032 人生最悪の夜勤

 こんなことを態々わざわざ夜通しでやる必要があるのだろうか。

 熊谷くまがい光弘みつひろは今夜何度目になるかわからない問いをひとりごちた。

 真空度検査。金属膜形成用の真空蒸着装置の真空引きを長時間行い、一時間毎にチャンバー内部の真空度を記録していく。普段、実験用の金属膜を形成させるには精々一、二時間も真空引きを行えば充分な真空度を得られる。素材や条件によって多少変化はあるかもしれないが、現在の実験プロトコルではそれで充分とされている。

 その真空引きを、今夜は十二時間連続で行う。


 さして変化の見えない真空度の表示画面を見ながら、昼間やれよ昼間、と熊谷は内心で悪態を吐く。そう思いつつも、それが出来ない理由も彼は知っている。単純に、昼間は学生や研究室の技術員が使用しているからだ。朝から諸々の装置を立ち上げ、チャンバーを清掃し、基準値を満たす結果が得られて、それからスパッタリングを始める頃には既に昼になっている。そこから実験用の成膜が出来上がり、装置の片付けなどが終了する頃には大抵午後六時になっている。


 土日祝日の昼間にもそんな時間はない。簡単な話で、卒研発表が近づいている学生に、休みの日などないからだ。装置はここ一台のみ。学生は順番で交代に装置を利用する。その合間を縫って技術員が使用する。そしてあんまり連続で装置を使用しすぎると調子が悪くなる。理由はわからない。研究費が常に足りていない研究室に装置を新調する費用や、原因を調査する時間など存在しない。決定的な故障が起きるその日まで、だましだまし装置を使用していく。それが自分の番のときでありませんように、と願いながら。だから装置を休ませておくために基本深夜には動かさない。

 さらに、理由を付け加えるとするなら――二十四時間稼働している研究室というのも外聞が悪いというのもある。いくら理系の研究室がブラック企業並みに動いているにしても、卒研発表直前でもないのに、動かし続けなければならない機械があるわけでもないのに、研究室の明かりの絶えないというのは流石に外聞が悪い。まあ、そんなことお構いなしに動いている研究室もあるのだが。隣の棟のとある研究室はまさにそうだった。あそこは企業と連携して研究を行っているので、卒業後の進路などに融通が利きやすいのは利点なのだが、代わりに装置の使用は企業の人が優先されているらしい。なので研究室の学生がまともに装置を使用できるのは午前二時から。冗談のような話だと思っていたが、先日その研究室で学生が自殺したらしい。世の中狂ってるな、と熊谷はそれだけ思った。


 熊谷はこの研究室の技術員だ。今日は通常通り午後六時まで日勤を行った後、その後休憩時間を挟んで午後七時から勤務を再開した。前後の片付けの時間を含めた時間なので、そのくらい勤務時間は長くなる。明日が金曜日なのがせめての救いだった。明日午前九時で勤務が終わればそのまま金曜は休みで、土日の休みに繋げられる。すくなくとも技術員は土日休みではある。学生は大変だよな、と熊谷は形だけだがそう思った。


 スマホを弄っていると――隣の部屋に誰かが来たような物音がする。

 時計を見ると日付の変わる頃合いだった。はて、こんな時間に誰だろうか。隣は学生が使用している居室なので、この時間なら基本誰も居ない。というか学生に限らずこんな時間に大学構内を歩いている人間などそう居ない。

 熊谷は立ち上がると隣の部屋を覗きに行った。真空引きが始まってしまえば、殆どやることはない。一時間毎に真空度をチェックするだけ。どうにかすればPCなどで時間毎の真空度を無人でチェックをできそうな気がするが、まあ、そんな予算と技術があればとっくにしている。結局はすべて人力で解決するのが単純なのだ。正解から遠くとも。


 居室に入ってきていたのは研究室の女子学生だった。ここはカードキーがなければ入れない場所なので、研究室に関係する人間でなければそう簡単に入れる場所ではないから、まあ特に意外ではない人物だ。しかし何故この時間に?


 扉の隙間から様子を伺っているので、向こうはこちらの存在に気付いていない。声をかけようか悩んでいると、もう一人研究室に人が入ってくる――教授だった。

 なにか用事でもあったのだろうか――と考える前に、女子学生と教授は抱き合い、キスをした。


 熊谷は眩暈がした。しかし、それほど驚きはなかった。元からそのような噂はあったのだ。教授はその女子学生とそれ以外の学生に対しての扱いの差が露骨だった。女子学生に対しては研究内容の決定から手順まで馬鹿が付くほど丁寧に指導していたが、それ以外の学生に関しては無関心もいいところだった。あの二人は出来ているんだよ、と冗談交じりに雑談したことはあったが、まさか本当にそうとは。

 勘弁してくれ、と思いながら見ていると、二人はそのまま居室のソファに座りながら服を脱ぎだした。


 教授なのにホテル代すらケチるのかよ、と熊谷は思った。しかし何故俺の存在に気が付かないのだ、向こうからもこの部屋の明かりは漏れているというのに。それほどまでに浮かれているのだろうか。


 呆れに呆れた思いで熊谷は装置の前に戻る。椅子に腰を下ろしたところで、ああ、と熊谷は二人が自分に気づかない理由に思い至る。互いが互いに、隣の部屋の電気を点けたと思っているだけだ。教授のことだから、ずっと自室に居たのだろう。あの教授は帰るときになってもこちらに挨拶になど来ない。だから既に帰っていたのだろうと思っていたが、ずっと教授の居室で彼女を待っていたのだ。だから女子学生は隣の部屋の電気を教授が点けたと思っているし、教授は女子学生が居室に戻ってきたときに点けたのだろうと思っているのだ。そんなところだろう。しかしどちらかが気付きそうなものだが。矢張りどちらも浮かれているということか。


 隣の部屋から声が漏れてくる。

 本当に勘弁してくれ。

 この先どんな仕事へ転職することになっても、今夜は多分人生で一番最悪の夜勤になるだろうな、と熊谷は思った。




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