一章
「はぁ・・・」
吐いた息が白く漂う。夏が終わってもずっと暑いままだと思えば、今度はスイッチを切り替えたみたいに寒くなるのだから、四季とは何なのかと疑問になってくる。
毎年、年を越せば「もう一年か」と心の中で呟き、桜が咲いても蝉が鳴いても「もう一年か」とまた呟くのだが、吐いた息が白くなるのもそういった中のひとつだ。部屋では昨日まで冷房を付けていたような感覚だが、いつの間にか暖房に切り替えているのだから、時の流れとは怖いものだ。
「・・・ねえってば、聞いてる?」
隣を歩いている、大学の友達の深優(みゆ)が私に声をかけていた。
「えっと・・・ごめん、なんだっけ」
「だーかーらー、今週の日曜空いてるかって。みんなで遊びに行こうかって話」
そう言えば確かに、さっきからそのようなことをずっと言っていたような気がする。あまり適当に話を聞いていることがバレると面倒なので、話を合わせることにする。
「みんなって?」
「私が気になってる向井(むかい)くんと、向井くんと仲がいい宮尾(みやお)くんだよ」
「そのメンツで、何で私?」
「いいじゃん、いきなり向井くんと二人でってハードル高いし。ダブルデートみたいな感じでさ」
「ダブルデートって・・・私関係ないしなぁ」
深優とは大学に入ってからすぐ、私と同じクラスの学籍番号も近い女子だったので話すようになった。優しい性格だし頭も悪くないから友達としては良い子だけど、彼氏を作ろうと必死なのは私にはいまいち理解できない。
「でも宮尾くんも結構かっこいいんじゃない? まあ私のタイプとは違うけど」
「いや、名前だけじゃわからないんだけど」
「うそでしょ? 雪菜(せつな)、男の子に興味なさすぎ」
「深優が興味ありすぎなの」
高校までのクラスならまだしも、大学のクラスなんて本当に一生懸命覚えようとでもしない限り、全員の顔と名前なんて一致しない。と、私は思う。ましてや覚える気も全然ない私なんて、その宮尾くんとやらの顔がわかるはずもない。
「とにかく! 日曜はどうなの?」
「まあ暇だけど・・・」
「じゃあ決まり!」
「ええー・・・まあいいか」
結局否定しないあたり、私はお人好しなのかもしれない。それともノーって言えないだけかな。どちらにせよ、深優はご機嫌なようだ。
「向井くんと宮尾くんには私が話しておくから。何時から行ける?」
「特に何もないけど・・・朝からは、やだ」
「じゃあ12時ね」
「んー・・・で何処に行くの?」
「適当に映画とかカラオケとかでいいんじゃない? 新宿とか渋谷とか」
深優と二人でならまだいいけど、よく知らない男子を二人も混じえて映画&カラオケとか、私には重すぎる。そもそも家にいる方が好きなタイプなんだけど。やっぱりノーって言えないだけかもな。
「まあ決まったら教えて」
「オーケー」
深優はもう私との会話には意識の1%くらいしか割いておらず、携帯で男子にメッセージを送ることに集中している。
「はぁ・・・」
吐いた息が白く漂う。大学の講義が終わった後の、駅に向かう道すがら空を見上げる。
何やってるんだろう、私。漫画とかドラマでよく聞くセリフが、何となく頭に浮かんだ。
*
ピピピピ、ピピピピ、ピピピピー
「んぁー・・・」
非常に不快な音が、私の安眠を妨げる。人生でこれ以上苦痛な瞬間は、他にあるだろうか。
ピピピピ、ピピピピ、ピピピピー
「わかったよ・・・」
その爆音を鎮めるために、ベッドから這い出る。芋虫みたいに転がりながら、目覚まし時計が置いてある棚の方へと移動する。棚の下まで到達するも、手を伸ばしたところで目的を達成できないので、結局仕方なく立ち上がることにする。
「え、やばっ」
私の安眠を妨げた憎きそいつは、あろうことか集合時刻ギリギリを攻めるプランを私に提示していた。もちろん残りのプランは、遅刻かドタキャンである。
大急ぎで支度をして家を出た頃には、ドタキャンプランを選択することをかなり本気で考えていたが、後々深優に文句を言われるのもそれなりに面倒なので、駅に向かう足は結局止めないことにした。
もうすぐ12月になるというこの時期は、震えるほど寒くはないが風が吹くともう少し厚着すればよかったかなという気分にさせてくる。
「ごめん、ギリギリになりそう・・・っと」
電車に乗ってすぐ、深優に携帯で連絡を入れる。一応、今日会う予定の男子二人の連絡先も深優に貰ってはいたが、一度挨拶を交わした程度でそれ以上は会話もしていない。まあ深優に伝えておけば、話しておいてくれるだろう。
深優にメッセージを送った1秒後くらいには、OKという文字の入った何かのキャラクターのスタンプが送り返されてきた。深優は携帯と神経を接続してるんじゃないかと疑いたくなるほど、いつも反応するのが早い。それに比べて私は、通話がかかってきてもあまり気付かないくらい普段携帯にはほとんど触れない。携帯電話というより、音楽プレーヤーとして使うことの方がメインだと言ってもいいくらいだ。
何を見るでもなく、車窓から外を眺めながらイヤホンで音楽を流す。言い表し難いが、こうしていると何かの物語の主人公にでもなった気分になって、その空想の世界に入り込める。起きもしないようなことが起きるんじゃないかとか、もしそうなったらどうなるのかなとか、そんなことがどんどん頭の中に膨らんでいって時間が過ぎる。やがて降りなければいけない駅の名前が目に入ってくると、途端に現実に引き戻されて、先ほどの世界は数秒で消えてなくなる。
駅のホームに降り立ち、深優に通話をかける。
「着いたよ。何口?」
「東口の改札出たとこにいるよ」
「わかった。すぐ行くね」
「はいはーい」
相変わらずこの駅はすごい人の数だが、改札の前で簡単に見つかるだろうか。もう少し人の少なそうな場所にすればよかったのに、とか考えながら改札を出たら、腕を大きく振る深優が一瞬で見つかり杞憂に終わった。どうやらその横にいる男子たちが、例の二人みたいだ。
「遅いよー雪菜」
「一応間に合ってるから・・・」
どうも、と言った感じで男子たちに会釈をする。二人も笑顔で返してくれた。
「小野(おの)さん、だよね。話すの初めてかな」
いかにも爽やかと言った感じの背の高い男子が声をかけてきた。
「はい、えっと・・・」
「あ、向井です。向井翔太(しょうた)。よろしくね」
この人が深優が気になってるって言ってた人か・・・。典型的なモテるって感じのタイプみたいだ。万人受けって言えばいいのかな。
「よ、よろしく・・・」
「で、こっちが」
向井くんがもう一人の男子の背中を軽く押して前に出す。
「宮尾涼(りょう)です」
もう一人の男子もこれまたモテるって感じの雰囲気ではあるが、向井くんに比べると少しクールというか冷たいオーラが出ているような感じがする。人を寄せ付けないような、ちょっと怖いとも取れる雰囲気。
「どうも・・・小野雪菜です」
元々少し人見知りなのもあって、か細い声で挨拶をする。
「雪菜、可愛いでしょ。可愛いと美人を合わせた感じ、みたいな」
なぜか深優が自慢するように私のことを持ち上げてきた。
「ちょっと、余計なこと言わなくていいよ」
私が深優のことを軽く睨むのを無視して、深優も自己紹介を始める。
「そして私が、日高(ひだか)深優です」
「それはみんな知ってるって」
「そっか、はは」
向井くんが深優にツッコミを入れて、二人で笑っている謎のテンションに早くも私は置いていかれそうになっている。ちらっと宮尾くんの方を見ると、宮尾くんも私に目を向けたので視線が合い、私は慌てて逸らしてしまった。逸らす必要はないんだけど。
「じゃあ、映画館の方行こっか。もうチケット買っておいたんだ」
深優が片手に映画のチケットを持ってヒラヒラと揺らしている。
「何見るの?」
私も映画はたまに見に行くが、多くの場合は一人で好きなジャンルのものを見に行くので、あまり他の人と行くことはない。
「最近話題のアニメ映画だよ。感動するらしいんだ」
確かに、人気な監督の新作とか言ってテレビとかでもよく取り上げられてたっけ。
「ほら、行こ」
深優が駅の出口の階段の方へと進み出した後、向井くんも深優に話しかけながらそっちへと向かっていった。
残された私と宮尾くんは、何となく気まずい空気になりながら顔を見合わせた。
「・・・私たちも行こっか」
「ああ、うん」
宮尾くんは一瞬何かを考えるような表情をしてから、頷いた。
駅から映画館までは歩いて数分の距離があり、その間は深優と向井くんが前を二人で歩いていて、私と宮尾くんはその少し後ろに付いて歩いていた。
宮尾くんはしばらく何も話さないで私の横を歩いていたが、横断歩道で一度立ち止まった際に声をかけてきた。
「小野さんはさ、映画見る人?」
「え? うーん、たまにかな」
急に声をかけられたので少し驚いたが、何も話さないままの気まずさよりは幾分ましかなと思い、宮尾くんの方を向いた。宮尾くんは一瞬横目で私の方を見た後、横断歩道の信号にまた視線を戻して、白い息を少し吐いた。私より頭一つ分高い位置から吐かれた息は、更に上へと昇りその色をなくす。
「そっか。今日はどうして?」
「どうしてって、深優に誘われたから」
「まあそうだよな。俺たちのことも初めて知ったみたいだし」
「そういう宮尾くんは?」
「知ってはいたよ。たまに見かけてたし」
「そうなの?」
「はは、小野さんって他の人に興味ないんだな」
「う・・・」
そんな自覚はないのだが、色んな人に言われるくらいだからそうなのかもしれない。信号が青に変わり、前の二人と宮尾くんも歩き出す。危うく置いて行かれそうになって、慌てて私も前に出る。
「宮尾くんも、深優に誘われたの?」
「俺は翔太が行くならって感じで。俺たち高校から一緒でさ」
「へぇー・・・」
そうなんだ、と私が心の中で思っていたら宮尾くんがまた横目で私の方を見て、口角を少し上げて笑いを漏らした。
「ほんと、興味なさそう」
「えっ、いやそういうことじゃ・・・」
「いいんだよ。グイグイ来る人の方が、苦手でさ」
そう言って宮尾くんは一瞬深優の方を見た。深優の気になっている相手が宮尾くんだったら脈なしだな、なんて勝手に思っていたら前の二人が私たちの方を振り返ってきた。
「そっちは何の話してるの?」
深優が探るような顔で私に聞いてきた。ダブルデートとか言っていたし、私と宮尾くんの距離が近づくことを狙ってるのかな。いきなりそうはならないと思うけど・・・。
「別に、なんでもないよ」
「ふーん」
心なしかニヤニヤしているようにも見える深優は、私の顔をねっとりと眺めた後くるりと前に向き直った。
「もう、なんなの・・・」
宮尾くんに言うつもりで出した言葉ではなかったが、それに宮尾くんは反応を示した。
「小野さんみたいな人の方が、俺は好きだな」
「えっ・・・」
唐突にそんなことを言われてしまい困惑した私は、それ以外のセリフが口から出てこなくて硬直してしまった。私が目を見開いて宮尾くんを凝視していると、その視線に気がついた宮尾くんは突然変なことを言った事実を、やっと自覚したみたいだった。
「あっ、いや。一緒にいる分には気が楽だなって言うか、ごめん変なこと言ったな」
「う、ううん。いいんだけど・・・」
「ほら、もう着いたよ」
宮尾くんはいつの間にか到着していた映画館の入口に向かうエスカレーターに乗り込んでいく。多分、口説こうとして言ったというよりも、思ったことが口から溢れたって感じなのかな。女の子慣れしてるのかもと思ったけど、むしろその逆なのかもしれない。
映画館に入ってからは、映画の上映時間まで適当に過ごしてからそのまま映画を見た。話題になっているだけあって、ストーリーもちゃんと面白く、クライマックスでは普通に感動した。現実世界をベースに描かれたファンタジーで、そんな非日常に私は惹かれていた。恋愛要素も入っていたけど、どちらかというとそういう展開には心は盛り上がらず、もしこの状況に自分が置かれたとしたらどう行動するだろうかとか、そういうことをエンドロールの最中に考えたりするのが好きだった。
「めっちゃよかったねー、私泣いちゃった」
エンドロールも終わり場内が明るくなった後、席も立たずに深優が鼻をすすりながら感傷に浸っている。私の右隣に深優が座っていて、その更に隣に向井くんが座っているので向井くんが深優と何か話しているのはよく聞こえない。左隣に座っているはずの宮尾くんは、そちらを見るともう席を立っていたようで、姿が見えなかった。私も席を立って劇場の入口の方を見ると、宮尾くんが手を挙げてこちらに呼びかけているみたいだった。
「深優、先出てるよ」
深優に手短に呼びかけて、私も宮尾くんのいる方に向かった。
「宮尾くん、どうしたの」
「すぐ来るかと思ってさ。さっさと出たら、案外来ないから」
「何か映画の内容で盛り上がってるみたいだよ」
「そうみたいだな」
すぐに話したくなるのはわかるが、とりあえず場内を出てから落ち着いて話せばいいのに、とは思う。
「私ちょっと、御手洗に行ってくるね」
「ああ、わかった。前で待ってるよ」
「うん、ありがと」
御手洗の鏡の前で、手を洗いながら自分と目を合わせる。来る前に想像していたよりかは、気分が楽だ。よく知らない男子と出かけるのは気が進まないと思ったけど、宮尾くんは私と気が合うような感じがする。ふと鏡の中の自分の口角が上がっているのに気がついて、慌てて首を振った。
「深優に付き合って来てるだけだし・・・」
それに宮尾くんも向井くんの付き添いってだけだし。変なこと考えてないで、待たせないように早く出ないと。そう考えていた瞬間だった。
ミシッミシッ・・・ゴゴゴゴゴ・・・
壁や天井が軋むような音を立てたかと思ったら、突然建物が大きく揺れ始めた。揺れはみるみる大きくなり、立っていることもままならず、慌てて床に手を付く。しかしまだ揺れは大きくなる一方で、頭上の蛍光灯が明滅した直後に火花を散らした。
「きゃっ!」
未だに収まらない揺れが私の体を水平に動かし、壁へと衝突させた。その痛みに耐えつつも、頭を腕で覆いながら揺れが収まるのをじっと待っていると、やがて少しずつ揺れはなくなっていった。
この国で暮らしている以上、地震を経験しないことはまずないが、ここまで大きい地震は流石に生まれて初めてだ。立っていられないどころか、身体が飛ばされるのはそうそう起こることのない規模なはずだ。
「みんな、大丈夫かな・・・」
ここには自分以外に誰もいないので様子がわからない。早く外の状況が知りたい。
ふらふらと、先ほど宮尾くんと別れたところへ向かうと、色んな物が散乱していて人々が不安そうに顔を見合わせているのが目に入ってきた。
「小野さん!」
私が呆然としているところに宮尾くんの声が聞こえて、はっと我に返る。宮尾くんがこちらに駆け寄ってきた。
「怪我はないか?」
「壁にぶつかったけど、ひとまず大丈夫そう」
「よかった。でも相当大きかったよな」
「うん・・・こんなに大きいのは初めてだよ」
震度はいくつだったんだろう。4とか5でも大きいと思うが、さっきのは6強とか7くらいあったかもしれない。震源地はもっと大変なことになっている可能性もある。
「翔太たち、大丈夫かな」
宮尾くんが心配そうに、さっき映画を見ていた劇場の方を見ている。
「まだ出てきてなかったの?」
「いや、俺も一瞬トイレに行っててさ。多分出てきてないとは思うんだけど、もしかしたらその間に下に降りてたかもしれない」
「連絡してみよう」
急いで携帯を取り出して連絡を取ろうとしてみたが、電波が入ってこない。もしかして今の地震で圏外になったのだろうか。
「どうしよう、繋がらない」
「仕方ないから、一度アナウンスに従って外に出よう。先に二人も出てるかも知れないし」
宮尾くんにそう言われるまで、避難誘導のアナウンスが館内に流れていることに全く気がつかなかった。係員の指示に従って外に出てください、と言ったようなことを繰り返している。
「そうだね・・・」
人の流れに身を任せて、少しずつ映画館から外に出ようとする最中も深優たちの姿を探したが、見つからなかった。やっぱり先に外に出ていた可能性が高い。こうなるなら、ちゃんと一緒に行動していればよかった。
「宮尾くん、二人見つけた?」
「いや、ずっと見回してるけど全然。俺たちより後に出てくるなら待ってれば出てくるだろうから、外にいなければ少し待っていよう」
「わかった」
そのまま外に押し流されるように出たが、建物の出入り口のそばに二人の姿は見当たらず、私たちは顔を見合わせた。
「・・・いないな。もしかして中で怪我でもしてるんじゃ」
「そんな・・・」
「悪い、今は憶測で物を言うべきじゃないな。ひと通り人が出てきたら、一度中を見てくるよ」
「危なくない?」
「余震は来るかもしれないけど、二人が動けないんだとしたら余計に早く行ってあげないと」
「救助の人とか待った方がいいかもしれないよ」
「地震の規模もわからないからな、救助もいつ来るのか」
「でも・・・」
「大丈夫だよ、建物が倒壊するほどじゃないし。俺一人で見てくるから、小野さんはここにいて」
「私たちも、はぐれるかも」
私がずっと引き留めようとするのを宮尾くんは制止して、私の両肩に手を添えた。
「大丈夫。数分で戻ってくる」
そう言って宮尾くんは、私から手を離して足早に建物の中に戻っていった。
私は何でもいいから情報が欲しくて携帯をもう一度取り出してみたが、やはり電波が入ってこないようで、誰にも連絡も取れないしインターネットも繋がらないようだった。
「でも、地震が起きてすぐ圏外になるかな・・・」
電話が繋がりにくくなったりするのはよく聞く話だが、地震が起きた直後にインターネットも繋がらないというのは少し疑問が残る。
しかしここから動くわけにもいかないし、携帯も使えないとなると出来ることもないので、宮尾くんが戻ってくるのを待つことにする。近くの段差に腰を落ち着かせ周りを見ると、アスファルトが割れているところがあったり、怪我をして動けなくなっている人が何人もいたりと、相当な大事になっていることは容易に想像できた。
「うっ・・・!」
先ほど、壁に身体を打ち付けた時に頭も打ったのか、急に激しい頭痛が私を襲った。それと同時に身体がとても熱く感じ、息をするのが苦しくなってきた。高い音で、キーンと耳鳴りがするような気もする。
「はっ・・・はあっ・・・」
呼吸を荒げながら、両手でこめかみの辺りを抑え痛みに耐える。
「なんだろう・・・これ」
どこかをぶつけたとかそういう問題ではなく、いきなりインフルエンザの症状が出てきたような、身体の内側からの苦痛が私を支配している。
カバンの中から、ペットボトルの水を取り出して急いで口に含む。熱い食道を冷たい水が通っていく感覚がして、少し気分が楽になった。
まだ遠くで耳鳴りがする。それと誰かが私のことを呼ぶような、声。
「・・・小野さん。小野さん!」
はっとして顔を上げた。宮尾くんが私のことを心配そうに見下ろしながらそばに立っている。映画館の中に深優たちを探しに行って、もう帰ってきたのだろうか。いつの間にか結構時間が過ぎていたようだ。しかし宮尾くん以外は誰もいない。
「二人は・・・?」
「ざっと見てきたけど、見当たらなかった。どこかに閉じ込められたりしていたらわからないけど、さっきの流れでそんなに変なところにも行かないだろうしな・・・」
「じゃあやっぱり先に出たのかな?」
「そう思いたいな。連絡が取れるようになるまでは、仕方ないから俺たちも避難しよう」
そう言って宮尾くんは、座り込んでいる私に手を差し伸べてくれた。私がその手を取って立ち上がろうとしたとき、宮尾くんは顔をしかめた。
「小野さん、すごく熱いよ。顔色も悪いし、平気か?」
「なんかちょっと、熱っぽいかも・・・」
「さっきぶつけたって言ってたよな。それでか?」
「わからない・・・。待ってる間、急に」
「歩ける?」
「今は、なんとか」
「わかった、駅の方にゆっくり移動しよう。ほら」
そう言って私の手を引いて立ち上がらせると、宮尾くんは駅の方へと歩き出した。私の身体が熱いからなのか、宮尾くんの手は驚くほど冷たく感じる。肌に触れる空気も、ここに来たときよりも明らかに冷たく刺さるようだ。
駅に着いたとき、何やら様子がおかしいことに私たちは気付き始めた。
あれほど大変な地震が起きたはずなのに、駅の辺りにいた人たちは何事もなかったかのような振舞いをしているようなのだ。しかし当然映画館の方から来た人たちは、怪我を負っている人もいて、大災害が起きたことを信じて疑わない。中には平然としている人々を見て、一体どういうことかと目を丸くしている人もいる。
「何かおかしくない・・・?」
私がそう言うと、宮尾くんも不思議そうに周囲を見回す。
「おかしいな。まるでこっちでは何もなかったみたいだ」
そんなわけない。あの規模の揺れがあったのに気付かないわけがないし、地震ではなかったのならそもそもあの揺れに説明がつかない。
「繰り返し、お客様にお伝えいたします。先ほど、西武新宿駅付近で原因不明の大きな揺れが生じ、走行中の一部車両が脱線する事故が発生いたしました。そのため、現在復旧作業を行っております。各線、運転再開の見込みは立っておりません。お客様にはご迷惑をおかけいたしまして、誠に申し訳ございません」
淡々と状況を説明する駅員のアナウンスが聞こえてきたが、言っていることがまるで理解できない。どう考えても地震が起きたはずなのに、特定の箇所だけ何かが起きたかのような口ぶりだ。
「これ、どういうこと・・・?」
「地震じゃなかったってことか? だとしたら、爆発とか何かの衝撃・・・?」
「そんなことってあるかな?」
「あんなに大きい揺れだったんだ、正直考えにくいけどな」
自然災害じゃなくて、何かの事件だったのだとしたら余計に怖い。連絡がつかない二人のことも、とても心配だ。
「あれ、電波入るぞ」
宮尾くんが自分の携帯の画面を見て、驚いた声を上げる。
「えっ嘘、さっきだめだったのにもう直ったの」
宮尾くんは小刻みに私に頷きながら、携帯を耳に当てている。恐らく、すぐに二人と連絡を取ろうとしているのだろう。
「もしもし、翔太か? 今どこにいる?」
どうやら繋がったらしく、宮尾くんは早口で向井くんに問いかける。
「うん・・・うん。ああ、いや俺は大丈夫だ。・・・うん、小野さんも一緒にいる。・・・わかった。そっちは?」
落ち着かない様子でその場を少し動きながら会話をしている宮尾くんを、黙って見つめる。
「そうか。・・・わかった、気を付けて。うん、じゃあな」
しばらく会話を続けた後、宮尾くんは顔をしかめたまま携帯をしまった。
「なんだって?」
「やっぱり俺たちが映画館を出る前に、先に出てたみたいだ。向こうも電波が入らなくて連絡できなかったらしい。日高さんも一緒だ」
「大丈夫なの? どこにいるの?」
「日高さんが揺れで軽く足を挫いてしまったみたいだけど、翔太が手を貸して駅の方に来てるらしい。ただ、この騒ぎだから合流できるかはちょっとわからないな・・・」
「そっか・・・でも無事ならよかった」
「小野さんは大丈夫? さっき熱っぽいって言ってたけど」
「うん・・・まだ身体は熱い感じがする。でも動けないほどじゃないよ」
「どこか休めそうなところに移動しよう。どっちにしろ今は帰れそうにないし」
「そうだね」
駅の中には溢れるくらい人がいるので、一度外に出ることにした。駅から出ると、救急車や消防車が大量に私たちが来た方へと向かっているのが目に入った。空には、ドクターヘリか報道のヘリコプターか何かが飛んでいるようだ。やはり状況から考えると、あのエリアだけが何かしらの被害にあったようにしか見えない。大規模な地震だったのなら、ここまで迅速に救助も来ないだろう。自分たちも現場にいたことを考えると、大きな怪我を負わなかったのは不幸中の幸いだった。
「あそこの店に一旦入ろう」
数分歩いた頃に宮尾くんが、駅から少し離れたところにあるカフェを指さした。人は少なくないが、満席になっているわけではないみたいだ。ここなら外にいるよりも、身体を休められそうだ。
店内には、騒動をまだ知らずに談笑している人もちらほらいる。私はまだ少し痛む頭に顔を顰めつつ、奥の方の空いている席に座った。近くの席にいるカップルは、遠くに鳴り響くサイレンの音に何事かと困惑しているようだ。
「注文してくるよ、何がいい?」
宮尾くんが、テーブルを挟んで私と向かい合う席に上着を置きながら、こちらを見る。
「じゃあ、ホットコーヒーお願いしていいかな。ありがとう」
宮尾くんは軽く頷いて、気にしなくていいと言ったふうに手をあげて、カウンターへ向かった。
私はやっと腰を落ち着かせられたことに安堵しつつ、いきなり体調が悪くなった原因を改めて考えたが、揺れが起きた際に身体をぶつけたこと以外に思い当たる節がない。とは言っても、身体を打ち付けることが発熱に繋がるのも不可解な話だ。気付かないだけで、骨でも折れたのだろうか。
「持ってきたよ」
気付けば宮尾くんが、二人分のホットコーヒーを私たちのテーブルまで持ってきてくれた。
「ごめんね、ありがとう」
「気にするなって。それで、どう? 少しは落ち着いた?」
「頭痛は相変わらず。でも身体は痛いところもないし、たまたま風邪気味だっただけなのかも。熱っぽいし、外の空気も急に冷たく感じちゃって」
そう答えつつ、外気で冷えた身体を少しでも温めようと、宮尾くんが頼んでくれたホットコーヒーに手を伸ばす。
「そっか。さっきの揺れで何かあったならって心配だったけど、ただの風邪なら不幸中の幸いかな」
「うん・・・あれ?」
どうもおかしい。ホットコーヒーを飲もうとカップに手を伸ばしたのだが、今しがた持ってきてもらったばかりだというのに、ずっと置いたままにしていたかのように冷えている。
「どうした?」
「いや・・・なんかコーヒーが冷めてるような気がして」
「え?」
宮尾くんは、冗談だろといった顔で首を少し傾げながら私の持っているカップに手を添える。その時に軽く私の手にも指が触れ、私の胸は少しだけざわついた。
「本当だ・・・おかしいな、確かにホットコーヒーを頼んだはずだけど」
「それは間違いないと思う。宮尾くんが持ってきてくれたとき、湯気も出てたし」
「・・・どういうことだ?」
宮尾くんは自分のカップにも手を当てたが、そっちは特に問題もなく、余計に困惑している。私もどういうことか分からないが、飲んでみたら案外温かいのかもしれないと思い、カップを口に付ける。口内にコーヒーを注ごうとカップを傾けた瞬間だった。
ピキッ・・・ピキピキッーーー
今まさに飲もうとしていたコーヒーは、私の口に入る直前に音を立てて急激に凍り始めた。
「きゃっ・・・!」
驚いた私はカップから両手を離し、テーブルの上に落としてしまった。ゴトンと重い音を立てて半回転したカップからは、何も溢れることはなく、中身が凍ってしまったという事実を私に再確認させるだけだった。
「どうした?!」
宮尾くんが目を見開いて、私が落としたカップの方に視線を落とし、何が起きたのかを理解して絶句する。
「宮尾くん・・・これって・・・私、どうして」
伝えようとする言葉がまともに形を成さないほど動揺している。宮尾くんは落としていた目線だけ私の方に向けて、絶句したまま首を少し振った。
そして、目の前の現象に私たちの頭が追いつく間もなく、それは起きた。
「きゃあああああっ!!」
店の入口の方から女性の凄まじい悲鳴が聞こえたかと思ったら、店の外からこちらに向かって歩いてくる火だるまの人間が、ガラス越しに目に入った。次の瞬間、その火だるまだった人は店のガラスや扉を、自らの爆発によって吹き飛ばした。
幸い、私たちの座っていた席まで爆発は及ばなかったが、爆発によって飛ばされてきたあらゆるものが散乱している。
「げほっ、げほっ」
入口付近のテーブルなどに火が付き、ゆらゆらと空気が揺れている。煙も漂い、満足に呼吸ができない。崩れ落ちるように座っていた椅子から離れ、宮尾くんの方に這い寄った。
「・・・宮尾くん、大丈夫?」
店の入口の方向に背を向けるように座っていた宮尾くんは、椅子に座ったまま目を閉じて動かない。額の辺りから血が流れているのが見える。
「宮尾くん、宮尾くん!」
膝下まで移動して、彼の膝を揺する。
「・・・んっ・・・!」
宮尾くんの眉が微かに動いた。よかった、意識はあるみたいだ。
「起きて、宮尾くん。大丈夫?」
「小野さん・・・痛っ・・・。何があったんだ・・・?」
ゆっくりと目を開いた宮尾くんは、私に焦点を合わせた。
「わからない、人が爆発した・・・。どこか痛い?」
「背中が・・・っ」
見ると、宮尾くんの背中に爆発で飛んできたガラス片が刺さっている。だがそこまで深く突き刺さっているわけではなさそうだ。
「抜いてあげる。痛かったら言ってね」
宮尾くんは黙って小刻みに頷く。私はガラス片をそっと引き抜くと、宮尾くんに肩を貸して立ち上げた。
「ここは危ないから、外に出よう。歩ける?」
「・・・ああ」
「よし、行くよ」
店内の私たちよりも入口に近い位置に居た人たちは重症な人も多く、早く救助を呼ばないとまずそうだ。入口付近には、目を背けたくなるような物も飛散していたが、それをどうにか乗り越えて外に出た。
「嘘・・・」
外の方が安全だと思い店から出てきたというのに、その予想は裏切られた。視界に入るのは、あちこちで炎上したり横転している車、ガラスが破られ煙が漏れ出ているビル、そして焼け焦げた人間の死体。私を支えていた脚は力をなくし、地面に膝を突く。
「小野さん・・・!」
宮尾くんの声が聞こえたのを最後に、私の意識はゆっくりと消えていった。
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