029 愛と悲しみの千円札

 井関いぜき恭子きょうこは文字通り頭を抱えていた。

 彼女の友人である日下くさか優々子ゆゆこが余りに愚かであったためである。


「詐欺とかじゃないって! これは絶対に利益のある投資なんだから! ううん、実際的な利益かどうかはわからないけど、これは歴史的に大きな意義のある投資なんだから!」


 優々子はそう力説する。

 この時間の都内のチェーンの喫茶店には彼女たちと同様の話を繰り広げている客が多数いた。その多くが眉唾物の話であり、第三者として聞き耳を立てている分には大いに興味のある話題だったが、けしてその当事者になろうとは思わない。それは恭子にとっても同様だったが、不可抗力的であったとはいえ、彼女はいまそのような状況にある。


「……で、いくら渡したの?」

「200万! とりあえず貯金全部下ろしてきた」


 目眩がした。


「いやそりゃ恭子ちゃんがすぐに信じられないのも無理はありませんよ。だって突飛といえば突飛ですからね」

「まあ信じられないのは確かだけれど」


 この場合、恭子が信じられないと述べた対象は友人の行った軽挙妄動に対してである。無論、優々子の喋る投資とやらについての話には口に出すまでもなく信じていない。検討することすらありえない話であるからだ。


「まあでも――やってきたんですから。そしてその実物がここにあるんですから――これは確実な話なんですよ」


 そう言って自慢気に優々子は喫茶店の机の上に何かを取り出した。

 それは一枚の紙である。丁度紙幣と同じくらいの寸法であり、手触りや様式といったものもそれに近しいつくりであった。


「――どうみても、この未来の千円札に書かれている人物は佐脇さわきくんそっくりでしょう、これは本人に間違いありません! であれば、アメリカへの留学資金を援助することは彼個人にとっても、この日本の歴史に於いても重大な意味を持ちます。ここで私が彼に資金援助をしなかったら、未来の日本の歴史にどれだけ大きな影を落とすことになるのかわかりません! いま私は、いえ私たちは! 歴史上の大きな分水嶺の上に居るのです!」


 恭子は気が遠くなりそうだった。できればそのまま気絶したいところだったが、それに至るには彼女の精神は些か頑強にすぎ、加えて目の前の愚かな友人に対して多少なりとも友情を持っていた。無論、後者の感情に関しては現在進行形で猛烈な勢いで消耗しているのだが。


「ですから恭子ちゃんも! 私と一緒に佐脇くんの資金援助をしましょう!」


 天衣無縫の笑みを浮かべる優々子を見て恭子は力なく笑った。

 少なくとも目の前の友人は自分を欺そうとしているのではないことは確信した。つまるところ、それは目の前の友人が救いがたい程の莫迦であるということでもある。


「あのさ、まずね」

「はい」

「なんでその紙幣に書かれている佐脇くんとやらが、年若い顔なのよ」

「? 若い頃の写真――というか今の写真だとなにかあるんですか?」

「普通、紙幣になる人の顔って、加齢――というか、お札の顔になるだけの功績を上げた頃の写真を使うでしょう、普通。自分の財布の紙幣の顔を見てみなさいよ、どいつもこいつもオジサンばっかでしょうが」

「5000円札は若い女性でしょう!」

「だから、それは若いときにお札になるだけの功績を上げたってことでしょう? 今の佐脇くんはそんな功績、上げてないでしょう。というか、留学する費用に困っている有様なんじゃないのよ。研究とか発明とかじゃなくて文才とかでお札になっているならもう既に有名になってないとおかしいじゃないの」

「佐脇くんがとんでもない若作りだという可能性もあるじゃないですか! それに、未来の基準だと印刷映えを考慮して若いときの写真を使っているのかもしれませんし」

「まあいまさらそんな点を指摘したところで気付くとは思っちゃいないけれど……あと、それ紙幣という割にはすかしとかホログラム処理とか、その手の偽造防止処理がされてないんだけど、どうやって未来の紙幣は偽札対策してんのよ」

「なんか極小のチップを仕込んで磁気的に判別してるらしいです!」

「紙幣にそんなコストかけられないからすかしとか入ってんでしょうが! ていうかそれができるくらいならキャッシュレスとか進んでお札とか刷られてない可能性とかは考えないの?」

「なんだかんだで紙幣ってなくならなそうじゃないですか」

「まあ未来の話だからどうとでも言えるんだけどさ……」


 なんで未来について話しているのにこんなに昏い気分になるのだろうか。

 まあいいわ、と恭子は力なく言った。


「とりあえず、金を出させようってんなら当人を呼んでみなさいよ。電話で」

「恭子ちゃんも疑りぶかいですねー。そんなに言うなら電話かけますよ」


 と言って優々子はその佐脇とやらに電話をかけるが、なんど電話しても繋がる気配はない。


「うーん、この時間なら出るはずなんだけどなあ。LINEも既読つかないし」

「……もう、話は終わりでいいわね」

「も、もうちょっと待ってください、あと200万あれば留学に……!」


 恭子は大きな溜息を吐いて、それから席を立った。

 有り金をむしり取られた友人のこれからを思うと涙が出てくるが、最早彼女に出来ることは目が覚めた友人に警察へ行くことを勧めることだけである。

 これから先の友人の苦難を想像し、せめてこの場の飲み物代を払っておくかと思い、恭子は伝票をもってレジに向かった。被害の総計に比すれば焼け石に水、自らの不甲斐なさを慰めるにしても余りに少ない支援だが、無力とわかっていてもそうしなけばならないと彼女は思った。


 会計は二人分の飲み物代で丁度1000円だった。



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