16‐2.本格的に泳ぎます



「今日はライフジャケットじゃなく、普段使ってるハーネスを付ける。リードもだ。いつもと勝手が違って、最初はやりにくいだろう。だがこれは、万が一お前が海へ投げ出された時に、してるであろう格好だ。その状態で泳げなきゃ意味がねぇ。だから、我慢しろよ」



 わたくしの体を、レオン班長は、労わるように撫でて下さいました。



「ライフジャケットを着けない代わりに、今日はいつもより水位を下げてる。俺も傍にいる。アルジャーノンも待機してるし、他の奴らだっている。溺れないようちゃんと見てるから、安心して練習に励め。分かったか?」



 きゅっと眉間に皺を寄せ、わたくしを見下ろしています。その表情は、相変わらず厳めしいですが、どこか心配の色を帯びていました。周りの皆さんも、わたくしを案じているような眼差しです。




 わたくしは、辺りを見渡してから、にこりと微笑みました。



『はい、分かりました、レオン班長。大丈夫です。わたくし、全く不安になど思っておりませんよ。皆さんのことを信頼していますとも』



 それに、と、わたくしは、やや大げさに肩を竦めてみせます。



『わたくしは、子供とはいえシロクマですから。レオン班長達が拍子抜けする位、あっという間に水泳を習得してみせます。寧ろ、レオン班長達のやることなど、ないかもしれませんね?』



 そう言って、レオン班長を見上げます。



『ですから、大丈夫ですよ、レオン班長。そのようなお顔をされなくとも、大丈夫です』



 レオン班長を励ますように、ギアーと前足で撫でて差し上げました。

 レオン班長は、一瞬目を丸くすると、口元を緩めます。そうして、わたくしを撫で返し、水槽の中へ入っていきました。いつものように、わたくしを後ろ足から、ゆっくりと海水へ付けていきます。




『む、成程。確かに、ライフジャケットを着けていた時とは、感覚が違いますね』



 レオン班長に下から支えて貰いつつ、海水に浸かりました。感じる浮力が、普段の半分もありません。加えて、ハーネスが海水を吸って、動きづらさを覚えます。



「どうだ、シロ。いけそうな?」

『んー、もう少しお待ち頂けますか?』



 違和感が拭えるよう、また、これまで培った水泳訓練との差を埋めるべく、わたくしは前足と後ろ足を動かし、


『えっさ、ほいさ』


 と海水をかいていきます。

 む、心なしか、水の抵抗も強くなった気がしますね。浮力が小さくなった分も考えると、これまでよりも力を込めて足を動かさないといけなさそうです。




『ふむふむ、成程。何となくですが、感覚を掴んできましたよ』



 わたくしは、一旦足の動きを止めました。レオン班長の手の上に乗りながら、息を整えます。思っていた以上に体力を消耗しますね。ですが、やって出来なくはなさそうです。



 よし、とわたくしは心の中で気合いを入れ、レオン班長を見上げました。



『お待たせしました、レオン班長。準備は出来ましたので、いつ手を放して頂いてもよろしいですよ』



 ギアーと決意表明をすれば、レオン班長は、毛のない眉へ一層力を入れました。わたくしごと、ご自分の腕を体から遠ざけます。



「じゃあ、行くぞ、シロ」



 皆さんの心配そうな視線が、わたくしへと集まりました。はらはらとした空気も感じます。

 皆さん、そのように不安がらなくとも大丈夫ですよ。この七日間、皆さんと共に一生懸命練習してきましたもの。出来て当たり前と言っても過言ではありません。



 わたくしは、皆さんを少しでも安心させようと、極々普段通りの態度で水泳に臨みます。余計な力を抜き、いつもと同じように、前足と後ろ足を動かせば良いのです。妙な気負いは、逆に体の自由を奪ってしまいます。楽しく遊んできた時のことを思い出しつつ、わたくしは、前足を構えました。




 では、いざ、参りますっ。








『えっさがぼがぼがぼがぼがぼがぼがぼ』








「っ、シロッ!」

「シロちゃぁんっ!」




 勢い良く引っ張られたかと思えば、レオン班長が素早くわたくしを抱き上げました。咳込むわたくしの背中を、何度も擦ってくれます。



「大丈夫か、シロ?」

『げほ、だ、大丈夫です。驚かせてしまって、申し訳ありません。わたくし、少々、呼吸のタイミングを、間違えてしまいまして』



 息を吸い込んでから泳ぐ筈が、誤って吐き切った所で海水の中へ飛び込んでしまいました。うっかりです。お陰で酸素が足りず、もがく羽目となり、結果溺れてしまったと、そういうことです。



『で、ですが、次は大丈夫です。タイミングを間違えることなく、きちんと息を吸えるだけ吸ってから泳ぎ始めますとも』



 お顔を前足でくしくしと拭い、わたくしはレオン班長を再度仰ぎ見ました。心配そうな眼差しに、笑い掛けます。



『さぁ、レオン班長。やりますよ。わたくしが華麗に泳ぐ姿を、見守っていて下さいね』



 ですからどうかご安心を、という思いを込めて、レオン班長の肩を前足で撫でます。それから身を翻し、もう一度飛び込む体勢へと入りました。




「シロ……」



 レオン班長の不安げな視線を、後頭部に感じます。ですが、わたくしの思いを汲み取って下さったのでしょう。わたくしが泳ぎやすいよう、また下から支えて下さいます。



「シロちゃん、頑張って。次はきっと大丈夫だよっ」

“焦らず、落ち着いてやるんだ。お前なら出来るぞ”



 ありがとうございます、皆さん。これ程心強い応援はありません。期待に応えられるよう、精一杯やらせて頂きます。



 わたくしは、レオン班長の両手の上に腹ばいとなりながら、静かに息を吐きました。体の中にある空気を全て出し切ってから、大きく吸い込みます。



 お腹は膨れ上がり、少々後ろへ反り返りました。これ以上入らない所まで息を吸ったら、わたくしはお口を閉じます。すかさず前足と後ろ足を構え、水面を見据えました。



 それでは、今度こそ、参りますっ。








『ほいさごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼごぼ』








「っ、シロォッ!」

「シロちゃぁぁぁーんっ!」




 凄い速さで引き寄せられたかと思えば、体へ酸素が飛び込んできます。慣れ親しんだ温もりもすぐ傍にあったので、わたくしは咄嗟にしがみ付きました。



『ぶはぁっ、げっほげっほっ、ぐぅ……っ。お、お鼻が、ツーンとします……っ!』



 独特の痛みと不快感に、涙が勝手に込み上げてきました。レオン班長の腕に四肢を絡ませながら、わたくしは必死で呼吸を繰り返します。お陰で、お顔に滴る海水を、拭う余裕もありません。



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