覆水盆に返らないけど、もっかい汲めばいいじゃん
当たり前に有ると思っている物が、ある朝目覚めたら失われていた。
今朝の俺がたいそう凹んだのは、それが理由だ。
「『それ』、そんなにいいもんです?」
発端は数か月前。この質問がうっかり口をついて出たことだった。
ローテーブルに乗せた鏡を覗き込みながら、液体やらクリームやらを何種類もぺとぺと顔に塗りつけている、毎晩毎朝あかず続けている彼女の熱心な様子が俺には不思議でならなかったのだ。
パイル地のヘアバンドで額をむき出しにした彼女が、不躾な問いかけの主を鏡越しに一瞥して口を開く。
「じゃ、いっぺん試してみる?」
そう言うが早いが、卓上に並べられた色も形も様々なボトルの一つを手に取っていた。
……まず意外だったのは、拭き取り化粧水なる代物を染み込ませたコットンが顔面を縦横に撫ぜる手つきの優しいことだった。
あまりに弱い力加減なので、羽根でくすぐられているような感触しかしない。どうも落ち着かない気分のまま、じっと終わりを待つ。
更には濃い緑色のボトルからシャバシャバした液体を、次に同じ色でやや小ぶりのボトルからとろみのある透明なジェルを、最後にやはり同じ色合いの平たい軟膏瓶から白っぽいクリームをほんの少し肌に乗せられて行く。どれもその都度両の手のひらで馴染ませてから、こちらの顔を包み込むようにやわやわと抑えていくのだが……この、一連の手つきに妙にムズムズした感覚を覚えるというか……。
彼女から感想を聞かれた俺が上記の内容を正直に告げたところ「なんだ、朝っぱらから下ネタかい」と、なんと茶化して来やがりなさったので、俺はおおいに憤慨した。
ちがわい!もっとこう、心の中の五歳児が照れてモジモジしてるような感じの奴ですけど!?
と、ひと悶着は有ったものの、これでスキンケアの一連の工程は終わったという。
鏡で仕上がりを確認するが、正直変化の程はよく分からなかった。どころか、コテコテと塗り込まれた分、顔面が油分でテカって見えるのが正直気になる。思春期からこっち、俺にとっての顔面の油とは倒すべき敵以外の何物でも無い。なので「これで本当に合ってるのぉ?」というのが包み隠さぬ本音だ。
俺の怪訝な表情に何かを察したらしき彼女が、追加で額と鼻の近辺に半練り状の何かをすり込んでくれる。すると、肌表面のギラ付きが若干消えて、何というかすりガラスのような雰囲気にまで落ち着いてくれた。それだけでも脂っぽい雰囲気は無くなる物なんだな、と俺は感心する。(後で聞くと、毛穴を埋めるシリコン系の何かという事だった。そんなの肌に乗せて大丈夫なのか?と思うが、石鹸で落とせるタイプだから風呂の時にちゃんと顔洗えばOKとのことだった。マジか……)
そんな、ちょっとした変化に何となく面白みを感じた俺は、その後も三日ほど、彼女から手ほどきを受けた手順にしたがった肌の手入れを続けてみる。
それが起こったのは四日目の朝、化粧水を付け終えた頃合いのことであった。掌に頬が吸いつくようになったのだ。今まで味わった事の無い感触に驚いて、再度確かめてみる。……なんか、肌表面の手触りが変わって来た。今までは、言うなれば「サラサラ」とか、所によっては「カサカサ」という擬音が似合う感触だったのが、今現在は「ふかふか」というか「むっちり」というか、ともかく瑞々しさがある。
思わず彼女に報告すると「半月続けるともっと凄いぞ」と意味深な笑みを浮かべた。
ついつい乗せられてせっせと実践する事二週間。俺は先輩の言わんとしたことを理解する。
……肌がキレイになってるんだけど!といってもモデルやアイドルのあんちゃん達のような人形めいたツルツル肌とまでは行かないが、なんつうか質感が向上している。柔らかく、かつわざとらしくない光沢が備わって来ていて、それっぽく塗った合皮からタンニンなめしのピッグスキンに変わったような。
そしてこの辺りで「私も安物ジャブジャブ使う派だし別に良いっちゃ良いけど、そろそろ自分用に揃えなよ。肌質とかも有るし」と彼女から申し渡されたので、最寄りのドラッグストアへ向かった俺は、とうとう自分用のスキンケア製品をひと通り買い込んで来る。
そう、当時の俺は完全にスキンケアにドハマリしていた。
――宴会シーズンが訪れるまでは、だが。
飲み会続きの日々の中、俺は泥酔したまま寝落ちをかましては翌朝手短にシャワーだけ浴びて必要最低限の身支度だけするやっつけ生活をエンジョイしていた。
そんな崩壊しきった生活ペースでは当然肌の手入れどころでは無い。
一週間ほど経つうちに、俺の肌は元の合皮めいた質感にすっかり逆戻りしてしまっていた。どころか、今の俺の顔面の皮膚ときたら合皮は合皮でもヨレヨレクタクタに使い倒して傷みまくったような有様だ。
不摂生は身体に出ると言うが、ここ最近は自分自身の日々の肌コンディションをなまじっか把握していただけに、あの頬が失われたことをはっきりと認識してしまったのだ。
「こんなに悲しいのならもう二度とスキンケアなんてしない……やめる……」
「まあまあそう言わずに。この時期は多かれ少なかれそんなモンよ」
そう笑い飛ばす彼女も、そういえば目元のあたりがちょっとくすんでいる。
なるほど、同じ喪失感を味わってるのは世界に俺一人だけ、ってことでも無いらしかった。
とりあえず、手元のセットを使い切るまではゆるく続けてみようか……一気に揃えたからなんだかんだで結構値段が行ったから勿体ないし……と、既に俺の決心はグラついていたのだった。
【76分】
テーマ:【二度とやりたくない】
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