042 境界を侵す黒
「来るなと云ったのに来たのか」
「だって――気になるじゃん」
「だってもなにもない。僕は来るなと云ったんだ。その理由もな」
「でも面白そうだし。危険なんでしょ? じゃあついていくって。私、剣道三段だし。なんかあっても自分で守れるって」
念珠関は大仰に溜息を吐いた。
「まあ来てしまったものは仕方ない。今更帰れという方が危険だ」
「ま、こんな夜遅くに女の子ひとりで帰らせるのも危険でしょ?」
剣道三段が何を言う、と念珠関は言い捨てる。
一階の生物室の窓から校舎に入る。普段であれば戸締まりがなされていなくても警備員が締め直す筈なのに、どうして入れるのだろう。
「知り合いに頼んで開けてもらっておいたんだ」
と、念珠関は、私が口にしてもいない疑問に答えた。
そのような
「ふうん。でもそういうのってなんか警備の人とかが確認して締めちゃうもんじゃないの?」
「普通はそうだろう。ただ、うちの高校の生物部は大学の研究室と共同研究しているじゃないか。研究発表の時期が近いから、結構遅くまで高校と大学を出入りする必要があるらしく、学校が特例として出入りできるように取り計らっているんだ。そこで知り合いの生物部の奴に頼んで開けてもらったということだ」
そう言いながら念珠関は窓を乗り越えようとする私に手を貸してくれる。
口や態度とは裏腹な行為に少しだけ面食らう。
夜の校舎は当たり前だがとても昏い。火災報知器の赤い光がとても不気味だ。
「
「わかってるって」
とはいえ、暗さでうっかり手を伸ばしそうな気もしてしまう。
やはり暗闇というものはそれだけで根源的な恐怖を感じてしまう。ちょっと不安になったが隣の念珠関の横顔を見ると、相変わらずの仏頂面で安心する。
一重の流し目と男子にしては病的に白い肌の所為か、狐が人に化けているかのような印象を抱く横顔だ。子役でもやっているかのような顔の整い方だな、と思う。
やけに楽しそうだな、と念珠関は言う。
「なにをそんなに浮かれているんだ、君は」
「だって、そりゃあ男の子と二人で肝試しだし。こういうのも青春の一コマでしょ」
楽天的な物言いに念珠関は怒るかな、と思ったが、
「肝試し――そうだな。肝試しだ」
「え?」
肯定されたので変な声を出してしまう。
「そうだな、今夜は僕と
「――染みを落とすんじゃなかったの。あの、化学準備室前の。あ、あれか。先生にバレたときの言い訳ってことか」
「違う。今夜は本当に肝試しなんだ――と、そう思っておけ」
念珠関が何を言っているのかいまいちわからないが、とりあえず形だけ頷いておく。
「けどどうやって染みを落とすわけ? 漂白剤とかそういうの使って落ちなかったんだし、なんかもっとすごい薬剤とかでももってきたの?」
「そもそも僕と君にしか見えていないんだから、そんなまともなものが通用しないだろう。そういう話だったじゃないか」
「まあ、それはそうだけど。じゃあどうやって落とすのよ」
どうとでも、と念珠関は言う。
「染みを落とせればそれでいいんだ。過程は問わない」
「問わないったって……爆破でもするの?」
「それもないわけではない。まあ、実際的には採用しないが」
何をいっているのか、本当にわからない。
「――例えば腹痛という症状があったとする。素人目には原因がわからない。まあ昨晩よくないものを食べたとかならそれが原因だろうし、感冒が流行っている冬場のことならどこからか風邪を貰ってきたのかも、などと思うわけだ。けれどもそのどちらでもなさそうで、困っている」
染みを腹痛だとする、と念珠関は妙な仮定をする。
「僕はその腹痛をまず『取る』のだ。過程はそのあとにくっつけるだけにすぎない」
「……えっと、つまり?」
「つまりもなにもなく、そういうことなんだ。腹痛を取る前に、適当ななんの薬効もない錠剤を飲ませておけば薬が効いたという話になる。腹を大儀そうに摩ってやれば心霊的な超能力で直したとかそういう話になる。君はいま大会前で緊張していて、そのストレスが腹痛になって表れたのだと諭してやれば、心身症からアプローチして解消したという話になる」
どういう話として決着するかが問題なのだ、と念珠関は言う。
「僕一人ならどうとでもなったのだがね、今日は余計な人間が紛れ込んだものだから不必要に理屈を付けなければならなくなった」
どうやら私のことを言っているらしい。
厭味のように聞こえるが、いまひとつ要領を得ないので反論のしようも反省のしようもない。
そんなことを話している内に――件の化学準備室前に到着した。
不意に目眩がする。
視界がくらくらと揺れる。
念珠関は持っていた懐中電灯を消す。外は曇っていて僅かに街灯の光が差し込むのみ。校舎の中は暗闇になる――それなのに染みだけははっきり見える。
矢張り普通じゃない――とくらくらとした頭で思った。
声を出そうとして、出なかった。
だから来るなと言ったんだ、と念珠関は言う。
最早立っていられなくなり、壁に寄りかかるようにして私はその場にへたりこんでしまった。途中で念珠関が体を支えてくれたのですりむいたりはしなかったが、念珠関に感謝を口に出来るほどの余裕すら、そのときの私には無かった。
「いまから何が起きても口に出すんじゃないぞ、灰塚。引っ張られてしまう」
念珠関は懐からなにかを取り出すと染みに貼り付けた。
瞬間奇妙な悲鳴がした。男のような声だがやけに甲高い。
ぼとり、と。
上から黒い物体が落ちてくる。
僅かな街灯に照らされたそれは――いや、照らされていない。漆黒だった。一切の光を反射しない真っ黒のなにかが蠢いている。気分は更に悪くなる。吐きそうになる。視界が揺れる。揺れる度に視界が黒に浸食される。三次元的に捉えている筈の映像が、視界が、二次元的に黒に侵される。塊は染みとなり、私の視界を黒一色に染めようとして――、
爆ぜた。
ぶつぶつとした声が聞こえてきて、それが念珠関のものだと漸く気付いた頃には、著しく悪かった気分が急に回復していた。
「ね、念珠関――」
「なにも言うなと言っている」
引っ張られるぞ、と鼠ヶ関は言い含めるように言う。
「今日は莫迦な高校生男女二人が悪ふざけで学校に侵入した。それだけだ。それ以上の話にするな。すると僕だけじゃなくて君も引っ張り込まれるぞ」
「念珠関は――」
「僕は最初から半分そっちなんだ。どうやったって足抜けできない。足抜け出来ない僕がやるんだ。君はもう戻れ。そしてもう、此方に来るな」
念珠関が手を差しのばす。その手を取った。
壁を見ると――染みはなくなっている。
「境界を犯すな。そして僕には積極的に関わろうとするな」
そう言った念珠関の顔は、痛みをこらえるような表情をしていた。
念珠関の言葉は、染みのように私の耳にこびりついて離れなかった。
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