19‐6.抵抗します



 ……え? シロクマの、ワクチン接種、ですか……?



 この場にいるシロクマと言ったら……。




『わ……わたくしのこと、でしょうか……?』




 信じられない気持ちで、パトリシア副班長を仰ぎ見ます。



 パトリシア副班長からの返事は、ありません。



 代わりに、わたくしの首根っこが、がっちりと鷲掴まれます。



 そのまま、拘束具と化した椅子へ、連れていかれました。




『ちょ、や、止めて下さいパトリシア副班長っ。何故わたくしがワクチンを打たれなければならないのですかっ。納得する説明をして下さいっ。ねぇっ、ちょっとっ。聞いてますっ?』



 しかし、パトリシア副班長は止まりません。抵抗するわたくしを一瞥し、


「大人しくしなさい」


 と椅子の座面上へ落としました。



『ひゃあっ』



 お尻から着地してしまい、鈍い痛みが走ります。けれど、構っている暇はございません。ここで大人しく座っていようものなら、もっと痛い目に合うでしょう。これまで散々泣き喚く班員さん達を見てきたのです。同じてつは踏みたくありません。



 兎に角、逃げなければ。

 その一心で、わたくしは椅子から飛び降りました。



『ほいさぁっ』



 ころころと転がり、素早く起き上がります。体勢を整えるや、わたくしは走り出しました。目指すは、壁際に設置されたわたくし専用アスレチックです。

 本当は医務室の外へ向かいたい所ですが、これまで誰一人脱走に成功していないことと、出入り口付近には大量の罠が仕掛けられていることから、諦めます。代わりに、アスレチックの一つであるトンネルの中へ隠れるのです。子シロクマサイズですので、一度潜り込んでしまえば、どなたも追い掛けてくることは出来ません。腕を伸ばしても届かない程の長さもありますから、きっと逃げ切れる筈です。

 



 しかし、そんなわたくしの進路を塞ぐ、まっピンクな男性が一人。




『ちょ、ちょっとリッキーさんっ。退いて下さいっ。わたくし、今はリッキーさんと遊んでいる暇などないのですっ』

「ごめんねー、シロちゃん。俺も別に、意地悪したいわけじゃないんだけどさぁ。でもほら、これもシロちゃんの為だからぁ」



 何がわたくしの為ですか。本当にわたくしの為を思うのなら、今すぐパトリシア副班長の魔の手から助けて下さいよ。全くもうっ。



『わたくしの邪魔をしないで下さいっ。ほらっ、あちらにアルジャーノンさんがいますよっ。わたくしの代わりにお相手をして貰って下さいっ。ほらほらっ』

「いいですよ、リッキー整備士。その調子で、もっとシロクマを鳴かせて下さい」

「了解ー。逃がさないよー、シロちゃーん」

『ちょっ、何故こちらへくるのですかリッキーさんっ。わたくしは、退いてと言っているのですっ。近付いて欲しいなどと、一言も言ってはおりませんよっ』



 ギアーギアーと訴えながら、わたくしはリッキーさんをかわそうと、右へ左へ走り回ります。しかしその度に、リッキーさんもわたくしの進路へ割り込んできて、中々追い抜けません。



 ぐぬぬと歯噛みするわたくしを、リッキーさんは余裕の表情で見下ろします。


「ごめんねー」


 と謝る位ならば、最初からしないで下さい。




『――レオン班長に告げます。聞こえますか? シロクマの悲痛な鳴き声が。あなたのせいで、大変な目に合っていますよ。全身ピンクの成人男性に弄ばれながら、徐々に追い詰められています』

「え、ちょっと待ってパティちゃん。全身ピンクの成人男性って、もしかして俺のこと? しかも、弄ばれながら追い詰められてるとかさ。間違ってないけど、なんか表現に悪意ない?」

『あぁもうっ。余所見をする位ならば、さっさとパトリシア副班長の元へ向かえば良いではありませんかっ。わたくしのことは放っておいて下さって結構ですよっ』



 そもそもわたくし、とっても迷惑しているのですからねっ。リッキーさんが通せんぼをするから、いつまで経ってもトンネル内に隠れられないではありませんかっ。



『かくなる上は……っ』



 わたくしは、猛然と走り出しました。右からリッキーさんを抜こうと、右側へ勢い良く向かいます。




 と、見せ掛け、リッキーさんの足の間へ、飛び込みました。




『えいやぁぁぁぁぁっ』



 股の下を、ころころと転がり抜けます。まっピンクのつなぎを通りすぎた瞬間、すかさず体勢を整え、床を蹴りました。リッキーさんの驚く声を背に、トンネル目掛けて一生懸命駆けていきます。




「あーっ、シロちゃん待って待ってっ」



 背後から、追い掛けてくる足音が聞こえました。リッキーさんの声も迫ってきます。

 わたくしは、捕まるものかと、更に足を速めました。己の出せる全速力で、目の前のトンネルに潜ります。そうして、匍匐ほふく前進でトンネルの奥を目指しました。



「ちょ、本当待ってってっ。行かないでシロちゃーんっ」



 リッキーさんの声が、トンネル内に響いた――と、思った、次の瞬間。




 わたくしの下半身が、突如上から押さえ付けられました。




 前へ進まぬ体と、お尻を包み込む温もりに、一体何事かと、振り返ります。



 視界に映ったのは、わたくしのお尻を鷲掴む掌と、まっピンクな色合い、そして、右腕を伸ばした体勢でトンネルを覗き込むリッキーさんでした。




 ……成程。

 つまりわたくしは、リッキーさんにお尻を掴まれているから、動けなくなってしまったと、そういうことですか……。






『…………きぃやあぁぁぁぁぁぁーっ! な、何をするのですかっ! リッキーさんのエッチッ! スケベッ! 変態っ! いやぁぁぁぁぁーっ!』






 悲鳴を上げながら、わたくしは後ろ蹴りの連打を、リッキーさんの腕へ叩き込んでやります。えぇ、もう遠慮の欠片もない力で、蹴りまくってやりましたとも。




「うわっ、ご、ごめんシロちゃんっ」



 慌てた声と共に、お尻を覆っていた温もりが離れます。途端、わたくしは全力で這いずりました。うのていで、トンネルの中ほどまでやってきます。

 こちらまでくれば、いくら腕を伸ばそうとも、わたくしには届きません。己の身を守るが如く小さく蹲り、わたくしはようやく安堵の息を吐きました。けれど、心の中は怒りでいっぱいです。寧ろ、安全を手に入れた反動から、理不尽な仕打ちへの腹立たしさが後から後から湧き上がってきます。



 わたくしは、むっとお口を曲げながら、背後を見やりました。



 リッキーさんと、目が合います。



「あ、シ、シロちゃん、その、ごめんね? わざとじゃないんだよ。俺は、ハーネスを掴もうとしたんだ。でも、ちょっと目測を誤ったというか、ちょっと手が届かなかったというか、け、決してっ、シロちゃんのお尻を触ろうとしたわけじゃないんだっ。あれは所謂、ラッキースケベという奴で」

『何がラッキーですかっ! 乙女のお尻を鷲掴んでおいてラッキーなどと、片腹痛いですよっ!』



 全く、なんて失礼な方なのでしょう。わたくしはシロクマと言えど、立派な淑女ですよ? そのお尻を、成人した男性が触るだなんて。ただの痴漢ではありませんか。

 矜持なき上級者など、変態と同じです。最低ですっ。



 ギアッ! と一喝すると、リッキーさんは、懸命にわたくしへ許しを請います。

 その会話で、状況を察したのでしょう。アルジャーノンさんが、珍しく険しいお顔で、リッキーさんの胸倉を掴みます。お前、まさか本当に触ったのか? レディのお尻を? と言わんばかりに、リッキーさんを睨みました。

 流石はアルジャーノンさんです。イエス熊ケツノータッチの精神で、決してわたくしのお尻に触れない紳士なだけあります。上級者の鑑です。




「あ、えっと、その、一旦落ち着こうよ、アルノン。ね? 俺も、ちょっと一回頭を冷やさないといけないというか、シロちゃんへの贖罪をしなければならないというか」



 リッキーさんの胸倉を掴む手に、力が籠ります。心なしか、リッキーさんのかかとが、じんわりと浮き上がりました。



「待って待ってアルノン。確かに俺は、シロちゃんのお尻を触ってしまいました。それは認めるよ。でもね? 別に狙ってやったわけじゃないんだ。ただの事故だったんだよ。本当だよ」

“――つまり、下心はなかったと?”

「当然じゃないかっ。俺はね、アルノン。確かに、ちょっとばかしあれな時もあるかもしれないけど、でもだからと言って、女の子のお尻を無断で鷲掴んどいて、何も思わないような男じゃあないんだよっ」

“――そうか。因みに、触った感想は?”

「え? そりゃあ想像以上に柔らかくて触り心地最高で正直俺ってラッキーだなーって思ったけどぐえぇ」



 アルジャーノンさんは、間髪入れずにリッキーさんを吊り上げます。完全に床から離れた足が、ばたばたと苦しげにもがきました。けれど、アルジャーノンさんは下ろしません。眉間に皺を寄せ、荒ぶる竜神の如きオーラを纏いながら、狼藉者を成敗して下さいます。



 いいですよ、アルジャーノンさん。もっとやってしまって下さい。



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