世界に膜が降りた

 世界に膜が降りて来た。幕ではない、膜。

 ずっと気が付いていなかったが、地球の空の上、多分成層圏とか、ずっとずっと高いところで、この世界は薄い膜に覆われていたらしい。それが今、落下している。ここいらで一番高い位置にある建物──高台に建つタワーマンションだ──の屋上に引っかかる程には地上に接近している。


 気流か何かに影響を受けているのか知らないが、中天を覆う膜はあちこちが波立っていて、わたしはそんな頭上の様子に海面を連想する。いや、もっと似ている何かが有ったような気がする。ああ、アレだ。液体式の……砂時計とでも言えばいいのか?着色した2色の液体が封入されたインテリアグッズを思い出させた。そう、ひっくり返して、着色した水と油の位置を入れ替える、あれだ。(わたしはそれが、かつて交流が有った人物のベッドルームの枕元に置いてあったのを思い出す。もう足を踏み入れる資格の無い場所。そもそも、引っ越しや何かであの部屋はもうこの世のどこにも存在しないかもしれない)


 通信網はしばらく前に機能しなくなっていた。きっと電波が行き来する高度を膜が通過してしまったからだろう。送電されなくなったのは、そのもう少し手前の時点。わたしはスマートフォンの音楽アプリを立ち上げて、ダウンロードしていた曲を再生する。サブスクリプションに切り替えて久しいので、あまり曲数は無い。10年代前半のわたし好みのプレイリストを再生しながら、窓際まで椅子を引きずって行く。(親類のレコードマニアの顔を思い出す。彼ならば世界が終わる日のためのセットリストを苦も無く用意してみせられるのだろう。いや、しかし、レコードプレイヤーは電気式だろうか?どうか彼の御許に自家発電システムが有りますように。祈る先も無いが、わたしはそう願った。きっと、どこかにはミュージックフリークが管轄の神もおわすだろう。わたし?わたしは日常の隙間に挟み込む緩衝材として嗜む程度の不心得者ですので順番の列の最後尾で構いません。なむなむ)


 膜を通り抜けた先に何が有るのだろうか?どうやらそれは誰も知らないらしい。あるいは、この世のどこかでは既知の事柄なのかもしれなかったが、そうした「賢い人々」が何か手を打った様子は無い。少なくとも、ニュース映像や動画サイトが機能している間には。とにかく観測しうる範囲の人々は、馴染みの面々や、通行人や、画面の向こうのニュースキャスターに至るまで皆ただ困惑しているばかりだ。あ、火柱があがった。確かあの方角にはガソリンスタンドが有ったはずだ。火元だろうか?なんにしても当分の間は消し止められないだろう。サイレン音は未だ絶えずそこここで鳴り響いていて、それはまだ世界を諦めていない人々の存在を示唆していたが、何しろ知らせる手段が無いのだ。せめてもの抵抗活動として、わたしはとっておきの茶葉の缶を開ける。お買い得品のティーバッグはまだまだ残っていたが構う事は無い。どうせこれを消費しきる猶予は、恐らく無いのだ。それでもポットの蒸らしがやれる程度の時間はまだ残っている。はずだ。わたしはベランダに出て上空の、先ほどまでは上方向に大きく屈曲していた膜の様子を──おや?


 ぷつりと、現実が千切れて上空へ吸い込まれるように『落下』していくのが膜越しに見えた。私はあの人のインテリアグッズを、ひっくり返すと油が時に粒状に分かれながら昇って行く挙動を思い出す。現実の粒がそれまで占めていた空間を埋めるべく何かが、膜の向こう側の、これまでの現実とは違う『何か』が四方から殺到するのが、いよいよわたしの位置からも目で見て確認できるようになった。膜と言っても、それはあくまで交じり合わない存在同士の境目がそう見えているだけで、フィルムや布地や、そんなような物体がそこに有るわけでは無いのだった。粒があちこちで昇って行く。昇って行く。その中に生き物は含まれていない。ぼやけた向こう側に広がっている光景は、こちら側の言葉では上手く説明が付けられない。(コンクリートがあんな風に沸騰するものだなんて、知らなかった)


 今日、どこかのだれかが世界をひっくり返した。わたしに分かったのはそこまでだ。


テーマ:なし(提示されたお題を無視して好き勝手書いてみた)

【55分】

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