5‐2.不思議な恰好の副班長さんです
「……一体、何をされているのですか」
くぐもった女性の声が、大騒ぎの合間から聞こえてきました。
途端、部屋の中は静かになります。
ガオーンガオーンという掃除機の音だけが、響いています。
「レオン班長。先程の全体放送も合わせて、状況の説明を」
冷静な態度と淡々とした口調に、わたくしの背筋は、何故かぴんと伸びてしまいます。
恐らく、他の方もわたくしと同じなのでしょう。あれ程てんやわんやしていたにも関わらず、今は大人しくされています。
「緊急事態だ、パトリシア」
「その緊急事態の詳細を、私は聞いているのですが」
「シロが、ベッドと壁の隙間に嵌った。自力での脱出は不可能。俺も自分だけじゃあ救出出来なかった。だから応援を呼んだ」
「……それで? 私がくるまで、あなた方は一体何をされていたのですか?」
「油待ちだ」
「油?」
「油を塗って滑りを良くして、シロを引っ張り出す」
すると、数拍の間を置いてから、重々しい溜め息が落とされました。
分かります。わたくしも全く同じ気持ちです。
「……何故、油などという非効率的な手段を選んだのか、私には理解出来ませんが……一応、状況は把握しました」
頭が痛い、とばかりにもう一つ息を吐くと、女性――パトリシア副班長は、この場にいる全員へ、ベッドの傍から退くよう指示します。
いくつもの足音が遠ざかり、反対に、パトリシア副班長のものであろう足音は、近付いてきます。ガオーンガオーンという掃除機の音も、大きくなりました。
かと思えば、わたくしのお尻へ、何かが押し当てられます。
そして、物凄い強さで、引っ張られました。
『ひゃあぁぁぁぁぁーっ! な、何ですかっ! ちょ、止めて下さい、パトリシア副班長っ! わたくしのお尻を、掃除機で吸わないで下さいっ! 痛いではありませんかっ!』
「抜けませんね。もう少し出力を上げましょうか」
『ちょ、待、いやあぁぁぁぁぁぁぁーっ!』
ズゴゴゴーと轟音を立て、わたくしのお尻は、パトリシア副班長愛用のコードレス掃除機に、勢い良く吸い込まれていきます。
お尻だけでなく、背中から後ろ足に掛けての毛や皮膚も、強制的にダバババーと一か所へ集められていきました。何とも言えぬ感覚に、わたくしの口から、これまで出したことのない声が飛び出ます。
「おい、パトリシア。止めろ。シロが嫌がってるだろうが」
「ですが、これが一番効率的です。多少の痛みはあれど、怪我をする程ではありません。問題ないでしょう」
「だが」
「不満があるならば、これしきのことで緊急招集など掛けないで下さい。たかがシロクマ一匹の為に、何故業務を停止しなければならないのですか」
「たかがじゃねぇ。シロは大事なうちの班員だ」
「ならば、大事な班員一匹の為に、ここまで大げさに騒ぐ必要はありません。我が特別遊撃班は、よく言えば少数気鋭、悪く言えば万年人員不足なのです。加えて、一点特化型の人間ばかりですので、少しでも業務が滞れば、たちまち立ち行かなくなってしまいます。レオン班長は我が班の長なのですから、その辺りの認識は、当然ありますよね?」
「ぬ……」
「そもそも、今回の件は、リッキー整備士にベッドの金具を外させれば事足りたでしょう。これだけの人数を集める必要も、あまつさえ油を撒く必要も、全くありません。油だってただではないのですよ。こんなくだらないことの為に使うなど、舐めているのですか? 万が一使っていたとしたら、経費では落とさせませんからね。自腹でどうにかして下さい」
吸引音とわたくしの悲鳴の合間に、パトリシア副班長の正論が聞こえてきます。レオン班長は、最早何も言い返せません。
どうやら油塗れは、無事回避したようです。本当に良かったです。後は、このお尻を吸われるのをどうにかして頂けたら完璧です。
『パトリシア副班長っ、パトリシア副班長ぉっ! お願いですっ。どうか止めて下さいっ! わたくしこのままでは、お尻が引っ張られすぎてたるんたるんになってしまいますっ! まだピチピチの子熊ですのに、そんなのってないではありませんかっ!』
「まだ出てきませんか。仕方ありません。出力を最大にしましょう」
『えぇっ! う、嘘でしょうっ! これで最大ではなかったとかぎょえぇぇぇぇぇぇぇぇーっ!』
最大出力が、わたくしのお尻を襲います。
もうどうなっているのか分かりません。
反射的に後ろ足で掃除機を蹴りますが、子シロクマの攻撃など、屁でもないようです。逆に吸われて、関節を変な方向に曲げられました。
痛みのあまり、わたくし思わず、乙女らしからぬ声で叫んでしまいました。もう掃除機の最大出力に負けぬ雄叫びです。
はしたないと、普段のわたくしならば己を戒めていたことでしょう。ですが今は、そのような余裕などございません。
ただただ、早く終わって欲しい。その一心で、ギアァァァァァァーッ! とありったけの声を上げます。
そうしましたら、唐突に視界が開けました。
体も、後ろへ勢い良く吹っ飛びます。
くるくると辺りの景色が回ったかと思えば、わたくしは毛足の長いカーペットへ、顔面から突っ込みました。
襲いくる鈍痛に、しばしその場に蹲ります。
「シロ……ッ!」
呻くわたくしを、どなたかが優しく抱き抱えてくれました。
見れば、レオン班長が、眉毛のない強面を、それはそれは心配そうに歪めて、わたくしを見下ろしています。
「大丈夫か? 怪我はないか?」
わたくしの体を引っ繰り返しては、隅々まで確認して下さいます。その手付きは非常に繊細で、これっぽっちもわたくしに負担は掛かりません。
レオン班長の顔と温もりに、無事生還したのだ、という実感が、じわりじわりと湧いてきます。
それに伴い、目頭からも、じわりじわりと、涙が込み上げてきました。
「シロ……」
毛のない眉を痛ましげに寄せるレオン班長は、労わるように、わたくしの頭を撫でて下さいます。いつもと同じ感触に、安心感が半端ありません。
わたくし、己の感情が堪え切れず、思わず目の前の立派な胸筋に飛び込みました。
『レ、レオン班長ぉぉぉーっ! うわぁぁぁーんっ!』
しがみ付くわたくしを、レオン班長はしかと受け止めてくれました。それだけでなく、力強く抱き締め返してもくれます。
「よしよし、よく頑張ったなシロ。偉いぞ」
『うぅ、はい、わ、わたくし、とても頑張りました。お尻を吸われても我慢しました。少々口汚く叫んでしまいましたが、その辺りはどうか聞かなかったことにして下さい』
「そうだな、怖かったな。悪ぃ、すぐに助けてやれなくて」
『いいのです。レオン班長はレオン班長なりに、一生懸命わたくしを救出しようとされていたと、知っています。油塗れになるのは嫌ですが、それでもレオン班長のお気持ちは、十二分に伝わっていますよ、ぐす』
「泣け泣け。好きなだけ泣いて、全部忘れちまえ」
『あ、ありがとうございます。では、お言葉に甘えて、存分に泣かせて頂きます。所で、わたくしのお尻は、今どうなっているのでしょうか? たるんたるんになってはいませんか? 大丈夫ですか?』
レオン班長は、大丈夫だと言うかのように、わたくしのお尻をぽんぽんと叩きながら、優しく体を揺らしてくれます。なんという包容力なのでしょう。この腕に抱かれていれば何も怖いことはないと、心から思いました。
安堵から、また涙が込み上げてきます。
わたくしは、ギアーギアーと声を上げて、レオン班長に張り付きます。うりうりと顔を擦り寄せれば、答えるように頬ずりし返してくれます。
「うぅ、よ、良かったなぁ、シロ。生きてレオン班長とまた会えて、本当に良かった……っ」
「ちくしょう。シロの奴め。俺を泣かせるなんて、大したシロクマだぜ。全く」
「はぁ、嫌だねぇ。こんなの見せられたら、家族の顔が見たくなっちまうじゃないか」
なんだか皆さん、しんみりした空気で目元を拭っていらっしゃいます。そこまでわたくしの無事を喜んで下さるなんて。ありがたい限りです。
若干、生き別れた親子の再会を見ているような眼差しなのが引っ掛かりますが、温かなことに変わりはありませんからね。気にしない方向でいきましょう。
兎に角、わたくしを救出する為に知恵を絞って下さり、誠にありがとうございます。このご恩は一生忘れません。
と、心の中で班員さん達へ感謝を述べていますと、唐突に、首根っこを鷲掴まれます。
そのままレオン班長の胸筋から、ひょいっと引き剥がされてしまいました。
「問題も無事解決したことですし、皆さん、これで心おきなく業務に励めますね?」
くぐもった声が、頭上から落ちてきます。
見れば、パトリシア副班長が、ガスマスク越しに辺りを見回していました。
防護服で覆われた右手には、コードレス掃除機が。反対の手には、わたくしが握り締められています。
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