031 淮邑畷戦役
夏侯怜は手を組み地図を眺め沈思黙考している。端から見ている分には、彼女は至極冷静なように見える。家督を継いで初の戦だというのに。齢は五十一。才気煥発の気配はあるが、その分底の知れない老獪さなどはない。無論、戦にとってそれが全てではないとはいえ。
政局という判断から見れば既に失敗だ――と曹興は判断している。相手は
間諜によると、龍殿轟軍の規模は一万五千。これは恐らく龍殿轟軍が動員可能な最大戦力と思われる。最低限の守兵を置いてそれ以外の戦力を此方に向けてきている。講和の可能性がないとは言わないが、まああまり現実的な手ではない。
龍殿轟の領地周辺の勢力への外交も難しい。龍殿轟領南西部に接する勢力は全て当主が人間族である。
それにしても厄介なときに、と曹興は内心で毒吐く。
夏侯家は大陸東北部を漸く半分支配下に置いた
加えて当主の夏侯怜は家督を相続して日が浅い。若くして隠居した先代は本拠地で睨みを効かせているとはいえ――果たして大丈夫だろうか。役割を逆にするべきだったのでは、と曹興は思う。龍殿轟軍一万五千に対して夏侯家は七千。地の利は此方にあるとはいえ楽観などとても出来ない兵力差である。
そしてその軍団長である夏侯怜は先ほどから黙り込んだままだ。
こんなときでなければずっと横顔を眺めているのも吝かじゃないんだがな、と曹興はひとりごちた。彼は家臣とはいえ、幼少の頃からの付き合いがある夏侯怜の三歳上の兄貴分のような存在だった。彼女を嫁にしたいくらい親しく思っているが、譜代の陪臣たる曹家とはいえそれは無理な話であった。あいつが当主でさえなかったらな、というありえない仮定は、既に何度も頭の中で弄んだ内容である。
女性の
軍議の場の他の
夏侯怜に焦りの色がなく、泰然自若の境地であったとしても、だ。わかりやすく慌てていないとはいえ、それは表面上のことにすぎない。自身の処理能力を遙に超える難題を押しつけられたとき、往々にして人は余裕があるような振る舞いをする。その裏で起きていることは単なる思考停止にすぎない。曹興は夏侯怜がそうなっているのではないか、と懸念している。いや、彼に限らずこの場にいる者の大多数はそうだった。
「方針を指示する」
けして大きな声ではなかったが、幕舎に夏侯怜の声は良く通った。
「なんともまあ、すごい眺めですな」
うまい言葉を見つけられなかった曹興は、大した意味の無い言葉を繰り出した。
一面の田圃には、溺死した数多の敵兵の遺体が浮かんでいる。
夏侯怜は五千を率いると
直ちに敵軍に龍殿轟老厳が討死したとの報が流れる。これは急襲部隊が意図的に流した誤報だった。隘路に誘い込まれ誤報によって浮き足だった敵部隊へと夏侯怜は逆襲し、敵は敗走した。それに巻き込まれた敵本隊を追撃し、夏侯怜は一方的な勝利を収めた。
「慌てまくって田圃で溺死者多数。お見事でした」
「お前も内心慌てていただろう、興よ」
夏侯怜は笑いながらそう言った。
「お前が横であんまり落ち着きなくしているのでな、どれだけ放置したら面白いことになるかと笑いを抑えるのに必死だったぞ。軍議の場だというのに」
「は、じゃ、じゃああんなに黙っていたのは」
「許せ、勝ったのだからな。側近を少しからかうことくらいの楽しみは許されるだろう。まあつられて諸将も焦りだしたのでまずいとは思ったがな」
あどけない少女のような顔をして夏侯怜は笑った。
無論怒りなどないが、曹興はそれですべてを許してやる気分になった。まあとはいえ、一応は兄貴分でもあるのだからと対面的に不機嫌を装う。それがまた、美男にからかわれた小娘の態度のようだと後で気付き、更に居心地を悪くした。
大熊猫に跨がり、油を染み込ませた竹の鎧に身につけた女武者はそんな男の様子を見ると、大儀そうに溜息を吐いた。
「これしきのことで慌てている暇などはないぞ。目指すは碧州統一、のちに天下だ」
「天下、ですか」
浮ついた言葉とは思えなかった。
そうさせるだけの自身と覚悟が夏侯怜にはあったし、なにより曹興は
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