19‐10.病気は恐ろしいです



『な、なんて酷い……っ』



 まだら禿げとなったシロクマ。皮膚が爛れたシロクマ。顔の半分が膨れ上がったシロクマなどなど。この世の惨さを詰め込んだかのような光景に、わたくし、震えが止まりません。自慢の白い毛も、これでもかと逆立ちます。

 あまりの痛ましさに、わたくしはレオン班長のお胸へ、お顔を埋めました。



「いかがですか、レオン班長? これらは全て、そこまで珍しくない、極々ありふれた症例ばかりです。中には、動物しか罹らないものもあります。このような姿となる可能性が、レオン班長にも、私にも、シロクマにもあるのです」



 視界を塞いでも、パトリシア副班長が語る恐ろしい内容は、わたくしの耳に入ってきます。



「注射が嫌だという気持ちは分かります。ですが、一時の痛みを我慢すれば、こちらに集めたような病気は、ほぼ防げるのです。万が一罹ったとしても、軽症で済みます。写真のシロクマ程病状が悪化することもなく、すぐに回復するのです。そうと分かっているにも関わらず、ただシロクマが可哀そうだからと、嫌がっているからと、そのような理由でワクチン接種を受けさせないというのは、飼い主として、果たして正しい選択でしょうか?」



 うぅ、せ、正論が痛いです。

 少しでも声を防げないかと、わたくしは前足とレオン班長のお胸で、己の耳を押さえました。



「飼い主ならば、ペットの体調管理をきちんとしなければなりません。動物は、不調を訴えることが出来ないのです。一番傍にいる飼い主が気に掛けてやらずにどうするのですか。シロクマの健やかな成長は、あなたに掛かっているのですよ、レオン班長」



 どうにか耳を塞いでみたものの、完全には音を遮断出来ませんでした。パトリシア副班長の演説染みた声は、わたくしの胸をちくちくと刺してきます。



「また、あなた自身の健康も、あなたがきちんと管理しなければなりません。何故なら、万が一レオン班長が病気に倒れた際、シロクマは何の心の準備もなく、飼い主と離れ離れにならなければいけないのです。場合によっては、一生の別れになる可能性もあります。あれだけ可愛がっていたシロクマを、あなたは一人ぼっちにするおつもりですか? あなたの愛情は、その程度の代物だったのですか? ならば、今すぐシロクマを手放しなさい。心身共に守る気がないのであれば、そもそもペットを飼う資格などないのです。中途半端な覚悟では、シロクマを不幸にするだけですよ」



 パトリシア副班長の矛先が、わたくしからレオン班長に移りました。

 レオン班長は、何もおっしゃいません。ただ、厳めしいお顔で、ライオンさんの耳をぴくりぴくりと跳ねさせるだけです。



 そのまま黙り込んだかと思えば、徐に、動き出します。



 レオン班長が向かった先とは。




『……え?』




 なんと、先程わたくしが拘束されていた、椅子でした。




 レオン班長は、わたくしを抱えたまま、どっかりと腰を下ろします。




『え、あ、あの、レオン班長? 一体、どうしたのですか? いきなり、椅子に座るだなんて……』



 早く逃げなければ、大変なことが起こりますが。そんな気持ちで、レオン班長を見上げます。



 するとレオン班長は、明らかに引き攣ったお顔で、わたくしを見下ろしました。



「……シロ」

『は、はい、何でしょうか?』

「……少しだけ、我慢するんだぞ」



 そう言って、わたくしを抱く腕に、力を込めました。わたくしの体は、自ずとレオン班長の胴体に押し付けられます。

 いえ、この力強さは最早、押さえ付けられている、と言った方が正しいかもしれません。




 と、申しますか、レオン班長。




 少しだけ我慢するんだぞ、とは、一体何をわたくしに我慢させるおつもりなのですか?




 嫌な予感しかしないのですが。





『まさか、とは、思いますが……わたくしに、注射を受け入れろ、と……?』





 信じられない思いで、レオン班長を見つめます。

 レオン班長は、何もおっしゃいません。



 視界の外れで、アルジャーノンさんが着々と注射器へワクチンを注入しています。



 それでも、レオン班長は、何もおっしゃいません。




『レレレ、レオ、レオン班長っ。ほ、本気ですかっ? わたくし、嫌ですよっ。体に異物を差し込むだなんてっ。勿論、あちらの写真に写るシロクマのようにも、なりたくはありませんけれど……で、ですがっ。わたくしは、救助がくるまで、船内で過ごしますのでっ。決して島には上陸しませんのでっ。なので、は、離して下さいっ。わたくしはっ、大丈夫ですのでぇぇぇーっ!』



 びたびたと体をのたうち回らせ、どうにかレオン班長の腕から逃れようとします。けれど、びくともしません。逆に、両腕でしかと抱え直されてしまいました。



「落ち着け、シロ」

『これが落ち着いていられますかっ』

「大丈夫だ。痛いのは、一瞬だけだから」

『そんなの嘘ですっ! わたくしは知っているのですよっ! 打たれた後、アルコールを染み込ませた脱脂綿で患部をぐりぐりやられるのだとっ! ただでさえ傷付いた心へ、更なる追い打ちを掛けるのですよっ? 違う部類の痛みに襲われ、余計に辛いのですからねっ!』



 ギアーギアーッ! と一生懸命語るも、レオン班長はわたくしを宥めるように撫でるばかり。

 そうこうしている内に、アルジャーノンさんの準備が完了してしまったようです。中身の入った注射器を手に持ったまま、こちらを振り返りました。鋭く尖った針の先端から、ワクチンが少しだけ押し出されます。

 自ずとわたくしの毛は逆立ち、喉からも、ひぃ、と悲鳴が溢れました。




「……シロ」



 震えながら抵抗するわたくしの体を、大きな掌が優しく撫で擦ります。



「注射が嫌なのは、分かる。俺も嫌だ。だが、これをやらないと、もっと辛い目に合うかもしれない」



 レオン班長は、壁に貼られた病気のシロクマ達の写真を、ちらと見やります。 



「俺は、お前が病気になるのは嫌だ。苦しい思いをするのは嫌だ。だから、お前が嫌がろうと、ワクチン接種を受けさせる」



 それから、わたくしを見下ろしました。



「お前を守る為だ……悪いな」



 毛のない眉を、少しだけ垂らします。泣く子も黙る強面へ、ほんのりと申し訳なさそうな表情が浮かびました。わたくしを撫でる手付きも、どこか遠慮が見えます。




「……だが、安心しろ」




 レオン班長は、片方の口角だけを、持ち上げました。

 かと思えば、わたくしから、ゆっくりと左腕を離します。

 顔の高さまで掲げられた左腕は、勢い良く下ろされました。



 ドン、と落とされた場所は、椅子の肘掛けの上です。



 すかさずベルトが飛び出し、レオン班長の左腕を、拘束しました。





「刺される時は、一緒だ」





 わたくしは、驚きに耳を立ち上げます。反射的に、レオン班長を凝視しました。



 レオン班長は、笑っています。酷くぎこちない笑みでした。わたくしを抱く腕は小刻みに震え、ライオンさんの耳と尻尾は、怯えたように縮こまっています。




 それでも、レオン班長はわたくしから目を逸らしません。



 決意の漲る眼差しを、真っすぐと向けています。




『レ、レオン班長……っ!』



 わたくしの胸へ、感動が満ち溢れました。

 わたくしの為に、恐ろしさを押し殺してまで注射に立ち向かうだなんて……っ! なんて素敵な方なのでしょうっ。涙が勝手に込み上げてきますっ。




『ぐす、わ、分かりましたレオン班長っ。わたくしも、頑張ってワクチン接種を受けますっ。レオン班長がここまで男気を見せてくれたのですっ。わたくしだけ逃げるわけには参りませんっ』



 わたくしは、レオン班長の頼もしい胸筋に、しがみ付きました。依然体は震えますし、毛も逆立ちますが、構うものですか。レオン班長が一緒にいて下さるのです。どれだけ怖くとも、きっと乗り越えられる筈です。






 この日、わたくしとレオン班長の絆は、間違いなく一層固く、強いものとなりました。また、わたくしのレオン班長に対する想いも、より大きくなります。



 これ程素晴らしい飼い主に拾って頂け、わたくしは世界一幸せなシロクマです。一生レオン班長についていこうと、そう心に誓いました。






 ですが、それはそれとして、注射はすこぶる痛かったです。




 いくらレオン班長と一緒でも、もう二度とやりたくありません。



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