自称シスターの蛇沼さん、豪快にサバを読む

 ともかく、私は決断せねばならない。その事を、あの時の私はわかっていながら取り扱いかねていた。ただ見つめてあげるだけで良かったのに。


 礼拝堂は良い。人が滅多に訪れないからだ。単位認定もされるお昼のミサの時を除けば、だが。

 午後一に空きコマが有る火曜日は特に良い。ステンドグラス越しの陽光がモザイクタイルや木のベンチに色とりどりの影を描く様が殊更に綺麗だし、パイプオルガンの自主練習に訪れる音楽科の学生とかち合う事も殆ど無いし。


 そんな訳でその日の私も礼拝堂の隅のベンチに腰掛けて文庫本を繰っていた。こうした私の文学少女然とした振る舞いを「勉強熱心だ」と殊更に褒め殺しにして来る人達との縁も高校までで済んだ。この大学にはバリバリの英文科も本気マジでガチの国文科も有るのだ。本を読むくらい何だ。そういう雰囲気が充満していて、それは私を酷く安心させるものだった。「本当に、読書をするくらいが何だと言うのだろう。私が本読み行為に耽溺しているのは、単に現実逃避に過ぎないのに。

 そういう意味では、推しキャラのラバーストラップをバッグに吊り下げて闊歩しているオープンオタクの子達の方がよほど現実にコミットしていると言えた。彼女達には彼女達のコミュニティがあり、彼女達の為の経済圏が在り、仕送りやバイト代をやり繰りして消費行動をしている。

 というか、モノカネの話じゃ無いかも。心を捧げる対象が有るというのは、なんとも楽しそうだ。

 そう、私はそれを羨んでいるんだなあ


 ……って所かしら?」


 ──なんだ今の。私が今しがたまで没頭していた文庫本のページからどうにか視線を剥がして顔を上げると、少し離れた位置の、ちょうどステンドグラスの真下のベンチにシスターが腰掛けている。淡いグレーの修道服とベールに縁どられた顔がなんともあどけなく見える。この学校に在籍しているシスターは皆成人している(どころか、良い歳の『お姉さん』揃いの)はずだけれど、その顔には皺の一つも無いどころか、頬も額もうるうると瑞々しく光を弾いているのが日陰でもわかる。そのあどけないまでのツヤピカお肌を眺めながら、禁欲的な生活してると顔面が老けないんだなあ、と私は思う。


「『何アンタ、人のモノローグに割り込まないでよ、って顔してる」

 いや、見た目若いなーってしか思ってませんでしたけど。というか、私は本を読むために本を読んでるだけなので、そういう自意識案件を捏ねくり回すのは余所でやって欲しいんだけど。

 という内心が態度ににじみ出ていたのかどうだか、シスターは「思ってたのと違ったな」という顔をした。それはもう、表情から仕草からクソわかりやすかった。挙句、腕組みして首を傾げながらこっちにトコトコ歩いて近づいて来よる。

 えーもう邪魔しないでよ~。

「今のは流石にわかったわ! 邪魔するなって思ってるでしょ!」

「はい、ご明察です。では次に私がお願いすることもシスターはご存知ですね、きっと」

「でも断るわ!」

 この流れで断るのアリなんだ。でも、こっちこそこれ以上の相手はお断りなんだな。ということで、完全に存在を無視して読書を再開することに私は決める。


「えーちょっと無視しないでよ」「マジ?」「……え、本気のやつ?」とかなんとか聞こえて来た気がしたが、私としては蜘蛛の糸でグル巻きになってるフロドがこの後どうなるかを追うので頭が一杯だったので、マジに意に介さなかったし全然シカトした。

 こうして、この珍奇なシスターとの初遭遇は終わった。マジでこの日はこれっきりだ。私がキリのいい所まで読み進める前にシスターは諦めたらしく、既にどっかに行っていたので。


 ただし、『初』遭遇というだけあり、次が有った。というか、それ以降火曜日午後一の時間帯に礼拝堂に訪れるとまあまあの頻度でそのシスターと会うことになった。

 向こうが先に居ることも有れば、私が例によって時間つぶしをしているところへひょっこり姿を見せることも有った。

 そうして何となく顔なじみになってしまうと、言葉を交わす頻度も増えて行き、彼女の率直な物言いに慣れる頃には、むしろその端的でフラットな言葉選びが正直さの表れなのでは? とうっかり思ってしまって、そんな頃には何となく気心が知れたような間柄なつもりになっていた。そんな成り行きで、私はシスターに、誰にも話さずにいたような類の物事を彼女にだけはぽつぽつと明かすようになっていた。


 彼女との話題はニュースで知ったようなあれこれと将来のことが大半で、そして、ほんのちょっと家庭のこと。

 その仔細をここでもう一度つまびらかにするつもりは無い。酷くありふれていていちいち大げさに取り上げるような事では無いのを、私は知っているから。

 ただ、シスターの答えだけならここでも明かせる。


「いいよ気にしなくて。せいぜい食い物にしちゃいな」


 こう言われた時、私はあっけに取られた。今の話聞いてましたぁ~? って思ったし、実際に口にも出した。それでもシスターは意見を撤回しなかった。


「あんまり分かってないみたいだけど、あんた割と酷い目に遭ってる。確かに不幸の全国大会に出ようと思ったら役者不足でしょうけど。でもね、『そこそこ酷い』では有るのよ。おわかり?」

 シスターはそう言うとぴん、と人差し指を立て、そしてこちらを指差した。

「そんな奴がたまたま出目が良かった部分だけ気にして遠慮して見せるのはアホの所業よ。ただでさえ少ない得をドブに捨ててどうするの」

 私は何も反論できなかった。その時の私が、誰かに言って欲しいこと、そのものだったから。


「あなたの信じた通りに真っ直ぐ進みなさい。振り返らずに」


 その後の記憶は曖昧で、その日のシスターとのやり取りの続きも、どう別れたのかも全く思い出せない。

 ただ彼女と話す機会がそれっきりという訳では無く、それからもちょくちょく他愛も無い話をしていた。そして、後期が始まって時間割が変わり、火曜日に授業がフルで入るようになったら必然的に疎遠になって、シスターとは卒業までそれっきり会う事は無くなった。それだけだ。


 ただ、あの日の会話だけは私の脳裏に焼き付いたようになって、その後の人生の様々な折に浮かび上がっては迷う私の背中を強く蹴り飛ばし続けた。

 その結果、人並み以上の苦労や嫌な思いをする事もまま有ったが、しかしそうして辿り着いた現在の居場所を、私は存外悪くないとも感じている。


 ……今でもちょっと引っかかっているのは、あの白に近いような淡い淡い灰色の修道服を、彼女以外が身に着けているのを見た試しが無かったこと。というか、プロテスタント系だった母校に修道女が居るのがおかしいのだ、そもそも。

 アレ誰だったんだろうなあ。危ないコスプレおばさんとかだったんだろうか。

 まさか、いつだったか冗談交じりに口走ったのが本当だなんて事も無いだろうけど。……無いよね?


「だって二千年……とちょい生きてっからね、私」


 まさか、ねえ。


テーマ:ロリババア

【68分】

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