乳の染み込んだつなぎとタオルを頭から被ったパティちゃんが、俺を見下ろしてて……っ!」





 ひぃぃぃぃぃぃぃぃーっ!





 一斉に叫び声が上がりました。

 皆さん、一様にお顔を引き攣らせています。わたくしも、自慢の白い毛をぶわわぁっと逆立ててしまいました。体も、勝手に震えます。




 まさか、よりによってパトリシア副班長と遭遇するだなんて。それも、牛乳を拭いたつなぎとタオルを持っている時だなんて。運が悪いどころの話ではありません。





「お、俺、必死で謝ったんだ。でもパティちゃんは、聞いてくれなくて、俺のこと、無言でずっと、掃除機で吸ってきて……逃げようにも、妙に床がつるつるしてるせいで、思うように、う、動けなくってぇ……」



 リッキーさんは、両手でお顔を覆っています。声も、まるで泣いているかのように悲しげです。



「どうも、誰かがオイルなりなんなりを零したみたいでさ。しかもちゃんと掃除しないで逃げたのか、その一帯の床、全部、油まみれになってて……だから俺、上手く動けなったらしくて……パティちゃんは、その床を綺麗にしようと思ってきたんだって。ほら、夜中だと誰もいないじゃん? だから、掃除が捗るんだってさ」



 あー……と、場にしんみりとした空気が流れます。皆さん、リッキーさんに同情的な視線を向けました。唯一レオン班長だけは、お顔を逸らし、膝の上のわたくしを両手で撫で回します。

 恐らくですが、床を油まみれにした犯人は、レオン班長なのでしょう。

 あくまでわたくしの想像ですけれど、不自然な態度と、忙しなく揺れるライオンさんの耳と尻尾が、怪しくて仕方がありません。




「まぁ、それでもね。どうにか許して貰ったんだ。それから俺は、パティちゃんにお説教を食らいながらつなぎとタオルを洗濯し、ついでに油まみれの床も綺麗にお掃除したと、そういう怖ーい話でした。以上ー」



 リッキーさんが両手を振ると、其処彼処から拍手が上がります。リッキーさんを称えるような音色に、何とも言えぬ気持ちが込み上げてきました。

 取り敢えずレオン班長は、リッキーさんとパトリシア副班長に謝っておいた方が良いのではないでしょうか。



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