19‐9.救世主です



『うぅ、あ、ありがとうございます、レオン班長。助けにきて下さって、本当にっ、ありがどうごじゃりまずぅ……っ」



 あぁ、感動のあまり、また視界がぼやけてきます。

 わたくしは、頼もしい胸筋へお顔をうりうりと擦り付けました。軍服にわたくしの涙と鼻水と涎が付いてしまいましたが、レオン班長は何もおっしゃいません。ただただ、逞しい腕でわたくしをしかと抱き締めて下さるのみです。




「……ようやく現れましたね」




 ふと、パトリシア副班長の声が、耳を掠めました。



 はっとお顔を上げれば、パトリシア副班長は、なんと釣り竿を振り被っているではありませんか。



『あ、危ないですっ、レオン班長っ!』



 わたくしが叫ぶのと、釣り針が飛んできたのは、ほぼ同時でした。

 レオン班長は、髪の毛を靡かせながら、素早くこの場から飛び退きます。




「リッキー整備士。いつまで座っているのです。出番ですよ」

「はぁーい、分かりましたよぉー」



 リッキーさんは、首から『私は女性の尻を触った変態です』というプレートをぶら下げたまま、立ち上がりました。壁に嵌め込まれているコントロールパネルの元へ向かい、ちょちょいと弄ります。



 途端、天井から網が降ってきました。

 続けて床が抜け、壁が飛び出し、どこからともなく矢が放たれます。わたくし専用のアスレチックまでもが襲い掛かってきた時には、どうしようかと思いました。

 一体リッキーさんは、医務室にどれだけのカラクリを仕込んでいるのでしょうか。ボタン一つで作動するなんて、これからはおちおち寛いでもいられません。



 しかし、流石はレオン班長です。突拍子もない攻撃を、全て華麗に避けていきます。合間に飛んでくる釣り針や注射器も、危なげなく叩き落しました。最早無敵です。わたくし、思わず感動の声と眼差しを、レオン班長に送りました。



『す、凄いですレオン班長っ。この調子で逃げ切りましょうっ。ねっ、それがよろしいですよっ。出入り口はもう目の前ですものっ』



 声援に自ずと力が籠ります。レオン班長も、どうにか出口へ向かおうとしていました。

 けれど、そう簡単に逃がしてくれるパトリシア副班長ではございません。レオン班長が扉へ近付く度に釣り竿を振り被り、時にリッキーさんに横やりを入れさせ、時にアルジャーノンさんに立ち塞がらせ、医務室から去る隙を与えません。



 レオン班長は、苛立たしげに舌打ちをします。そんな姿に、わたくしは罪悪感を覚えました。

 レオン班長は、わたくしを抱いているせいで、片腕が塞がっています。動きも制限されています。わたくしがいなければ、もしかすれば、既に逃げ仰せていたかもしれません。



『申し訳ありません、レオン班長。わたくしが、足手まといなばかりに……』



 図らずとも、シロクマの耳がぺたんと伏せます。目線もどんどん下がっていきました。

 それでもレオン班長に、離せと、わたくしのことは捨て置けと、そう言って送り出すことが出来ません。我が身可愛さのあまり、レオン班長を頼ってしまうのです。

 わたくし、自分が思っている以上に、醜い女だったようです。危険を顧みず助けにきて下さったレオン班長を、利用するような真似をして……。




「っ、大丈夫だ、シロ」




 不意に、わたくしを抱える腕に、力が籠ります。




「必ず守ってやるからな……っ」




 レオン班長は、上半身を勢い良く反らせます。かと思えば床を蹴り、片手でバク転をしながら、足元に飛んできた釣り針を避けました。

 危なげなく着地するレオン班長に、わたくしの沈んだ心が、ふと持ち上がります。



『……レオン班長……』



 心強い言葉と腕の力に、わたくしの瞳は、潤みを帯びていきました。

 この不利な状況でも、わたくしを見捨てずにいて下さるだなんて……っ。



 レオン班長。あなたは最高の飼い主です。一生付いていきます。そんな気持ちを込めて、わたくしはしがみ付く足に、一層力を込めました。

 レオン班長も、しかとわたくしの体を支えつつ、怒涛の勢いで繰り出される攻撃を、次々にかわしていきます。




「……はぁ」




 不意に、どこからともなく、小さな溜め息が聞こえてきました。



「このままでは、埒があきませんね……」



 パトリシア副班長が、佇んでいます。重々しく呟いたかと思えば、構えていた釣り竿を、何故か、下ろしました。

 一体どうしたというのでしょうか。もしや、諦めてくれるのかしらと、期待と不安を胸に、わたくしはパトリシア副班長を見つめます。



「レオン班長」



 パトリシア副班長が、徐に片手を上げました。




 途端、あれ程苛烈だった攻撃が、一斉に止まります。




 レオン班長は、毛のない眉を顰めて、油断なくパトリシア副班長を睨みました。視界の端では、医務室の出口を捉えています。アルジャーノンさんが立ち塞がっている為、すぐには使えませんが、それでも、いつでも逃げられるよう、重心は下げたままです。



「確認ですが。何故私達がこのような手段を使ってまで、班員全員にワクチン接種をさせようとしているのか、理解していますか?」



 レオン班長は、何も答えません。ただ、ライオンさんの耳をぴくりと跳ねさせるのみです。



「この島には、どんな病原菌が潜んでいるのか、まだ分かっていません。安全も確認されておらず、また私達は遭難中です。何か起こったとしても、すぐには対処出来ない状態なのです。そんな中で、私達は、いえ、あなたと私は、特別遊撃班の班員を率いる者として、班員の無事を第一に考えなければなりません。なので、考えうる限りの対応を取らなければならないのです。それが、上に立つ者の責任というものです。違いますか?」



 パトリシア副班長は、淡々と語っていきます。



「私は、副班長として、未確認のウイルスに対抗すべく、早急にワクチンを接種する必要があると判断しました。何故なら、万が一誰かが感染し、班内で爆発的に広まってしまったら。下手をすれば、誰かしらの、もしくは全員の命が、危険に晒される可能性があります。それは、私やレオン班長、そこのシロクマも例外ではありません」



 わたくしを抱える腕が、不意に小さく反応しました。

 思わず見上げれば、レオン班長は毛のない眉を一層寄せて、眉間の皺を深めています。




「特にシロクマに関しては、一番警戒しなければならないと、私は考えています」




『え、わ、わたくし、ですか?』



 突如名指しされ、思わず耳を立ち上げます。



「こちらの島に何かしらの病原菌があった場合、最初に感染するのは、ほぼ間違いなくそのシロクマだと、私は思っています。また、体が未成熟なことから、治療に時間が掛かる可能性が高いです。そうするとどうなるか? 看病する側は勿論、その他の班員へ病原菌がうつるリスクが、大幅に上がるということです。例え周りにうつらなくとも、シロクマの病状が回復しない限り、島からの脱出は難しくなります。結果、私達はいつまで経っても本部へ帰れず、また感染のリスクと戦う羽目となるでしょう。それは、私も本意ではありません。だから、早めの対策を取るのです。分かりますね?」



 パトリシア副班長のおっしゃっていることは、至極正論です。子供のわたくしでも分かります。わたくしのせいで、皆さんにご迷惑を掛けてしまうかもしれないということも、分かりました。

 レオン班長も関心があるのか、パトリシア副班長の言葉に耳を傾けています。時折わたくしを見ては、考えるように眉間へ皺を寄せました。



『で、ですが、注射は、ちょっと……』



 せめて飲み薬や塗り薬ならば、わたくしも頑張れるのですが、そういったものはないのでしょうか? 恐らく、ないのでしょうね。もしあるならば、アルジャーノンさんも最初からそのような形状のお薬を用意している筈です。こちらには、注射嫌いな班員さんが山程いるのですから。




「因みに」



 と、パトリシア副班長は、またしても片手を上げます。そちらを合図に、リッキーさんが、医務室の壁に嵌め込まれたコントロールパネルを、ちょちょいと弄りました。



 すると、壁の一部が、突如ひっくり返ります。




「今考えうる限りの病原菌と、それに伴う症状を、分かりやすく写真付きで纏めておきました。どうぞご覧下さい」




 そう言って、現れた写真とその解説を、手で差しました。




『ひぃ……っ!』



 わたくしは、息を飲みます。レオン班長も、驚いたように体を強張らせました。




 写真には、病気を患っているであろう痛々しい姿の熊が、何匹も写っています。




 しかもご丁寧に、全員シロクマです。



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