あなたが居なきゃつまらない、と飼い犬は言った。
これは困った。かいぬしが困っている。かいぬしが困ると、わたしは悲しい。
【どうしてあんな事をしたの?】
かいぬしはそのコマンドを出したっきり、目の前でしずかに佇んでいる。「どうして」と聞かれてしまうと、その理由を説明するのはとっても難しく感じる。例えば、訓練場のシェパードさんやわたしのママなら「どうして」を一足飛びにして、きっとわたしを叱ったり抱きしめたりするんだろう。
【どうしてあんな事をしたの?】
わたしがコマンドを見落としたんだと判断したみたいで、かいぬしはもう一度それを繰り返した。わたしは、包帯まみれで寝かされたエアマットの上で、申し訳なさそうにうなだれることしかできなかった。
言葉が通じないのなら、この気持ちを伝える術が無いのなら、せめてあなたを困惑させずに済むくらい、強かったら良かったのに。
***
まず疑ったのは、イヌが己の価値を低く見積もっている可能性であった。
確かに私がイヌを飼い始めたきっかけは業務にあたって補助役として運用するためであったし、我々の間には明確な主-従の関係が存在していたが、しかしそれは本質的には役割分担に過ぎないことを、もしかすると彼女は理解していないのかもしれなかった。データベースによれはイヌとは群れをつくる生き物だ、群体の一部として司令塔を活かそうとした結果があの行動なのかもしれない。
が、しかし非合理だ。
私があの大質量体に衝突した所でしばし行動が制限されるに過ぎなかったが、イヌにとっては致命傷となり得るインシデントであった。回避行動としてもこちらを蹴倒すというのはイヌの振る舞いとしては『いただけない』という指標に当たる問題行為だ。とはいえ、『友人』に登録している△△の勧めに従って、この件でイヌにペナルティを与える事は見送った。
【むしろ
可愛がり方が足りない、などというキャプションを添えられているが、己のイヌは愛玩用途では無いのだが。どうも△△の自由文の組み立てはファジーで読解に手間取る。
ともかく、自力では状況の打開に至らぬのであれば他者の助言に従うのが筋であろう。
私は己に許されたストレージを目いっぱいに使って、相応しいご褒美を導き出した。
***
美味しいご飯、甘いおやつ(こんなの誕生日にだって許された事が無い!)、そして新品の寝床。マットレスに上肢を乗せてみた。やや反発強め、でもグッと体重をかけると雪解けみたいに抵抗がフッと消えて掌を優しく包み込む。わたしは堪らずマットレスに飛び込んだ。バインバイン!でもやわらかーい!嬉しい!楽しい!ほんとにコレ使っていいの??
【落ち着いて】
──かいぬしのコマンドに気付いたのは、たっぷりはしゃぎ終わってからになってしまった。かいぬしは、でも我慢強くその場で待ってくれていた。わたしは気まずい思いで一杯になりながらマットレスからすごすごと降りてその場に座る。
【いい子】
至らないわたしのことも、かいぬしは良い子だって伝えてくれる。それが嬉しいけれど、それ以上に申し訳ない。わたしは、かいぬしを困惑させたあの事件のことを、今でもどう説明したら良いのかわからないままなのに。
その事を思い出したら、さっきまでの浮き足だった気持ちはどこかに行ってしまった。しゅんとしているわたしの様子を、かいぬしがじっと観察しているのがわかる。
かいぬしの姿をわたしが直接見ることは出来ない。この『おうち』では環境整備型ドロイドのカメラ越しにわたしを観、モニタを通してコマンドを送ってくれる。わたしがここに買われて来た時、この『おうち』全てがかいぬしなんだよ、と教わった事が有る。それも単にIDに振り分けられた便宜的なセーフハウスの住所に過ぎなくて、ヒトはどこにでも居てどこにも居ない生き物なのを、わたしは既に軍用グレード対応の訓練場で教わって居たのだけど。
これも、かいぬしには上手く説明できない事柄のひとつなのだけれど、わたしは今ではなんとなく、カメラの向こう側でかいぬしがわたしのことを見ているかどうか、が何となく分かるようになっていた。
今も、わたしのことをじっと見ている。レンズの向こう側に、かいぬしが「居る」のが感じられる。
──なのに何のコマンドも送ってくれなくて、放って置かれたような気持ちになったわたしは、余計に深く深くしょげかえった。
***
なんだと。
実証実験の結果をうけての、私の評価がこれだ。これまでの自分の語彙リストではどこまで使用頻度を下げに下げても相応しいフレーズが出現しなかったので△△の頻出語句をチョイスする事態に陥ってしまった。
イヌのQOL向上のための施策であったのだが、激しい興奮を見せていたのは327秒間に過ぎず、その後前兆無く強い鎮静を起こし、それに伴ってホルモンバランスも大きく変化した。興奮時の波形は典型的な『たのしい』のものだったのに、鎮静後は『かなしい』に近似している。
いわゆる、打つ手無しと呼ばれるコンフリクト状態に私は置かれた。
それならば、ひとつ賭けをしてみよう。私はそう判断する(正確には、こうした状況下においては確度の低い行動から相応の侵襲度の手段をアトランダムに選択する機能がアンロックされる)。
イヌはヒトに比べて複雑な思考は行えず、特に未来予測には強いバイアスがかかる生態だ。本来の言語の中でも相当に限定した定型的なコマンドを介したコミュニケーションが採用される理由がそれだ。
それを踏まえれば、私がこれから行おうとしているのは本来ならば推奨されない手法だ。
しかし私の飼っているイヌは三文節までのコマンドならば不自由なく理解できる能力を持つのは、これまでの行動によってほぼ証明されていた。蓋然性が高いとまでは言えないが、成功する可能性は充分ある、と判断した。
【どうして】【かなしい】【をしたの?】
流石に平文による交流は困難であろう。ヒトとイヌはお互いに性能と種としての特性がかけ離れているからだ。
それでもコマンドの一部の改変程度で有れば。
「だって」
イヌによる平文の返答。
「かいぬしが居ないと、つまらないのだもの」
【”つまらない”】
「つまらない」
【それはなに?】
首をかしげる。私は問いかけを変える。
【”つまらない”と『かなしい?』】
肯定の身振り。【つまらない】のサインを【かなしい】に似ていたあの波形と紐づける。
【私】【不在】【が】【つまらない?】
「そう!」
【他の候補を】
「えーっと、お腹がすいてるけどご飯までまだ数時間ある時とか……」
「目の前でボールのレクリエーションがされてるのにハーネス付けられて訓練中の時とか……」
軽度の生存の危機と自由の制限。種類は異なるがどちらもイヌが苦痛を示す類の状況。
以上を踏まえると。
【私が同行する】【つまらない】【喪失?】
「する!!!」
肯定の意を示す音声回答。それに伴い、イヌの波形が『うれしい』に近づき、合致し、やや崩れ、教科書に載せられるくらいの典型的な数値を示すこれには特別な名前が付いていた。『幸せ』。
テーマ:【欠落したものが回復する】をテーマにした小説
【78分】
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