034 かつて病でなかったもの

 病は、名前が無くとも苦痛や障害があれば病である。

 例えば急に腹痛に襲われたとする。風邪などの感染症やストレスなどによる心因性の腹痛でもない、胃に潰瘍が出来ていたり、癌が転移している訳でもない。原因の特定が出来ないから、病の名前を付けることは出来ない。それでも腹が痛ければ、わたしは病なのだ。

 そして苦痛や障害と云うものは、極論を言えば本人やその周囲の人間に対して、日常生活に主観的に困難をきたすものや、また困難そのものである。視力が弱いだけならば眼鏡で矯正して日常生活を送れるが、そのような矯正を用いても日常生活を送れない程の弱視であるならば、それは障害や症状として扱われる。ある人間の特質性に於いて同様のものであっても、その強弱によって病であるかそうでないかが分かたれうる、ということでもある。昔は性的に倒錯している嗜好を有しているだけで病気とされたこともあった。仮に性行同意年齢以下の人間にしか性的興奮を得られない特質を有していたとしても、それが日常生活に支障をきたさない限りは病気ではない。逆を云えば、対象年齢がどこであったとしても、コントロールできない性的興奮が日常生活において自身または他者へ著しく支障をきたせば障害や病気の類いである(無論、刑事的乃至は社会的責任の所在や重さについてはそれらも勘案した上で決定されるだけで、それがすべてではない)。


 そして現在、【感情】を持つことは、病気とされている。


「かつて全世界で、感情等を有する疾病は不治の病でした。寧ろ、老衰などのように生きている以上避けるこの出来ない肉体の現象と考えられ、病としての認知がなされてもいない時代もありました」


「感情という病は、人間社会のシステムを運営していく上で必要不可欠な面もありましたが、現在に於いては単なる障碍として位置付けられています。理想的な社会モデルに各個人の行動をある程度以上の精度で一致させるには、感情というシステムは障碍にしかなりえないのです」


「ですから、貴女がいま流している涙は、病気なのです」


「感情を原因とする号泣は、赤ん坊以外には健康な人間に現れない症状です。貴女は可及的速やかに加療の必要があります」


「ですので、私が対象の殺害を代行することも可能なのです。殺人委任第一対象は確かに伴侶である貴女です。しかし、なんらかの要因によってその執行が不可能であった場合、第三者にその代行を依頼することも出来ます」


「何故、執行に対して感情という症状が現れているという苦痛を持ってしても、その遂行に固執するのか、私には理解出来ません」


 そういうものだから、としか言えない。

 私は涙を拭い、撃鉄を起こす。左手を拳銃に添えて、血が跳ねるのを防ぐ。

 乾いた発砲音と共に左手に血液が付着する。


「こちらで汚れを落としてください」


 執行補助官はそう云って白いタオルを差し出してくる。

 私はこの赤い液体を汚いと思うべきか、汚いなどと思うのは無粋だと思うべきか、わからない症状が出ている。


 この身を焦がすような苦痛は、病なのだという。

 貴女の死骸に対する執着さえ、病なのだという。


 それが、病なのだ。



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