16‐1.水泳の訓練です
デッキの片隅に、リッキーさんが大きな水槽を設置しています。
お魚さんでも飼育するおつもりなのかしら、と思っていたのですが、どうやらこちらの水槽は、わたくしが使うようです。
「はい、かーんせーい」
底を固定し終えると、リッキーさんは大きく伸び上がりました。綺麗に白く脱色された髪を揺らしつつ、レオン班長を振り返ります。
「後はここに海水を入れれば、いつでも泳ぐ練習出来るよー」
そうなのです。
わたくし、本日より、水泳の訓練を始めることになりました。
と申しますのも、シロクマは本来、母親から泳ぎ方を習うものなのです。しかしわたくしは、母と共に暮らしておりません。加えて、常時船か陸の上におりますので、これまで泳ぐ機会がありませんでした。水と触れ合う経験も、体を洗って頂く際に使われるシャワー程度です。
このままでは、万が一わたくしが船の外へ放り出された際、溺れてしまうのではないか。レオン班長は、そう心配されたようです。
世の中には絶対などありません。いくらデッキに出る時はハーネスとリードを付けていようと、何かの拍子に海へ落ちる可能性は、ゼロではないのです。もしもの時に備え、わたくしが自力で浮き続けていられるようになるべく、こうして練習することとなった、というわけです。
「取り敢えず、七分目位まで海水入れまーす」
リッキーさんが水を溜めて下さる間、わたくしは、アルジャーノンさんに診察をして貰いました。体調は悪くないか、心音や心拍数、皮膚などに異常はないか、その他不審な点はないかなど、丁寧に診断して頂きます。
“特に問題はなさそうだ”
聴診器を外し、アルジャーノンさんは頷きました。
アルジャーノンさんは、わたくしにもしものことがあった時の為に、水泳訓練中は水槽の傍で待機していて下さるそうです。
他の班員の皆さんも、周りに集まっています。異常事態の際はすぐに助けて下さるとのことですので、一層安心して水泳に取り組めますね。
しかし。
わたくし、どうしても一つ気になることがございます。
何故どなたも、リッキーさんのお顔の落書きについて、触れないのでしょうか?
幼く見える顔立ちに、太く繋がった眉毛と、お口をぐるりと取り囲むお髭が描かれています。明らかに不自然ですのに、指摘する声は一切ありません。
因みに、アルジャーノンさんのお顔にも、落書きが施されていました。
両頬にはぐるぐると渦巻きが、額には大きくヤモリという文字が、書き込まれています。
お二人共、何故そのような姿となったのでしょう。そして何故皆さんは、平然とされているのでしょう。
もしや先日の朝、わたくしが目を覚ましたら、レオン班長のお顔に落書きが施されていた一件と、何か関係があるのでしょうか。
あの時はとても驚きました。なんせ、レオン班長の瞼の上に、目が描かれていたのですもの。鼻の下には、垂れ流れる鼻水も描き込まれており、本当に何事かと思いました。夜な夜なお顔に落書きをする船幽霊さんでも出没したのかしら、とそれはもう
しかも、レオン班長がいくら洗っても、全く落ちないのですよ? それ程までの怨念が込められているのかと、わたくし、しばらく夜は一人でお手洗いにいけませんでした。
「……よし」
レオン班長は、リッキーさんお手製のシロクマ用ライフジャケットをわたくしに装着すると、徐にわたくしを抱えました。そのまま、海水を溜めた水槽の中へ入っていきます。
水槽には、海水以外にも、ビーチボールやアヒルさんの玩具、バナナボートなどが入れられていました。カラフルで、なんだかとても楽しそうです。
わくわくと胸を躍らせつつ、すぐ傍で揺蕩うアヒルさんの玩具へ、前足を伸ばしていますと。
「シロ」
つと、レオン班長が、わたくしを見下ろしました。
「まずは、水に慣れる所から始める。少し冷たくて驚くかもしれねぇが、大丈夫だ。何があってもすぐに助けるから、今日は好きなように遊んでみろ。いいな」
優しく声を掛けながら、わたくしの背中を撫でて下さいます。それから、ゆっくりと、わたくしを後ろ足から、海水の中に入れていきました。
いつもはお湯で洗って頂いているので、冷たい海水に触れ合うのは初めてです。馴染みのない冷たさに、思わずぴゃっと後ろ足を持ち上げてしまいました。
「あ、ちょっとびっくりしちゃったかなー?」
“大丈夫だぞ、シロ。怖くないからな”
リッキーさんとアルジャーノンさんが、水槽の傍で声を掛けて下さいます。他の班員さん達も、
「シロ、落ち着けよー」
「水なんか、全然へっちゃらだからなぁ」
「あたいらがいるから、安心おしよ」
と元気付けて下さいました。
レオン班長も、何度もわたくしをぽんぽんと叩いては、宥めるように揺らしてくれます。そうして、わたくしの様子を窺いつつ、またゆっくりと、海水へ入れていきました。
時間を掛けて頂いたからか、大分慣れてきました。ライフジャケットのお陰で体は勝手に浮き、またレオン班長が下から支えて下さっているので、思いの外楽しいかもしれません。
「……平気そうだな」
「だねー。じゃあ次は、軽ーく動いてみる?」
「あぁ」
レオン班長は、ライフジャケットの背中部分に付いた取っ手を、右手で掴みました。わたくしを宙づりにするような形で抱えると、空いている左手で、徐にわたくしの前足を掴みます。
「シロ、いいか。泳ぐ時は、こうやって足を動かすんだ」
と、前足を傷めないよう、丁寧に前後させます。続いて後ろ足も、同じように動かしてみせました。成程、このように足を使えば、泳ぐことが出来るのですね。
試しに、自力で海水をかいてみました。途端、体が勝手に前へと進んでいきます。
「おー、いいよーシロちゃん。その調子だよー」
“シロ、上手いぞ。しっかり泳げているな”
見守っていた皆さんが、口々に褒めて下さいます。そんな大げさですよ、と思う反面、お口が緩んでいくのを止められません。油断すると、笑い声も零れてしまいそうです。
しかし、こうやってみると、水泳も案外簡単ですね。やはりシロクマの本能というか、泳ぎのセンスのようなものが、生まれつき備わっているのでしょう。これならば、あっという間に泳ぎをマスターしてしまうかもしれません。
そうしたら、次は実際に海へ入って泳いでみたいですね。万が一の予行練習という意味もありますが、単純にレオン班長達と海で遊んでみたいです。
一緒に波乗りなどをしたら、さぞ楽しいでしょうね。そんな日を夢見ながら、レオン班長と楽しく水遊びに興じました。
訓練二日目以降も、水槽へ溜めた海水に入っては、手の空いている特別遊撃班の班員さんに見守られつつ、玩具のアヒルさんを追い掛けたり、バナナボートで揺蕩ったりと、これでもかと水遊びを堪能します。
そうして、リッキーさんとアルジャーノンさんのお顔の落書きも綺麗に消えた、七日目。
「シロ」
レオン班長は、水槽の前でわたくしを抱き上げます。
「今日からは、本格的に泳ぎの練習に入る」
わたくしのお顔を見つめ、様子を窺っているようです。
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