19‐8.拘束されました



『ふぬっ、このっ、てやっ、ていやっ』



 どうにか抜け出せないかと、前へ後ろへ体を引っ張ります。ベルトを叩いてみたり、頭とお尻を振ってもみました。

 しかし、ベルトから逃れることは出来ません。ただただ、すぐ傍でわたくしのお尻を凝視していたアルジャーノンさんを、喜ばせるだけでした。



『――レオン班長に告げます。ただいまシロクマを捕獲しました。これからワクチン接種の準備に入りたいと思います』



 そんな全体放送が流れてきます。いよいよ時間がありません。

 わたくしは、一層暴れました。けれど、やはり体を拘束するベルトは、うんともすんとも動きません。




「うぅ……シロォ……」



 壁際から、既にワクチン接種を終えた班員さん達の声が聞こえます。互いを支えるように身を寄せ合いつつ、わたくしを見つめています。その目には、涙が浮かんでいました。己が受けた仕打ちを思い出したのか、それともわたくしに訪れる未来を想像したのか、悲壮と絶望、そして諦念に満ちた眼差しをしています。



「つ、強く生きるんだぞシロッ。俺達は、お前の味方だからなっ」

「泣いたって、い、いいんだからなぁシロ。全然、恥ずかしく、ないんだからなぁ」

「大丈夫だよシロ。あたいらが、付いてるからね……っ」



 体を震わせながら、それでもわたくしから目を逸らさず、懸命に鼓舞して下さいます。ありがたい反面、応援よりも救いの手が欲しいというのが本音です。しかし、わたくしも医官助手という言い訳の元、皆さんが辛かった時に助けなかったのですからね。なのに自分の時は助けろなどと、図々しくてとても言えません。



 ですので、わたくしはパトリシア副班長に、必死で助けと許しを請います。同時に、どうにか自力で脱出出来ないかも、懸命に試みました。




『――レオン班長に告げます。シロクマのワクチン接種が、刻一刻と迫っています。聞こえますか? このシロクマの凄まじい悲鳴が。ベルトで体を固定され、身動きの取れない状態となっています。己の身に何が起こるのか、察しているのでしょうね。切実さが極まってきています』



 わたくしの鳴き声の合間に、パトリシア副班長の全体放送が聞こえました。



『――このままでは、シロクマは痛い思いをしなくてはなりません。いいのですか、レオン班長? ここで見捨てようものならば、シロクマは今後二度と、あなたに懐かないかもしれませんよ。肝心な時に助けにきてくれない飼い主など、慕う必要もありませんからね』



 と、不意に、パトリシア副班長は、マイクを口から離します。




「……まぁ、例え助けにきた所で、シロクマが痛い思いをするのは変わらないのですけれど」




『え……っ』



 な、何ですって……っ!?




『ちょ、ちょっとパトリシア副班長っ! 一体どういうことですかっ! まさか、レオン班長がこようがこまいが、わたくしは注射をしなければならないのですかっ!? そんな、話が違いますよっ! レオン班長をおびき寄せる為に、わたくしへワクチンを打とうとしているのですよねっ? ならば、レオン班長が現れたのならば、わたくしはワクチン接種をしなくとも良いのですよねっ? そうでなければ可笑しいですよっ! ねぇっ!』



 ギアァーッ! と激しく抗議しますが、パトリシア副班長は一切気にされていません。ただただ喚くわたくしの鳴き声を、全体放送で流すだけです。




「……この位で良いでしょう」



 パトリシア副班長は、徐に一歩後ろへ下がりました。

 そうして。



「アルジャーノン医官、やって下さい」



 アルジャーノンさんへ、顎をしゃくってみせます。

 そちらを合図に、アルジャーノンさんが近付いてきました。




 これ見よがしに、わたくしへ注射器を見せ付けつつ。




『ぎょわぁぁぁぁぁーっ! こ、こないで下さいアルジャーノンさんっ! 何故手に注射器を持っているのですかっ! 危ないから今すぐ置いてきて下さいっ! 今すぐですよっ!』



 しかし、アルジャーノンさんの歩みは止まりません。



 恐怖と緊張から、わたくしの息は自ずと荒くなってきました。震えも激しさを増していきます。



『い、いやぁぁぁっ! 嫌ですアルジャーノンさんっ! 止めて下さいっ! わたくしにワクチンは必要ありませんっ! なんせ、船を降りるつもりは一切ないのですからねっ! パトリシア副班長と無菌室で過ごす予定ですのでっ、何かしらのウイルスに感染することもございませんっ! 本当ですよっ! どうか信じて下さいっ!』



 わたくしは、必死で主張します。図らずとも腰は引け、わたくしを捕まえているベルトが、がっちょんがっちょんと揺れ動きました。体にも食い込み、痛みが走ります。




 何故このような目に合わなければならないのでしょう。悲しみのあまり、涙が込み上げてきました。

 いえ、頭では分かっているのです。アルジャーノンさんが、なにも意地悪でわたくしに注射をしようとしているわけではないと。リッキーさんとて、班員全員の安全を考えているからこそ、速やかにワクチン接種が出来るよう協力しているのですよね。

 パトリシア副班長に関しては、どちらかというと潔癖症故の病原菌対策な気がしなくもありませんが、それでも、巡り巡って特別遊撃班の為となるのですから、良いということにしておきましょう。わたくしは、分かっているのです。




 それでも、わたくし、まだ子供ですので。




 大人な皆さんが逃げ惑い、泣き叫ぶようなものを、どうして受け入れることが出来ましょうか。




『ふぐぅ……っ! レ、レオン班長ぉっ! レオン班長ぉぉぉーっ! 助けてぐだざぁぁぁーいっ! うわぁぁぁぁぁーんっ! レボンばんぢょおぉぉぉぉぉーっ!』



 恥も外聞もなく、叫びました。涙と鼻水と涎が顔面から垂れ流れます。

 淑女として非常に頂けない形相をしているでしょうが、もう気にする余裕などありません。逃走中のレオン班長を死地へ招く真似をしてはいけないと、考える余裕もありません。

 ただただ悲しくて、苦しくて、縋るように飼い主の名前を呼び続けました。



 注射器が、じりじりと迫っています。

 アルジャーノンさんが、わたくしの首根っこを掴みました。

 注射器のお尻を押して、中身を少しだけ零れさせます。



 向けられた先端に、もう駄目だ、と固く目を閉じました。涙と鼻水と涎を垂らしたまま、歯も力一杯食い縛ります。

 そうして、きたる痛みに身を強張らせていると。





「っ、シロォッ!」





 激しい破壊音と衝撃が、医務室を揺らします。




 煙と埃も舞い上がっているのか、わたくしの鼻と肌を、ごわごわとした嫌な感覚が刺激しました。




 かと思えば、すぐ傍から、バキッ、と何かが割れる音が上がります。



 ほぼ同時に、勢い良く体を引っ張られました。



 温かく、適度な弾力のあるものにぶつかり、そのまま包み込まれます。




 嗅ぎ慣れた匂いと感触に、わたくしは、恐る恐る、瞼をこじ開けました。




 目に飛び込んできたのは、人でも一人殺してきたのかと疑いたくなるような、強面です。





『……レ……レボン、ばんぢょお……っ!』





 わたくしの声に、ライオンさんの耳がぴくりと揺れます。わたくしを抱える腕も、返事をするかのように力が籠りました。

 押し付けられる逞しい胸筋と優しい温もりに、喉がひくりと震えます。

 お顔も、勝手に歪みました。



『ぶ、ぶえぇぇぇぇーっ! レボンばんぢょおっ! レボンばんぢょおぉぉぉーっ!』



 四肢に力を込めて、わたくしはレオン班長にひしとしがみ付きます。もう二度と離すものかと、軍服に爪も立てました。



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