二章
夢を見ているとき、それが現実の世界ではないと理解していることがある。でも単に明晰夢だということでもなくて、本当の私は目を覚ますまでそれが夢だったという事実に気付かない。
夢の中の私とベッドで横になっている私は、切り離された別の存在で、夢を見ている間だけ主導権を渡しているような感覚。そして稀に、夢の中の私は主導権を渡されつつも、いつかは主導権を返さなければいけないということを理解していて、自分の世界での出来事をどこか冷めた目で見ているようなことがある。「私」と言っても、その姿は本当の私とは全然違うことも多々あるし、殆どの場合はどちらが本当の世界か目を覚ますまで全く気付けない。それでも夢の中の私が、寝ぼけた本当の私にバトンタッチするみたいに、そのスイッチが切り替わる瞬間までのタイムリミットを自覚しているようなことがあるんだ。
胡蝶の夢。水槽の脳。その実在しない方の存在が、自分は実在しないとどこかで理解していることの、どれだけ哀しいことか。
*
「・・・引き続き、新宿上空からお伝えしております。複数の建物で未だに炎が上がっており、消火活動は難航しているようです。時折、爆音のようなものが聞こえ、事件はまだ収束していないことが伺えます。建物の屋上には、救助を求めヘリコプターを待つ方々の姿も確認できます・・・」
「・・・番組を変更して、ニュースをお伝えしております。東京都新宿区で現在も発生している大規模な火災につきまして、現時点で少なくとも300人以上が重軽傷を負い、死亡者は60人を超えている模様です。警視庁によりますと、火災の原因となっているのはいずれも自爆攻撃を行ったと見られる人物らで、実行犯の人数や、詳しい犯行動機などを調査しているとのことです・・・」
「・・・各地で火災が発生し始めた30分ほど前に、現場付近で原因不明の大きな揺れが生じておりましたが、地震ではなく今なお発生している複数の自爆攻撃に関連する何らかのテロ行為であった可能性があるとして調べています・・・」
テレビのどのチャンネルを点けても、同じ事件のことを報道している。それもそうか、これだけ大変な事件が起きているのに呑気にバラエティなど放送している方がおかしい。SNSを見ても、誰も彼もが新宿のことについて話していてタイムラインが忙しない。
「遙(はるか)ー? 今日、涼くんがどこに出掛けてるかって聞いてる?」
お母さんが台所で何か作りながら、リビングのソファにひっくり返っている私に声をかける。
「さあー、友達と遊ぶって言ってたけど。どこかは知らない」
「そう・・・もしかしたら新宿に行ってるんじゃないかって、心配で」
ボウルの中の何かをかき混ぜているお母さんが一瞬手を止めて、私の方をちらっと見た。
「聞いてみようか?」
「うん、お願い。お母さん今ケーキ作ってるから」
息子が心配なんだったら、ケーキを作っている場合なのかと突っ込みたいところだが、まさかピンポイントで新宿に出かけているとは思っていないのだろう。まあ、それについては私も同じだ。
『お兄ちゃん、どこ行ってるの? 新宿がやばいみたいだけど大丈夫?』
メッセージアプリで、兄にメッセージを送る。すぐに返事が来るかもしれないと思い、少しの間携帯とにらめっこをしてみたが、既読の表示は出ない。
「お母さーん、既読つかなーい」
「嘘、大丈夫かしら・・・」
「まあ携帯見てないだけかもしれないし、そのうち返事来るでしょ」
「そうだといいけど」
携帯から目を離しもう一度テレビに目を向けると、深刻な状況になっている現場を上空から撮影していて、もしここに兄がいるとしたらと考えるとぞっとした。前は兄にべったりだった私だが、最近はあまり会話することもなくなっていた。本当は少し寂しいと感じてはいるが、それを悟られても恥ずかしいので何となく距離を取っているような状態になっている。
「お父さんは今日帰ってくるんだっけ?」
「そうよ、今日はお父さんの誕生日なのよ。忘れたの?」
「あっ、いや覚えてたよ」
「今あっ、って聞こえたけど。もう、お父さん悲しむわよ」
お父さんは製薬会社に勤めていて、単身赴任をしている。月に数回は家に帰ってくるが、基本的には家にいないことの方が多い。ちょうど今日がお父さんの誕生日だということを、今の今まで忘れていた。だからお母さんは一生懸命ケーキを作っていたのか、納得。
「でもお父さんの会社も本社が新宿にあるでしょう。色々と対応で忙しいかもしれないわね。早くは帰ってこれないかも」
「お父さんの勤めてるところは新宿じゃないじゃん」
「そうだけど、本社が大変なことになってたらお父さんも対応に駆り出されるかもしれないじゃない」
「ふーん。でもお父さんって結構偉いんでしょ?」
「そうよ。偉いからこそ、必要とされるのよ」
お母さんがそう言い終えたタイミングで、ちょうど家の固定電話が鳴り始めた。この着信音は、お父さんの番号からだ。
「話をすれば。遙、ちょっと出てくれない?」
「はいはーい」
私はひっくり返っていたソファから離れて、受話器を取る。
「もしもしお父さん?」
「おお、遙か。お母さんは?」
「今お父さんのケーキ作ってる。代わろうか?」
「ああ、頼む」
「ちょっと待ってね。お母さーん、代われってー!」
台所に向かって声を張り上げたら、お母さんがすたすたとリビングに戻ってきた。受話器をお母さんに渡して、私は元いたソファに再びダイブした。
お母さんがしばらくお父さんと会話している頃、私の携帯がピロンと音を立てた。メッセージアプリにメッセージが来たときの通知音だ。
『遙、助けてほしい。今新宿にいるんだ』
兄とのトーク画面を開いた瞬間、書かれている内容は目に入ったが、頭で理解するのにしばらく掛かった。
『嘘でしょ?! 今どうなってるの?』
『文字打ってる余裕ないから、話してもいいか?』
『うん、いいよ』
私がメッセージを送るやいなや、すぐに通話がかかってきた。
「もしもしお兄ちゃん?」
「遙、よく聞いてくれ。今友達の一人と一緒に新宿駅の近くにいるんだけど、人が爆発して大変なことになってるんだ。その友達も気を失って動けない」
「凄いことになってるのはニュースで見たよ。お兄ちゃんは怪我とかしてない?」
「爆発の近くにいたから少し怪我したけど、俺は全然大丈夫だ。何が起きてるのかってわかるか?」
「細かいことはまだわかってないみたいだけど、テロか何かで何人も自爆してるって。救助も行ってるから、待ってれば助けてもらえるかも」
「いや、同じ場所に留まってるのはかなり危なそうだ。減ってきたけど、まだ遠くで爆発する音が聞こえる。これって・・・本当にテロなのか?」
「わからないけど、そうじゃないの?」
「色々おかしいんだよ。爆発した人は爆弾を持っていたようには見えないし、爆発する前に身体中が燃えて助けを求めているようにも見えた。まるで・・・」
「何?」
「罪のない人を、誰かが操作してるみたいだ」
「そんな・・・とにかくすぐに救助が来ないなら、安全なところまで逃げて」
「ああ、そうするよ。近くに大きい病院ってあるか、わかるか?」
「ちょっと待って、調べる」
急いで新宿エリアの地図を開いて、近くにある病院を検索する。
「あった。代々木の方向に大きい病院があるみたいだよ」
「わかった。友達が目を覚まさないから、そっちの方に行ってみるよ。ありがとう」
「お兄ちゃん」
「ん?」
「気をつけてね」
「・・・ありがとう」
その言葉を最後に、通話は切られた。まさか本当に新宿に行っていたなんて俄かに信じがたいが、一先ず無事が確認できたことは幸いだった。お母さんにも早く知らせないと。
「お母さん!」
お母さんは、私が通話を切るのと同じくらいのタイミングでお父さんとの電話を終えていたようで、受話器を持つ手を下にだらんと下げていた。
「お母さん、どうしたの?」
「う、ううん。涼くんと連絡取れた?」
「それが、大変だよ。お兄ちゃん、新宿にいるんだって」
「・・・っ!! そんな・・・」
私の言葉を聞いた途端、お母さんは膝から床に崩れ落ちた。
「ちょっと、大丈夫?!」
私が駆け寄って身体を支えたが、お母さんの額からは冷や汗がだらだらと流れていて、目を開かずにぐったりとしている。私もショックを受けたが、その比じゃないくらいお母さんにはショックが強かったのかもしれない。
「お母さん! お母さん、聞こえる?!」
私が呼びかけても返事はなく、荒い息だけが何度も繰り返される。
「どうしよう・・・救急車呼ばなきゃ」
*
「精神的にショックを受けて、失神してしまったようです。しばらく安静にしていれば、大丈夫でしょう」
お母さんが救急車で運ばれた先の近くの病院で、私は先生の説明を受けていた。
「よかったです・・・ありがとうございます」
「お母様が倒れる前に、何かあったんですか?」
先生が机の上の書類から一旦目を離して、私の方に首だけ向ける。
「今日ずっとニュースでやっている事件が新宿であったじゃないですか」
「ええ。私もニュースを見て驚いていました」
「実は現場にお兄ちゃんが、あ、その、兄がいて・・・それをお母さんに伝えた途端に倒れちゃって」
私の話を聞いて、先生も驚いた顔をした。
「それで、お兄様は大丈夫なのですか?」
「直接電話して話したんですけど、兄は無事みたいで。一緒にいる友達を病院に連れて行くって言っていました」
「それは不幸中の幸いでしたね」
「でもお母さんには、兄が無事だということを伝える前だったので・・・」
「ショックを受けるのも無理ないですね。お父様は?」
「お母さんが倒れる直前に、お母さんと電話で話してました。その後すぐ救急車を呼んだので、まだ何も連絡していないです」
「わかりました。お母様は念のためこのまま一日入院していただいて、特に問題がなければ明日退院にしましょう。早く、お父様やお兄様にも連絡してあげてください」
「はい・・・どうもありがとうございました。失礼します」
一気に色々なことが押し寄せて、理解が追いつかない。お母さんが倒れてしまったことも一大事だけど、そもそも兄が事件現場にいたことが一番問題だ。直接話せたから、最悪の事態にはなっていないことがわかっているのがせめてもの救いだが、それでも不安で仕方がない。
「とにかく、まずはお父さんに電話しよう」
病院から出てすぐに、携帯でお父さんの番号に電話を掛ける。
「・・・ただいま電話に出ることができません。電波の届かない所にいるか、電源が入っていないため、掛かりません・・・」
しかし何回か掛けてみても、一向に出る気配がない。
「なんで・・・さっきお母さんと話してたのに」
今このまま何回も試しても埒が明かないので、一旦お父さんに連絡するのは諦めて、兄ともう一度連絡を取ることにする。
「もしもし、遥か?」
「うん、今大丈夫?」
「大丈夫、とりあえず病院に受け入れてもらえたから。それで、どうした?」
「実はね、さっきお母さんにお兄ちゃんが新宿にいることを伝えたら、ショックで倒れちゃって。安静にしてれば大丈夫だって言われたけど、念のため入院することになったんだ」
「マジか・・・俺のせいでとんでもない心配をかけちゃったな」
「それと、お母さんが倒れちゃう直前にお父さんと電話してたんだけど、今お父さんに電話しても全然繋がらなくて・・・先にお兄ちゃんに伝えようと思って」
「そうか。お父さんも今は色々忙しいかもな」
「でも全く反応がないのもちょっと不安で・・・」
「わかった。俺は病院で友達の検査結果を待ってるから、それがわかったらまた連絡するよ。特に大きな問題がなければ、夜に帰れると思うから」
「うん・・・わかった。お兄ちゃんは大丈夫?」
「ああ。俺は本当に軽い怪我だけだから」
「よかった。じゃあ、待ってるね」
お父さんと連絡が取れないのはやっぱり不安だが、兄とひとまず会話ができて少し安心した。一度私も家に帰って、また兄から連絡が来るのを待とう。もしかしたら、お父さんからも連絡が来るかもしれない。
「なんだか凄いことになって来ちゃったな・・・」
だいぶ日が傾いてきた空を見上げながら、ため息をつく。心細さからか、いつもより肌寒い空気が口元から白く濁るのを、どこか他人事のように眺めていた。
*
知らない天井だ・・・。
昔見たアニメで、同じ台詞を言っているシーンがあったような気がする。
「小野さん・・・? 目、覚めた?」
ぼーっとする意識が、視界からの情報と耳に入ってくる優しい声によって、少しずつ輪郭を取り戻す。どうやら病院のベッドに私は寝ていて、すぐそばに宮尾くんが座っているようだ。声のする方にゆっくりと顔を向けると、宮尾くんだけでなく、私の両親も心配そうに私のことを見つめていた。
「雪菜、大丈夫?」
お母さんが涙目になりながら、私のことを心配してくれている。
「うん・・・」
布団から上半身を出すようにして身体を起こす。どういうことだろう。確か、みんなで新宿に映画を見に行って、それで・・・。
「あっ・・・! 私・・・!!」
映画を見終えてから私が気を失うまでの全ての光景が、一気に頭にフラッシュバックして目を見開いてしまう。それと同時に、またインフルエンザみたいな熱っぽさと寒気が私を襲った。思い出した光景の酷さと相まって思わず、身震いしてしまう。
「おい、無理するなよ」
普段仕事で忙しく、会話することもあまり多くないようなお父さんでさえ、いつになく優しい声で私を心配してくれる。
「大丈夫・・・ちょっと熱っぽいだけ」
宮尾くんと両親の視線が自分に集中しているのを避けるように、自分のお腹の上に組んだ手に視線を落とす。
「お店の前で人が爆発して、それで・・・」
ちらっと宮尾くんの方を見る。気絶した私のことをここまで連れてきてくれて、目を覚ますまでずっとそばに居てくれたんだ。彼の優しい目が真っ直ぐに私に向いているのがわかって、恥ずかしくてまた視線を元に戻した。
「何があったの・・・? あの後、どうなったの?」
「とりあえず今わかっていることだけ言うと、俺たちがいた映画館の近くで大きな揺れがあったのが事の始まりで、その後すぐに新宿の色々な場所で人間が発火したり爆発する事件が起きたみたいだ。病院に移動してる間にも続いてたみたいだけど、流石にもう夜になって事件自体は収束したらしい」
「原因とかって、わかったの?」
「いや、ニュースで報道しているのは被害者の数とか爆発した人のことを調査中だってことだけ。爆発した人のことをテロリストか何かだと思って、犯行動機を調べてるみたいなことを言ってるけど」
「・・・でもそんな感じには、見えなかったよね」
「ああ。正直俺も本当にテロなのか、とは思ってる」
あまり思い出したくもないけど、すぐ近くで爆発した人は誰かを傷付けようとしていたというよりも、むしろ助けて欲しかったのではないかと思えるような挙動だった。
「とにかく、現状はその辺りはよくわかってないな」
そう言いながら、宮尾くんは彼の額に巻かれている包帯を少し摩った。
「そっか・・・。宮尾くんの怪我は大丈夫?」
「うん。診てもらったけど、俺は本当に軽い怪我ってだけで全然大丈夫。小野さんも、発熱があるけど大きな怪我とかはなくて、何日か休んでれば大丈夫らしいから安心して」
「それなら、よかった・・・」
それを聞いて安心したけど、体調が優れないのもあってあまり多くの言葉は口にできなかった。それから少しだけの沈黙が流れて、宮尾くんがゆっくりと立ち上がった。
「お腹、空かない? 何か買って来ようか?」
「ううん、何か全然。疲れちゃったのかな」
「それもそうか、ごめんな。じゃあ、ゆっくり休んでて」
「うん・・・」
私が小さく呟いた後、宮尾くんと私の両親が何か会話しているのを聞き流しながら、またベッドに横になり布団を被った。
「・・・小野さん、俺は妹も待ってるし、今日は家に帰るよ。また明日見舞いに来るから」
ひと通り、宮尾くんと私の両親が会話をした後に、部屋を立ち去る前に私に声を掛けてくれた。
「うん、わかった。お父さんもお母さんも、帰って大丈夫だよ。仕事とかあるでしょ?」
「でも・・・」
お母さんが私を心配して帰ろうとしないから、無理に口角をぐいっと上げて笑顔を作った。
「もう子供じゃないんだからさ。熱くらいすぐ下がるって、大丈夫だよ」
それでも簡単に帰ろうとしないので、もう何度かやり取りをして納得させた。
「・・・宮尾くん」
私の両親と一緒に病室を出ていくその背中に向かって、思ったよりも寂しげな声で呼び掛けてしまった。
「ん?」
彼は背中を向けたまま、首だけ少しこちらに振り返り、目でどうしたのかと尋ねてくる。
「その・・・ありがとう」
これまた思ったよりもか細い声で、お礼を伝えた。顔が熱いのは発熱のせいだけではなさそうだ。
「涼で、いいよ」
私の精一杯の謝辞に対して、ただ笑顔で応えつつ彼はそう言った。
「それなら・・・私も、名前で」
「わかったよ。雪菜、また明日」
「また、明日・・・」
真っ赤な顔でやっとそれだけ口から絞り出して、私は三人を見送った。
「涼、くん・・・」
下の名前で彼を呼ぶ練習を一回だけしたところで、仕切られたカーテンの外には他の人も入院していることを思い出し、とんでもなく恥ずかしい行為をしていることを理解して、頭から布団を被った。
*
暑い・・・熱い・・・アツイ・・・。
だけど凍えるように、寒い・・・。
夢?
暗闇の病院の廊下で、遠くに薄らと見える非常灯の明かりだけが認識できる。全くもって現実味のない感覚のまま、ふらふらと足を前に出す。
苦しい・・・。食欲は全く感じられないのに、空腹のような、喉の渇きのような、何とも言えない飢えが身体を支配している。身体の内側から何かが私を乗っ取ろうとしているみたいで、自分で自分の行動をコントロールしている感覚がまるでない。
身震いするほど寒気がするのに、時折皮膚が焼けるんじゃないかと思うほど熱くなる。
本当に現実?
もう一人の私が、少し高いところから私のことを見つめているみたいだ。まるで、言い知れない恐怖を抱えている私を、もう諦めてしまったみたいに冷めた目で眺めているような。
お前は助からない。お前は戻れない。もうお前は、人間では・・・。
再び訪れる苦痛に顔を顰める。凍土の上で火炙りにでもされているのか。その苦しさに嗚咽を漏らし、目を瞑る。ゆっくりと過ぎる時間に耐え、やっと幾分か楽になったと思い目を開くと、いつの間にか廊下から病室のベッドの中に移っていた。やはり夢なのだろうか。
もしこのまま私がこの世界から消え去ってしまったら、誰がそれに気付くだろうか?
もしこのまま私がこの世界を立ち去ろうとしたら、誰が私を追いかけるだろうか?
誰が私を求めるだろうか? 誰が、私を救うだろうか?
一人の優しい顔が、ぼんやりと浮かんだ。
*
「それで、全部で何人?!」
騒がしい声によって、目が覚める。頭がぼんやりする。
「現在確認されたのは、四人です!」
「どういうことだ?! 全員、凍死だって?」
「はい、重度の低体温症と見られます・・・」
どうやら病室の外を慌ただしく移動している医師と看護師が会話をしているようだ。
「なんだろう・・・凍死?」
私のいる部屋の前を彼らが通る時に会話の一部がちらっと聞こえただけだったので、全貌まではわからないが、入院患者の誰かが亡くなったのだろうか。
それに悪夢のせいか、寝覚めがとても悪く頭が痛い。昨日から続いている熱っぽさも、相変わらずだ。
それからほどなくして、私の様子を見に担当の看護師さんが来てくれた。
「小野さん、調子はいかがですか?」
「まだ熱っぽいです・・・。それと、ちょっと嫌な夢を見ちゃって。頭が痛いです」
「あら、可哀想に。昨日大変な事件に巻き込まれちゃったから、無理もないかもしれないわね」
「そうなんですけど・・・でも、事件には関係なくって。病院で彷徨ってる夢でした」
それから少し看護師さんとやり取りをしたが、やはりどうしても気になるので、さっき廊下から聞こえてきた会話について質問することにした。
「さっきちょっと聞こえちゃったんですけど、患者さんに何かあったんですか?」
「ええ・・・原因が全く分からないんだけど、昨日まで元気だった方が数人、急に亡くなってしまって。身体が凍ったように冷たくなってたみたいで・・・」
「凍ったみたいに・・・」
正直言って意味のわからない状況だが、その話を聞いた途端に私の頭には、昨日新宿で涼くんと入ったカフェで飲もうとしたコーヒーが急に凍ってしまった光景がフラッシュバックしていた。あれも、あの後すぐに事件が起きたせいで記憶から薄れていたが、説明のつかない現象だし、内容も関連性があるように思える。
「こんなこと絶対に有り得ないわ・・・聞いたこともない」
看護師さんは顔を青ざめさせて首を振っている。無理もない、一晩明けたら元気だった人が何人も凍死しているなんて、誰にも意味がわからないだろう。しかもこれも何かの事件なのだとしたら、誰かがそれをやったことになるわけで、その方がよっぽど怖い。
結局、コーヒーが凍ってしまったことも私が原因である確証もないし、病院の中で何人かが亡くなってしまったのも決定的な因果関係があるわけでもないので、私は黙っていた。
逆に何かしらの脅威に曝されているのだとしたら、私自身もこの病院に入院しているのは危険なのかもしれない。そう考えると、昨日の事件とはまた違った、じわじわと内側からこみ上げてくるような恐怖を感じた。
しばらく経った頃、動けないほど辛くもないので気分転換のために病室を出て院内を歩いていた。待合室にあるテレビから、昨日の事件のニュースが聞こえてくる。
「昨日14時45分頃、東京都新宿区で発生した原因不明の大きな揺れと、その後に区内各地で多発した一連の人体自然発火現象による被害者は、現時点で死者368人・重軽傷者計6,742人にまで上っています。その内、発火・爆発した人数は約80人ほどと見られ、身元の確認が行われています。警察は、何らかの組織による集団的なテロ行為であった可能性があるとして捜査中ですが、テロ組織等との関連性は見つかっておりません・・・」
昨日は落ち着いてニュースを見るタイミングがなかったから、やっと事件の規模がわかる情報が得られた。実際に現場で目の当たりにしていたから相当なものだとはわかっていたが、こうして数字で見ると改めて大事件だったことがよくわかる。
また報道番組では、どこかの大学教授か何かが専門家として呼ばれていて、持論を展開している。
「・・・警察の捜査でも、犯行に使われるような爆弾などは見つかっていないわけですから、テロ行為だとは考えにくいですよね。発火や爆発した人たちもごく一般的な市民ばかりですから、凶行に及ぶ動機があるようにも思えません。とすると、事件発生時に付近で何か化学的に人体に影響を及ぼすような事故が発生した可能性があるのではないかと思いますね。とは言え、人体のみに影響を与えられるような要因があるともあまり考えにくいですが、直前に同じエリアで原因不明の揺れが発生しているのも怪しいんじゃないかと・・・」
事実として起こったことと、捜査などでわかってきたこととが結びつかないことが多いみたいで、誰しもが混乱しているようだ。そんなことがあるはずもない、というような事象が実際に起こってしまっているせいで、矛盾や説明の付かないことで溢れている。
もしもっと小規模な人数だけがそうなっていたのなら、見間違いとかオカルトとか言われて片付けられるのかもしれないが、新宿で大事件になってしまった以上は、SFみたいなことが本当に現実で起こってしまったという事実を直視する他ない。上空にUFOを見た人が何人かいる、とかいう話ではなくて、大都会にUFOが着陸してしまったようなものだ。そうなってしまったからには、当たり前だが宇宙人の存在を認めざるを得ないし、何の準備も出来ていないとしても何かしらの対応策を急いで講じないといけない。
そう言えば、昨日涼くんが今日も見舞いに来てくれると言っていたな。何時頃に来るのかと思い、携帯のメッセージアプリを開く。
「あ、メッセージ来てた・・・」
普段であれば誰かから連絡が来ていようが、特に何とも思わないというか、むしろ返事をしなければいけないという圧迫感を少し感じてしまったりもするのだが、涼くんからメッセージを貰っていたことに気付いた途端に無意識にそれを開いているあたり、どうやら私は喜んでいるらしい。
『今日なんだけど、翔太と日高さんも一緒に昼くらいにお見舞いに行くから。たぶん、13時くらいには着くかな』
涼くんだけでなく、映画を見に行った他の二人も来てくれるらしい。あれからはぐれてしまって会話も出来ていないから、よかった。深優のことも心配だったし。
『ありがとう。待ってるね』
それ以外、上手く文章を増やすためのアイディアが浮かばず、そっけない返事になってしまった。まあ彼はそんなことをいちいち気にするような人でもないだろう。
「まだ時間あるな、部屋で少し休んでよう」
部屋から出歩いてはいたが、別に体調が回復したというわけでもない。相変わらず熱っぽさと寒気は残っているので、ベッドに戻ることにする。
一人でじっとしている時間が長くなると、色々なことを考えてしまう。そのうち事件の全貌がわかるようにはなるだろうが、やはりどうしても気にしなってしまうし、今言われていることが本当にそうなのかと疑わしくなったりもする。警察は、人間が発火や爆発したことはわかっていても、突然飲み物が凍ってしまうこととか、病院の入院患者が一晩で何人も凍死してしまうこととかは知っているのだろうか。いや、少なくとも私の周りのことについては涼くんしか知らないのだから、警察が知っているはずもない。病院のことはついさっき発覚したからまだ伝わっていないだろうけど、もう通報はされているのかも。他の病院でも同様のことが起こっているのかどうかはわからないが、どちらにせよ普通には考えられないことだから、そのうちニュースになってもおかしくない。
もし、こんなに変な現象が私の身の回りでしか起きていないのだとしたら、私が原因だってことになるのかな。そうでなくても、私のことを調査したり、最悪逮捕されてしまったりするのかな。もともと悪い方向に物事を考えてしまうことが多いが、今回ばかりはあまりに非日常的なせいで余計にネガティブ思考になってしまう。
「はぁ・・・早くいつも通りにならないかな」
小さくため息をついて、ベッドの上で身体を仰向けから横向きに変える。みんなが見舞いに来てくれる時間まで、少しだけ眠ることにした。
「雪菜~? 来たよー。元気?」
よく聞き覚えのある声がする。元気じゃないから、来てくれたんでしょ。心の中でツッコミを入れつつ、ゆっくりと目を開き声のした方向を見る。
「こんにちは、小野さん。お見舞いに来たよ」
相変わらず、爽やかの代名詞みたいな笑顔をした向井くんが、片手を顔の横に上げつつ指をひらひらしている。
「ど、どうも・・・わざわざありがとう」
爽やかの代名詞にちょっとだけ気圧されながらも返事をする。その後ろから涼くんが遅れて入ってきて、私と目が合いにっこりと微笑む。私は昨日もしてしまったみたいに、慌てて目を逸らして自分のお腹の上に目線を落としてしまう。
「なんか食べたいかなと思って、お菓子とか、飲み物も買ってきたよ」
涼くんが片手に下げているビニール袋を、私に見えるように少しだけ持ち上げた。
「そんな、気を遣ってくれなくて大丈夫なのに。・・・ありがとう」
「何言ってるんだ、病人なんだから気にするな」
「う、うん」
「それで雪菜、体調はどうなの? 心配だったんだよ」
深優がぐいっと顔を私に近づけてくる。ち、近い・・・。風邪だったら確実に伝染る。
「なんて言えばいいのかな、インフルエンザみたいな感じなんだけど、少しマシにはなったかな」
「映画見るまでは何ともなさそうだったのに。変だね」
「本当だよ。揺れた後からおかしくなって・・・。てか深優、大丈夫だった?」
「昨日? こっちも大変だったよ!」
私に近づけていた顔をすっと戻して、頬を膨らませている。向井くんが、はは・・・と乾いた笑いを出しながら深優の方を見る。察するに、事件も大変だけど深優と一緒だった向井くんの方が大変だったんじゃないだろうか。そんな様子を感じ取って、私も少し苦笑いになる。
「二人が先に場内から出てったじゃん? 私たちも出ようーって言ってたところに地震が来てさ。もう大騒ぎで、合流したかったんだけど全然出来そうになかったんだ。アナウンスに従って外出るしかなくて、しかも外出ても結局大騒ぎだから・・・」
「そう言えば、怪我したんだっけ。大丈夫?」
「ああ、うん。揺れたときにちょっと足挫いちゃって、向井くんに助けてもらっちゃった」
一人できゃーきゃー言いながら、もうやだとか言って向井くんの腕をバシバシと叩いている。向井くんの乾いた笑いは更に深刻になり、笑顔が完全に引きつっている。
「ははは、もう深優ってば。おかしい」
昨日から今まで全然笑えてなかった気がするけど、深優の明るさに助けられたな。深優と向井くんのやり取りを眺めているだけで、心配なこととか不安なことが和らげられるような気がして嬉しい。深優の周りを笑顔にする力って、特別なものだと思う。
「・・・え? 何が?・・・どしたの?」
深優が、私が笑っていたり、向井くんが引きつった笑顔で固まっていたり、涼くんが会話に全く興味なさそうに買ってきた食べ物の袋の中身を取り出したりしているのを、きょろきょろと見回して目を点にしている。それがまた何かおかしくて、笑いが出る。
「何よー、雪菜笑いすぎ」
「はぁ・・・ははっ、はぁ・・・。もう、深優ってバカだね」
「え?! 何急に、酷くない??」
「いやいや、褒め言葉」
目の端に少し涙が浮かぶほど笑った私は、それを袖で拭いながら、深優の逆ハの字になった眉毛に気が付いてまた少し笑いそうになる。
「でもなんか、元気そうでよかった。入院なんてしてるから、かなりやばいのかと思っちゃった」
「うーん、自分でもよくわかってないけど、たぶんちゃんと寝てれば治ると思う」
またちらっと思い出したくないことが頭をよぎったが、それを押し留めて深優ににこっと笑顔を向ける。
「ま、長居しても迷惑だろうし、雪菜が大丈夫そうならそろそろ帰ろっかな」
「そっか。ありがとね、元気出たよ。向井くんもありがとう」
「いいって、いいって。またちゃんと遊ぼうね」
本心かどうかはわからないけど、向井くんもそう言って私に笑顔を返してくれた。
「じゃ、またね~。あ、宮尾くんはまだ残る?」
深優と向井くんが立ち去ろうとしている中、何も気にすることなく座っている涼くんに深優がニヤニヤしながら呼びかける。あれは完全に、私と涼くんの仲が深まっていくことを期待して、余計な世話を焼こうとしている目だ。とか言って、私も少し期待した目で涼くんのことを横目で確認する。
「ん? ・・・ああ、もう帰るのか。先に帰ってていいよ、もう少し俺は話してるから」
どうしたのかな。どうやら考え事でもしていたみたいで、さっきまでの私たちの会話は全然聞こえてなかったみたいな反応だ。深優はそこには特に触れずに、ごゆっくりーとか言って向井くんと一緒に部屋を出て行った。
「どうかしたの? 何か考え事してるみたいだけど」
「ん、そうか? ごめん、ぼーっとしてたのかも」
明らかにそういう風には見えないけど・・・言いにくいことがあるのかな。
「一晩泊まって、変わりなかったか?」
「そう・・・だね。体調は大きく変わったりしてないけど」
「けど?」
「なんかね、昨日の夜に変な夢見ちゃって」
「どんな?」
「説明が難しいんだけど、現実と変わらないくらいリアルで、自分の身体が苦しいのもわかるような質感だった。ここかどうかわからないけど、病院の廊下みたいな場所を真っ暗な中でゆっくり歩いてて・・・」
ベッドの上に視線を落としながら話していたのを、何気なしに涼くんの方に視線を向けると、彼は私の眼球の奥まで貫くような真剣な眼差しで私をじっと見ていた。少し赤面しながら、その目に向かって話を続ける。
「時々、身体の表面が燃えるように熱く感じるんだけど、内側はぶるぶる震えるくらい寒くて、不思議な感覚だった。どのくらい彷徨ってたのかわからないけど、その夢の中でぎゅっと目を瞑ってたら、いつの間にかベッドに戻ってて。もしかしたらそれは一瞬夢から覚めてたのかもしれないけど」
「・・・」
涼くんは相槌すら打たず、でも話を聞いていないわけでもなく、至って真剣な顔で少し目を伏せてからまた私に目線を戻した。私は相手からの返答までの時間が、実際以上に長く感じてしまってそわそわしていた。
「病院の入院患者が急に何人か亡くなったって、さっき他の人が噂してたけど」
「あ、それ私も今朝聞いて気になってた」
「雪菜が無事でよかったけど、まだ心配だな」
「原因不明らしいし・・・ちょっと怖いかも。昨日の事件と関係あるのかな」
私のその言葉を聞いて、涼くんは何かを言おうと口を開きかけて、結局言葉をそのまま呑み込んだ。私はそれが気になって、何も言わずに目だけで「どうしたの」と問いかけたが、涼くんも何も言わずにほんの少しだけ首を振った。
それからしばらく他愛もない話をしたり、逆に何も話さないでいる時間もあったりして、涼くんは私のそばに居てくれた。本当だったら、付き合わせて悪いから帰っていいと言うところなのだが、正直なところ彼が居てくれて安心するし、嬉しく思っている自分がいるのも事実で。今までの自分だとそんな気持ちになったりすることも無かったので、誰かがそばに居てくれることに喜びを感じるという事実に少し、自分自身で驚いていた。
「そろそろ帰るよ。また明日も来るから」
涼くんから帰ると言われたら、それを引き留めることはできないので、素直に頷いた。
「うん、ありがとう。来てくれて嬉しかった」
ここまでストレートに気持ちを伝えることは普段できないのだが、ちゃんと伝えておかないと相手にはわからないままだと思うから、勇気を出してはっきりとした声でそう伝えた。
その日は夜寝るまで、昨日の事件のことと、悪夢のこと、涼くんとの会話をぐるぐると頭の中でループさせて考えていた。病院で出されるご飯は正直全く味がしなくて、しかも食欲も一切ないので食べたくもなかったけど、無理やり口に詰め込んだ。大学の授業のこととかを少し心配しながら、早くいつも通りの日常に戻れることを願って、さっさとベッドの中で目を閉じることにした。また悪夢を見たら嫌だな。そんな考えのおかげか、目を閉じると浮かぶのは、彼の優しい顔だった。
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